2009年12月31日木曜日

倫理的な言葉の使用

25日の事だ。
『山椒の実』という近親相姦系のエロ同人誌を読んだ。
この内容がまた類をみないほどディープで読者に対して鬼畜なものだった。
その内容は、同人誌の鬼畜系ファイルを参照してもらいたい。

読後、どうにも消化不良なところがあり何度も頭の中で物語を追っていた。
今さっきまでそうだった。
消化不良、つまりあの物語を思い返すと、どうにもむかついてならない。
なぜだろうか、それを考えていた。
ボクは変態だからたいていのプレイに関して知識があるし、興味も並々ならないほど持ち合わせている。
だから、近親相姦だの輪姦だの羞恥プレイだのに関して、あまり抵抗がない。
むしろ、より大きな興奮を歓迎するつもりでいる。

しかし、もちろんボクなりに意識しているところがある。
それは、言いかえればボクなりのルールやポリシー、倫理にも当たると思われる。
だから、ここで一度、それを文章化して整理してみようと思う。
整理すると言っても、そんな大それたことではない。
とても簡単に済む一つ、二つのルールを提示するだけである。

ひとつに、「喜びのない行為の禁止」である。
ルールというものは少なくともそれを享受するに値する人間にのみ当てはめることができるのであって、ルールを享受することに値しない人間、もしくはそれを喜ばしく思わない人間に押しつけることはしない。
たとえば、人妻を強姦しようとする。
相手もその気ならば、ボクはそれを「あり」と判定するだろう。
しかし、彼女の良心を傷つけるものならば決して許される行為ではない、そう考える。
サッカーはサッカー好きでやればよいのだ。
これは、ボク個人はもちろん、一般的にも理解を示してもらうことのできるルールではないだろうか。

ひとつに、「輪姦の禁止」である。
これは、第一のルールとは打って変わって、ボク個人の思いが反映されている。
ボクはチームが苦手だから、たとえ女を襲おうという展開になっても、誰かと組んでやるということはしないと思う。
個人をこよなく愛するボクなら強姦のときもひとりだろう。

これぐらいだろうか。
ルールというか「趣」になったのかも。
「ボク好み」とも言い換えられる。

しかし、絶対に公表したいと思ったのは、第一のルールである。
ボクが強姦においてもあれを適用させろと言ったのは、「強姦のなかにも倫理がある」ということを知ってもらいたかったからである。
言っておくがこれは、ただのきれいごとではない。
強姦にもある程度の「縛り」、つまりルールが存在している方が粋だと思うからだ。
花魁は、遊女であり、売春宿の高級売春婦でありながら、気高いほどのルールと上流階級の教養を身にまとっていた。
それにより、並みの客では金銭的にも教養的にも決して手が出せなかった。
そして、それがその時代の常識であった。
「花魁のルール」の存在をボクは素敵だと思っている。
ルールがあるからこそ、何かどっと溢れ出んばかりの情熱をこの身に込めることができる。
なかなか表現しにくいが、きっとルールの縛りは一種のマゾヒズムに浸ることができ、高揚感に浸ることのできる手段なのだろう。

強姦のルールがもし社会的に常識と化し、一種の空気になったとしたら、世の中の質は確実に変わる。
もし、女子高生が男数人に輪姦されたとする。
輪姦している最中に、女子高生の気分はまったく高まらず、性的興奮も起きなかったら、男たちはその場で手をついて謝りだすかもしれない。
ボクはそういう場面を面白いと思うし、それ以上に素敵な社会だと思う。


ルールといっても、やはり明記できない部分もある。
ボクが『山椒の実』の読後に感じたむかつきもボク自身が消化するのに2日を要した。
裏を返せば、ルールが無意識化する、マニュアルがオートになる、それがボクの理想体である。
それには、細かなところまで指摘して、やっとボクのむかつきは収まるのだろう。
あのむかつきの根本についても言及しておこう。
つまり、その細かな指摘である。

あのとき感じたのは、哀れでもなく悲しみでもなく、むかつき、苛立ちであった。
それは、「無責任な言葉」への疳癪だった。
ボクの倫理は、特に言葉に向けられるものが多い。
それは、ボクが読書や書道、詩、歌など言葉好きだからであり、言葉に対する責任にもたいへんこだわる主義だからだ。
言葉はコミュニケーションの主柱だ。
だから、たいへん慎重に扱わなければならない。
ボクはそれを言霊信仰と同等の信仰だと考えている。
その信仰はやはり自己教育の賜物であると思う。
ボクの根幹をなす倫理思想は今も変わらず新渡戸稲造の『武士道』に依拠しており、『武士道』の「緊張」を至高の倫理にしたいぐらいに思っている。
武士は自分の言葉に命を懸けているという。
これは、言葉を扱ううえで最高の倫理ではないだろうか。
日ごろ使う言葉と滅多に持ち出さない命を同等に扱う。
これほど潔いと感じるものはない。
ボクはこれを、人生を懸けて実践しようと思っている。
そんなボクにとって、『山椒の実』のなかで結果的に悲劇的結果を生み出す安易な言葉遣いには我慢ならないところがあったのだ。
あの作品は、悲劇としてとても素晴らしい内容である。
もちろん、そういう芸術の視点もボクは持ち合わせているつもりだが、やはり染みついた倫理はあの言葉の安易な使い方に牙を立ててしまうようだ。

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