「他人の批評」は若い頃には必要ないものかもしれない。
いや、むしろ害悪な対象であるかもしれない。
ボクは批評とは「他人の視点から生み出される関係性」であると考えている。
注意してほしいのは他人からしか批評は生まれない事実である。
自身の批評は客観性から生まれるのである。
反対に主観性からは自己への肯定が生まれるのである。
考えれば人間、間違った行動をわざと取ろうとはしないものである。
過ちは客観性からの批判によって決まるのだ。
そこで働くのが社会的な一般意思だ。
一般意思とはみんなが信じるもの、みんなが守るものを感じ取っている機関だ。
前々項のなぜ「かもしれない」の表現を説明したい。
先述の通り批評は外部からの指示だ。
それならば、若年層であるボクがそれを断定することはできないと考えたからだ。
批評についてまた付け加えるとすれば、「正しい批評は過去も現在も行えない」ということだ。
つまり、起こりうることは「未来においてのみ批評できる」のである。
しかし、ボクはそのためにも過ちとわかっていながも「今に自分の意見を主張する」ことを推進したい。
それは未来に過去を見直すための練習であり、「修正」という全人類における命題を失わないためだ。
だから、ボクは他人の批評は若いころには見ない方がよいと主張するのである。
徹頭徹尾の自分の意見というものを身につけるまでは他人の批評は毒にすぎない。
若い頃には他人の批評に影響されないためにだ。
よって、若者には他人の批評など必要はないのだ。
もっと、間違った批評をしよう。
2009年3月31日火曜日
2009年3月29日日曜日
発想と知識のリンク
発想は自分の持つ知識から繋げていくことが常道ではないだろうか。
自分の知識は無論、学校で教育され蓄積した知識と自分の趣味で培ってきた知識とに分かれる。
たいていの大人は後者の知識を知識というのではなかろうか。
自分の好みに合わない知識などもつ意味もない、と考えるのが普通だろう。
しかし、知はどのような場合も単体ではなく複合体だ。
その総合的性質は全体性をひとつの知識のなかにも根付いている。
そう考えると知のリンクは留まらない。
もはや絶滅した知識人や万能人はそれを知るまでもなく、その地位に就いていた。
なにせ学問の全体性がまだ当然の如くあった時代だ。
それに引き換え、今は学問の専門が多分化し全体性は理想として論じられている。
過去の知識人や万能人の時代はまだそれが起こっておらず、知識人ゲーテの時代19世紀からその学問の多分化が始まったとされる。
軌道修正して話をもどそう。
発想はリンクを介してではないと自らの意見として生まれてこないものとボクは見ている。
そのためにはひとつのジャンルの知識を得ていくのではなく、好みのジャンルの定規でもって別のジャンルにリンクを広げるべきであろう。
少しずつ先ほどのボクのように少しずつ「軌道をずらしていく」ことが必要になる。
軌道をずらしてずらして、どんどん全体性を背負える状態に達したと言える。
それはなぜ必要か。
ひとつのジャンルを専門として研究していくのは結構なのだが、そうするとどうしても視野が狭くなってしまいかねない。
もっと、ホームから飛び出して初心者で新天地を渡り歩くことが必要なのだ。
そうしないと専門分野の研究も正しい方向から逸れていくことになる。
それは独創性の排他ではなくむしろ矛盾点の改善のような感覚である。
知識というのは全体であった時代の方が長く、どんどん専門化していったとはいえ、意識を持ってこうも細かく分解されたのはここ200年以内の話だ。
もちろん、これはあくまで発想の問題であり、発想がある程度の制御下にあるための助言であることを忘れてはならない。
そして、いま書いたこの文章を誤って捉えてほしくないがために、助言の注釈をするとすれば、「発想の制御」とはあくまで「論理を正しく運ぶこと」であり、とんでもない発想の否定を意味しないのだ。
発想の問題であることも注釈の一つである、知識の蓄積に関してはむしろ別ジャンルの書籍を渡り歩くことが大事だろう。
知識のリンクを別方向からも張り巡らすことができ、またジャンルが別であることから発想の刺激ともなる。
哲学と植物学を同時に紐解き、それらをリンクして理解し自分が新たな知を作り出す、それがクリエイティブということではないか。
要すると、発想は1→2が必定だが、知識は1のマスを塗りつぶし、次は8のマスを塗りつぶすような行いが創造的であるということだ。
そこをきちんと押さえて日々の思索を練りたいものだ。
自分の知識は無論、学校で教育され蓄積した知識と自分の趣味で培ってきた知識とに分かれる。
たいていの大人は後者の知識を知識というのではなかろうか。
自分の好みに合わない知識などもつ意味もない、と考えるのが普通だろう。
しかし、知はどのような場合も単体ではなく複合体だ。
その総合的性質は全体性をひとつの知識のなかにも根付いている。
そう考えると知のリンクは留まらない。
もはや絶滅した知識人や万能人はそれを知るまでもなく、その地位に就いていた。
なにせ学問の全体性がまだ当然の如くあった時代だ。
それに引き換え、今は学問の専門が多分化し全体性は理想として論じられている。
過去の知識人や万能人の時代はまだそれが起こっておらず、知識人ゲーテの時代19世紀からその学問の多分化が始まったとされる。
軌道修正して話をもどそう。
発想はリンクを介してではないと自らの意見として生まれてこないものとボクは見ている。
そのためにはひとつのジャンルの知識を得ていくのではなく、好みのジャンルの定規でもって別のジャンルにリンクを広げるべきであろう。
少しずつ先ほどのボクのように少しずつ「軌道をずらしていく」ことが必要になる。
軌道をずらしてずらして、どんどん全体性を背負える状態に達したと言える。
それはなぜ必要か。
ひとつのジャンルを専門として研究していくのは結構なのだが、そうするとどうしても視野が狭くなってしまいかねない。
もっと、ホームから飛び出して初心者で新天地を渡り歩くことが必要なのだ。
そうしないと専門分野の研究も正しい方向から逸れていくことになる。
それは独創性の排他ではなくむしろ矛盾点の改善のような感覚である。
知識というのは全体であった時代の方が長く、どんどん専門化していったとはいえ、意識を持ってこうも細かく分解されたのはここ200年以内の話だ。
もちろん、これはあくまで発想の問題であり、発想がある程度の制御下にあるための助言であることを忘れてはならない。
そして、いま書いたこの文章を誤って捉えてほしくないがために、助言の注釈をするとすれば、「発想の制御」とはあくまで「論理を正しく運ぶこと」であり、とんでもない発想の否定を意味しないのだ。
発想の問題であることも注釈の一つである、知識の蓄積に関してはむしろ別ジャンルの書籍を渡り歩くことが大事だろう。
知識のリンクを別方向からも張り巡らすことができ、またジャンルが別であることから発想の刺激ともなる。
哲学と植物学を同時に紐解き、それらをリンクして理解し自分が新たな知を作り出す、それがクリエイティブということではないか。
要すると、発想は1→2が必定だが、知識は1のマスを塗りつぶし、次は8のマスを塗りつぶすような行いが創造的であるということだ。
そこをきちんと押さえて日々の思索を練りたいものだ。
2009年3月25日水曜日
これからの女性論
「女子高生のストラップ」
女子高生がケータイのみならずバッグにも多くのストラップを付けているのを見た。
邪魔ではないのか、そう思えてくるほどだ。
ケータイから始まった彼女たちのストラップ文化は始まって10年以上経つだろう。
ストラップ文化を語る上でもっとも特徴的な点はその量である。
そこでは量的であることから粗雑な美意識を感じてしまう。
それは日本的な可愛らしさや日本的な美しさはあくまで「引き算」なのである。
では、なぜ可愛らしさを追い求める女子高生がそれに逆らうようのか。
それはここ20年間の女子高生がオス化していることが結論だろう。
女性が自らの力で生きていく社会ができている証拠だ。
そもそも可愛らしさはなぜ必要か。
その表現の先にあるのは何か。
それは異性であろう。
いや、適切に表現すれば現代の異性である。
かつての男性は家庭的な女性に魅かれていたのかもしれない。
それはまさに「家内」という呼称に意味されるように家の中にいる者であり、優しく弱々しい性格をよしとした。
しかし、いまや経済的にも男性だけでは家庭を支えることは難しい。
そうなると外の世界でも生きていける力を持つ女性が生まれる。
女性のあるべき性格のなかに「生き残るための力」が新入した。
現在はまだ過渡期のためかそれを非難する声もあるが数十年経てば社会的で職場で働ける女性こそが女性的であるとされるようになるだろう。
アマゾネス的な、男性的な女性像がボクには目に浮かぶ。
ストラップはまさに力強さ、荒々しさ、男性的な感性を表現し、過去の女性像からの脱却を意味しているのだろう。
そして、かつて流行した女子高生のメイクと言えば「ガングロ」、「ヤマンバ」だ。
あれこそ「カブキ」文化の再興であり、あのガングロでルーズソックスを履き、ケータイには大量のストラップを付けた姿にはバサラの風潮を感じていた。
いまや絶滅したが、それでも今、流行のキャバクラ嬢のメイク手法や髪型は力強さを感じさせ、ガングロの後継者とも取れる。
いま、女性に力強さ、積極的な社会性を求められていることは確かであり、社会全体がそれを擁護する姿勢にある。
ただ、注意する点は女性の社会進出が男性のものと同じように進むかと言えばそうではないだろうということである。
女性の発想や価値観が男性とは異なる点があることを留意して政策を練らないと下手なフェミニズム論を展開させてしまうだけである。
また、女性の社会進出に伴う男性の行き場にも注意が必要だろう。
いまは過渡期にあるが故に楽しい時期だ。
女子高生がケータイのみならずバッグにも多くのストラップを付けているのを見た。
邪魔ではないのか、そう思えてくるほどだ。
ケータイから始まった彼女たちのストラップ文化は始まって10年以上経つだろう。
ストラップ文化を語る上でもっとも特徴的な点はその量である。
そこでは量的であることから粗雑な美意識を感じてしまう。
それは日本的な可愛らしさや日本的な美しさはあくまで「引き算」なのである。
では、なぜ可愛らしさを追い求める女子高生がそれに逆らうようのか。
それはここ20年間の女子高生がオス化していることが結論だろう。
女性が自らの力で生きていく社会ができている証拠だ。
そもそも可愛らしさはなぜ必要か。
その表現の先にあるのは何か。
それは異性であろう。
いや、適切に表現すれば現代の異性である。
かつての男性は家庭的な女性に魅かれていたのかもしれない。
それはまさに「家内」という呼称に意味されるように家の中にいる者であり、優しく弱々しい性格をよしとした。
しかし、いまや経済的にも男性だけでは家庭を支えることは難しい。
そうなると外の世界でも生きていける力を持つ女性が生まれる。
女性のあるべき性格のなかに「生き残るための力」が新入した。
現在はまだ過渡期のためかそれを非難する声もあるが数十年経てば社会的で職場で働ける女性こそが女性的であるとされるようになるだろう。
アマゾネス的な、男性的な女性像がボクには目に浮かぶ。
ストラップはまさに力強さ、荒々しさ、男性的な感性を表現し、過去の女性像からの脱却を意味しているのだろう。
そして、かつて流行した女子高生のメイクと言えば「ガングロ」、「ヤマンバ」だ。
あれこそ「カブキ」文化の再興であり、あのガングロでルーズソックスを履き、ケータイには大量のストラップを付けた姿にはバサラの風潮を感じていた。
いまや絶滅したが、それでも今、流行のキャバクラ嬢のメイク手法や髪型は力強さを感じさせ、ガングロの後継者とも取れる。
いま、女性に力強さ、積極的な社会性を求められていることは確かであり、社会全体がそれを擁護する姿勢にある。
ただ、注意する点は女性の社会進出が男性のものと同じように進むかと言えばそうではないだろうということである。
女性の発想や価値観が男性とは異なる点があることを留意して政策を練らないと下手なフェミニズム論を展開させてしまうだけである。
また、女性の社会進出に伴う男性の行き場にも注意が必要だろう。
いまは過渡期にあるが故に楽しい時期だ。
2009年3月22日日曜日
人間の野性を確認すると何かが変わる
一日の日程を書いてみると目覚めから始まり定期的な食事や排泄、そして睡眠に至る。
人間らしい行動はその間にとっていることがわかる。
我々人類もやはり生物の一種であり、いくら文化や文明を唱えても自身の生理現象を無視することはできない。
それを根底にした文化や文明でないと日常の実践は不可能であり、無意味な「きれいごと」にしかならない。
食事という生理作用からは、人類であれば必ず他の生物を殺さなければならない原理があるのだ。
それはステーキを食べている人も菜食主義者も関係ない。
食事、そこには必ず「殺し」が含まれている。
排泄や呼吸は自分だけで済ませられるから事足りるが、食事は「他者を殺さなければならない」行為だ。
「殺し、殺され、殺さず」
これがボクの食事の、人生を通しての食事に対する信条だ。
むしろ獣としての人間の生き方そのものかもしれない。
しかし、考えてみるとライオンも人間も、上の通りの生き方をしているのだ。
野蛮で食欲旺盛なイメージとは裏腹にライオンも食後は目の前をシマウマが通り過ぎてもなにもしないものだ。
「殺さず」は人間の特権のようで、ずっと昔から受け継がれてきた獣の遺志なのだ。
むしろ、我々、人類は「殺さず」をもう一度見なおすべきではないか。
無為自然とまで言い切りたくはないが、殺さない努力、戦わない努力は生きる上で必要不可欠だ。
それを見失うと我々の言う典型的な獣と化してしまう。
人間らしい行動はその間にとっていることがわかる。
我々人類もやはり生物の一種であり、いくら文化や文明を唱えても自身の生理現象を無視することはできない。
それを根底にした文化や文明でないと日常の実践は不可能であり、無意味な「きれいごと」にしかならない。
食事という生理作用からは、人類であれば必ず他の生物を殺さなければならない原理があるのだ。
それはステーキを食べている人も菜食主義者も関係ない。
食事、そこには必ず「殺し」が含まれている。
排泄や呼吸は自分だけで済ませられるから事足りるが、食事は「他者を殺さなければならない」行為だ。
「殺し、殺され、殺さず」
これがボクの食事の、人生を通しての食事に対する信条だ。
むしろ獣としての人間の生き方そのものかもしれない。
しかし、考えてみるとライオンも人間も、上の通りの生き方をしているのだ。
野蛮で食欲旺盛なイメージとは裏腹にライオンも食後は目の前をシマウマが通り過ぎてもなにもしないものだ。
「殺さず」は人間の特権のようで、ずっと昔から受け継がれてきた獣の遺志なのだ。
むしろ、我々、人類は「殺さず」をもう一度見なおすべきではないか。
無為自然とまで言い切りたくはないが、殺さない努力、戦わない努力は生きる上で必要不可欠だ。
それを見失うと我々の言う典型的な獣と化してしまう。
2009年3月20日金曜日
アニメ
そこに若年層の特徴がすべてあると言ってもよい。
そのジャンルの広さは文学の広さと肩を並べるほどになるだろう。
10年後にはアニメは大学の専門学科となるかもしれない。
ここで気になるのが「アニメ」がアニメーションのことを指さず、サブカルとしてのアニメというところだ。
言語論から言えば文化に根付いた概念は多用されるために略称が多く生じその度に少しずつ意味のズレが起こる。
この定義の曖昧な言葉こそ社会で氾濫する原因となる。
その言葉は浮いた言葉、生きた言葉だ。
辞書のなかで定義を固定している言葉はある意味死んでいるのではないか。
言語論はここまでとしてアニメがどのように若年層の特徴を表しているのかを論じてみよう。
たとえば、恋愛観についてだ。
その一種をアニメから得ている人間は多いのではないか。
確実なデータこそないが、ボクが学校で聞いている限りはアニメを多かれ少なかれ観ている男子生徒は8割以上だ。
また今ではゴールデンタイムで放送されるドラマも漫画を原作としたものがとても多い。そのことからもアニメから恋愛を覚えた人間は多いだろう。
「萌え」がブーム化や商品化してからは萌えの氾濫が目立ち、それを基とした恋愛も一種のステレオタイプとなった。
なにせアニメのなかのヒロインは理想であることは間違いないだろう。
声優の声、萌えを基とした顔立ち、そのキャラクター、そのニーズに応じた一作のなかにおける女子の種類の多さはまさに男子のためにあると言ってもよいだろう。
声優と言えば今はまさに声優ブームの時代だ。
このブームは第2期になるのだろうか。
声優アイドルという職種の人気は大きく、小学生でも将来の夢を「声優さん」と書く子も多いという。
それはアニメという入りやすさから、またそのアニメのキャラクターとアイドル自身を同一視してしまうからだろう。
声の持つ力は引き算の力だ。
声優は声が命だ。
声優自身の映像はむしろ有害だ。
声優アイドルというのはその部分で新しいが、少々頂けない。
声にビジュアルは必要ないのだ。
声は音だけに伝えられるものがあり、それを絵で強化しようとすれば力は失われるのだろう。
まあ、しかしそのアイドルと同一視することによってアニメで恋を学ぶ、いや、当人はアニメに恋しているのだろう。
しかし、これは奇抜なことを言っているわけではない。
漫画やアニメ、小説やTVドラマなどから恋愛に関しての影響を受けている世代の幅は大きい。
恋愛とはそもそもサブカルチャーだったのだ。
どんな時代でも堂々と恋を叫ぶことは青臭く、青年のすることと決まっているようだ。
それは年齢としての青年ではない。
観念としての青年だ。
青年らしさと言い換えてもいい。
アニメから入り恋に乗じる。
新しい文化時代の恋愛方法なのかもしれない。
以上!
そのジャンルの広さは文学の広さと肩を並べるほどになるだろう。
10年後にはアニメは大学の専門学科となるかもしれない。
ここで気になるのが「アニメ」がアニメーションのことを指さず、サブカルとしてのアニメというところだ。
言語論から言えば文化に根付いた概念は多用されるために略称が多く生じその度に少しずつ意味のズレが起こる。
この定義の曖昧な言葉こそ社会で氾濫する原因となる。
その言葉は浮いた言葉、生きた言葉だ。
辞書のなかで定義を固定している言葉はある意味死んでいるのではないか。
言語論はここまでとしてアニメがどのように若年層の特徴を表しているのかを論じてみよう。
たとえば、恋愛観についてだ。
その一種をアニメから得ている人間は多いのではないか。
確実なデータこそないが、ボクが学校で聞いている限りはアニメを多かれ少なかれ観ている男子生徒は8割以上だ。
また今ではゴールデンタイムで放送されるドラマも漫画を原作としたものがとても多い。そのことからもアニメから恋愛を覚えた人間は多いだろう。
「萌え」がブーム化や商品化してからは萌えの氾濫が目立ち、それを基とした恋愛も一種のステレオタイプとなった。
なにせアニメのなかのヒロインは理想であることは間違いないだろう。
声優の声、萌えを基とした顔立ち、そのキャラクター、そのニーズに応じた一作のなかにおける女子の種類の多さはまさに男子のためにあると言ってもよいだろう。
声優と言えば今はまさに声優ブームの時代だ。
このブームは第2期になるのだろうか。
声優アイドルという職種の人気は大きく、小学生でも将来の夢を「声優さん」と書く子も多いという。
それはアニメという入りやすさから、またそのアニメのキャラクターとアイドル自身を同一視してしまうからだろう。
声の持つ力は引き算の力だ。
声優は声が命だ。
声優自身の映像はむしろ有害だ。
声優アイドルというのはその部分で新しいが、少々頂けない。
声にビジュアルは必要ないのだ。
声は音だけに伝えられるものがあり、それを絵で強化しようとすれば力は失われるのだろう。
まあ、しかしそのアイドルと同一視することによってアニメで恋を学ぶ、いや、当人はアニメに恋しているのだろう。
しかし、これは奇抜なことを言っているわけではない。
漫画やアニメ、小説やTVドラマなどから恋愛に関しての影響を受けている世代の幅は大きい。
恋愛とはそもそもサブカルチャーだったのだ。
どんな時代でも堂々と恋を叫ぶことは青臭く、青年のすることと決まっているようだ。
それは年齢としての青年ではない。
観念としての青年だ。
青年らしさと言い換えてもいい。
アニメから入り恋に乗じる。
新しい文化時代の恋愛方法なのかもしれない。
以上!
2009年3月15日日曜日
たとえば心を考える
「心とはなにか?」といった禅問答はどうしても大規模な思考に発展し、閉塞した哲学的症状に陥ってしまう。
つまり、凡人としては閃きなしには平凡な答えを出すか、もしくは過去の哲人の金言を引用するほかないであろう。
心を形而上学的に解明しようとすれば深い思索と議論が必要であるだろう。
一応の答えを出すのでさえ長い時間が必要なのである。
しかし、その心の不透明さこそが何か我々の人間性を根源的に突き動かす原動力なのであろうとボクは直観的に理解している。
それは美学に顕著に表れている。
いや、美学そのものの答えとなろうであろう問題だ。
「この彫刻は美しい、しかし、作品の表情は悲しそうだ。」
そう感じたときの根拠は何か全くわからない、これが心の在り方である。
しかし、この心の価値は計り知れない。
この心の変動次第で心の持ち主の未来が決まるのだから、この心を知ることには絶大な意義があるように感じる。
その心の所在はいままで様々な候補が挙げられてきた。
丹田、ハート、脳、遺伝子など人間を突き動かす根源はいまだに定かではない。
少なくとも、それがわかろうとする働きも心に違いないのだろうと思う。
以上!
つまり、凡人としては閃きなしには平凡な答えを出すか、もしくは過去の哲人の金言を引用するほかないであろう。
心を形而上学的に解明しようとすれば深い思索と議論が必要であるだろう。
一応の答えを出すのでさえ長い時間が必要なのである。
しかし、その心の不透明さこそが何か我々の人間性を根源的に突き動かす原動力なのであろうとボクは直観的に理解している。
それは美学に顕著に表れている。
いや、美学そのものの答えとなろうであろう問題だ。
「この彫刻は美しい、しかし、作品の表情は悲しそうだ。」
そう感じたときの根拠は何か全くわからない、これが心の在り方である。
しかし、この心の価値は計り知れない。
この心の変動次第で心の持ち主の未来が決まるのだから、この心を知ることには絶大な意義があるように感じる。
その心の所在はいままで様々な候補が挙げられてきた。
丹田、ハート、脳、遺伝子など人間を突き動かす根源はいまだに定かではない。
少なくとも、それがわかろうとする働きも心に違いないのだろうと思う。
以上!
2009年3月11日水曜日
サブカルチャーの大衆的流行
たとえば、秋葉原。
あれが「アキバ」としてオタクブームの中心地としてメディアに取り上げられるようになって久しい。
正直なところのボクの感想を述べたい。
正味、ああいう場所は、本当は世間で流行してはいけないのだと思う。
ひっそりとしていればよかった。
しかし、サブカルチャーの暴露が2000年代から爆発的に増えて、それがヒットし、常識と化した。
その勢いは狂気さながらだ。
そこにボクは危険性を感じる。
サブカルチャーの暴露、下流文化のブームは「知の新開拓地」であるとボクは感じると共に「文化ドラッグの流通」が起こるのではないか。
いや実際すでに起こっているだろう。
例えば、お笑いブーム。
これはもうブームというよりお笑いの文化としての上場だ。
メディアが視聴率をとるために利用した「笑い」の暴走、それは数十年前とは違い、インターネットを主とした情報技術の展開と同時進行で広がっていく。
圧倒されるのはバラエティー番組だ。
バラエティーがテレビのゴールデンタイムを平気で占め、野球中継もかつてに比べれば少なくなったのではないか。
未だ体系づけられていなかった「お笑い」は文化としても認めておられず、サブカルチャー中のサブカルチャーのはずだ。
それがいま、若手のライブに来るのはお笑いオタクよりも若者、それも女性客も多い。
10年前でさえ考えられないことだ。
かつてのラママのコーラスラインはひどく、素人同然の人間が舞台で芸をするという状況であったらしい。
見に来ていたのはすべてお笑いオタク。
それに比べれば今のお笑いブームを沸かせる若手お笑い芸人の芸は本当の芸だろう。
若手と言っても素人ではない、それなりに完成さして舞台に臨んでいるはずだ。
お笑いに代表されるように「商品としてのサブカルチャー」が注目されてしまったことが問題だ。
タレントが自らのフェチを暴露する、アニメが深夜番組として着目される、オタクの聖地「アキバ」がワイドショーで取材され観光地化する。
これらすべて、テレビを中心とした「メディアによるサブカルチャーの商品化」だ。
本当のサブルチャーは「あってもいいけど無くていい」というポジションにいなければならない。
(実際、消滅寸前の少数派のサブカルチャーというのは必ずある。)
そうしないと世の中に余裕がなくなる。
残すべき余白、世間が把握しきれない新大陸というのは社会がわざとでも確保しておくべきなのだ。
今、サブカルチャー問題のみならず、しかし、同様に社会に余裕がない。
金銭面の余裕ではなく、人間性としての余裕がないのだろう。
以上!
あれが「アキバ」としてオタクブームの中心地としてメディアに取り上げられるようになって久しい。
正直なところのボクの感想を述べたい。
正味、ああいう場所は、本当は世間で流行してはいけないのだと思う。
ひっそりとしていればよかった。
しかし、サブカルチャーの暴露が2000年代から爆発的に増えて、それがヒットし、常識と化した。
その勢いは狂気さながらだ。
そこにボクは危険性を感じる。
サブカルチャーの暴露、下流文化のブームは「知の新開拓地」であるとボクは感じると共に「文化ドラッグの流通」が起こるのではないか。
いや実際すでに起こっているだろう。
例えば、お笑いブーム。
これはもうブームというよりお笑いの文化としての上場だ。
メディアが視聴率をとるために利用した「笑い」の暴走、それは数十年前とは違い、インターネットを主とした情報技術の展開と同時進行で広がっていく。
圧倒されるのはバラエティー番組だ。
バラエティーがテレビのゴールデンタイムを平気で占め、野球中継もかつてに比べれば少なくなったのではないか。
未だ体系づけられていなかった「お笑い」は文化としても認めておられず、サブカルチャー中のサブカルチャーのはずだ。
それがいま、若手のライブに来るのはお笑いオタクよりも若者、それも女性客も多い。
10年前でさえ考えられないことだ。
かつてのラママのコーラスラインはひどく、素人同然の人間が舞台で芸をするという状況であったらしい。
見に来ていたのはすべてお笑いオタク。
それに比べれば今のお笑いブームを沸かせる若手お笑い芸人の芸は本当の芸だろう。
若手と言っても素人ではない、それなりに完成さして舞台に臨んでいるはずだ。
お笑いに代表されるように「商品としてのサブカルチャー」が注目されてしまったことが問題だ。
タレントが自らのフェチを暴露する、アニメが深夜番組として着目される、オタクの聖地「アキバ」がワイドショーで取材され観光地化する。
これらすべて、テレビを中心とした「メディアによるサブカルチャーの商品化」だ。
本当のサブルチャーは「あってもいいけど無くていい」というポジションにいなければならない。
(実際、消滅寸前の少数派のサブカルチャーというのは必ずある。)
そうしないと世の中に余裕がなくなる。
残すべき余白、世間が把握しきれない新大陸というのは社会がわざとでも確保しておくべきなのだ。
今、サブカルチャー問題のみならず、しかし、同様に社会に余裕がない。
金銭面の余裕ではなく、人間性としての余裕がないのだろう。
以上!
2009年3月10日火曜日
記憶を読み返す
ボクの記憶のなかでは夏は常に青空、それも理想的な青空である。
入道雲があり海があり林がある。
白があり青があり緑がある。
田舎育ちのボクだから典型的な夏休み像が出てくる。
海で泳いだり、山で虫を捕まえたり、中学校の頃は太陽が照りつけるなか田んぼ道を自転車で
走って部活動から帰っていくところだったりする。
やはり嫌な思い出というのは勝手に頭が消去してくれるようだ。
あまり覚えていない。
そうなっていなかったら人間はストレスでおかしくなっているのかもしれない。
ただ、書き記したもののなかにいやな思い出というのはたまにだがあるのだ。
中学3年生のときボクは手書きの日記をつけていた。
まだ手元に残してある。
字体もそうだが内容というより文章が下手で読んでいて失笑ものだ。
いまから思い返すとあれは日記というより100字程度のとても短いエッセーであった。
それの半分は一日の反省で半分はただの愚痴であった。
そのなかにこうあった。
「かっこつけんな」と言われた。
それを読んだとき、あの時にひどく落ち込んだことを思い出し、また落ち込んだ。
あいかわらず、ボクはナイーブや繊細と言えば詩人のようなイメージだが本当に根暗で内気な人間のようだ。
その証拠にまたここでも愚痴っている。
ちょっとしたことで一喜一憂し、ちょっとの勇気も出せない。
出せないことに悔しささえ感じず人生に対する諦観を常に持ち合わせている。
それに救われてもきたが陥れられたこともしばしばある。
結局のところ、自分の性格というものとは一生戦い続けなくてはいけないらしい。
それはどう努力して人間性を磨いても変わりようのないことだろう。
苦しさから逃れるのではなく、常にそこに居続けなければならない。
“一切皆苦”
自分を貫き通すことに今、こう憧れを覚えているのはその内気さのせいだろう。
自分に欠けているものが欲しくて欲しくて堪らないのだろう。
スティーブ・ジョブズに熱狂するのも、マキシマムザホルモンに傾倒するのも主体性、それも個性的な個性が欲しいがためだ。
なにかで聞いた、「ロックは文系の人間が聴くものだ」、と。
文系とは文学少年を意味するのだろう。
人間との会話が苦手で本との会話しかできないような引きこもり型の文学少年を。
そういう少年は少し経つとアンダーグラウンドで爆発するようになることがある。
それがロックだ。
ロックの反骨精神は内容こそ外部との遮断であり、その表現そのものは極端な接触だ。
暴力的な歌詞や激しいメロディー、強烈なヴィジュアル、危ないパフォーマンスどれもが上記の通りだ。
それがいまのボクなのだろうとシミジミ思った。
以上!
入道雲があり海があり林がある。
白があり青があり緑がある。
田舎育ちのボクだから典型的な夏休み像が出てくる。
海で泳いだり、山で虫を捕まえたり、中学校の頃は太陽が照りつけるなか田んぼ道を自転車で
走って部活動から帰っていくところだったりする。
やはり嫌な思い出というのは勝手に頭が消去してくれるようだ。
あまり覚えていない。
そうなっていなかったら人間はストレスでおかしくなっているのかもしれない。
ただ、書き記したもののなかにいやな思い出というのはたまにだがあるのだ。
中学3年生のときボクは手書きの日記をつけていた。
まだ手元に残してある。
字体もそうだが内容というより文章が下手で読んでいて失笑ものだ。
いまから思い返すとあれは日記というより100字程度のとても短いエッセーであった。
それの半分は一日の反省で半分はただの愚痴であった。
そのなかにこうあった。
「かっこつけんな」と言われた。
それを読んだとき、あの時にひどく落ち込んだことを思い出し、また落ち込んだ。
あいかわらず、ボクはナイーブや繊細と言えば詩人のようなイメージだが本当に根暗で内気な人間のようだ。
その証拠にまたここでも愚痴っている。
ちょっとしたことで一喜一憂し、ちょっとの勇気も出せない。
出せないことに悔しささえ感じず人生に対する諦観を常に持ち合わせている。
それに救われてもきたが陥れられたこともしばしばある。
結局のところ、自分の性格というものとは一生戦い続けなくてはいけないらしい。
それはどう努力して人間性を磨いても変わりようのないことだろう。
苦しさから逃れるのではなく、常にそこに居続けなければならない。
“一切皆苦”
自分を貫き通すことに今、こう憧れを覚えているのはその内気さのせいだろう。
自分に欠けているものが欲しくて欲しくて堪らないのだろう。
スティーブ・ジョブズに熱狂するのも、マキシマムザホルモンに傾倒するのも主体性、それも個性的な個性が欲しいがためだ。
なにかで聞いた、「ロックは文系の人間が聴くものだ」、と。
文系とは文学少年を意味するのだろう。
人間との会話が苦手で本との会話しかできないような引きこもり型の文学少年を。
そういう少年は少し経つとアンダーグラウンドで爆発するようになることがある。
それがロックだ。
ロックの反骨精神は内容こそ外部との遮断であり、その表現そのものは極端な接触だ。
暴力的な歌詞や激しいメロディー、強烈なヴィジュアル、危ないパフォーマンスどれもが上記の通りだ。
それがいまのボクなのだろうとシミジミ思った。
以上!
2009年3月6日金曜日
一般意思
「一般意思」は正義や平等の精神の裏付けであり、それは「常識」と安易に呼ばれる社会的概念でもある。
人類すべてが持ち合わせているとなるとその根源は本能であるだろう。
ただ、それは理性的な意思でもある。
いや、理性という概念自体も世界的に見て一般で、人種的な差異や地域的な差異があまりない。
むしろ、人類すべてに備わっているとなれば決して非の打ちどころのない脳内の聖域ように思える。
「言葉では伝えられない感覚」は書けば神秘的な印象を受けるが、それは至って日常的な感覚だ。
たとえば“下ネタ”。
下ネタを出す瞬間、それこそデリカシーやモラルと呼ばれる一般意思が働く瞬間だろう。
下ネタはモラルからの脱却ではないのだろう。
むしろ、モラルの延長線上にあるが故の笑いの方法だろう。
それは嘲笑を求める人間に対する侮蔑に似せた賞賛の笑みなのだ。
下ネタ、それは真に厳しく笑いを追求する人間のなせる技だとボクは直観的に考える。
自身を堕落させ嘲笑の対象とさせてでも笑いをとろうとするスタンスに大いに魅かれる。
お笑い芸人に魅かれる原因はそこではなかろうか。
笑いという感情の噴出を起こし、そしてそれは他人の快楽である。
笑いを引き出せる人間には畏敬の念がある。
芸能の在り方の底には畏敬があり、それは操りが困難な情緒に繋がるからである。
その芸能でもっとも現在人気があるのは俳優かお笑い芸人だろう。
彼らの引き出す感情や情緒、それも一般意思の一部だ。
また、彼らに向けられる畏敬も一般意思の一端だ。
感情も理性もそれぞれの7割方は一般意思だろう。
そうでなければ人間が社会を築いていくことは不可能だ。
一般意思もどのような観点から観察するかで変わってくることは今まで何度も触れてきたことだ。
もっともメジャーなものがダーウィニズムだろう。
「我々は先祖が同じなのだから」、「生き残るためだよ」それに尽きるところがダーウィニズムの偉大さであり実践性であるのだろう。
ただ、注意すべきところは根源ではなく現在におけるその価値だ。
一般意思は決定の理由だ。
裁判でそれは常に活かされており、情報化社会と呼ばれ流れの早い時代だからこそ、その価値の証明は常に重要視されている。
技術の進歩による犯罪は数知れない、しかしまた、従来の、いや昔と変わらぬ手口の犯罪もこれから多く残るだろう。
そのときの一般意思は収拾が面倒であり、小さい物語の執着が見えてこない現在において収拾は不可能に思える。
民主主義上の平等主義は大衆の政治体制の理想だ。
しかし、その民主主義を支える経済体制は資本主義ではないか。
それでは格差が生まれて理想の完成を見ないのも無理はない。
社会的一般意思のズレがそこに生じているのだ。
イデオロギー論やパラダイム論は大衆の時代だからこそ見えた観点だ。
それを今回は書いてみたが、その根源を、現在を知る。
その全体への見方のスタンスは社会や人類全体を考える上では欠けることのならない姿勢だ。
これはこれからも考え続けることとなるだろう。
以上!
人類すべてが持ち合わせているとなるとその根源は本能であるだろう。
ただ、それは理性的な意思でもある。
いや、理性という概念自体も世界的に見て一般で、人種的な差異や地域的な差異があまりない。
むしろ、人類すべてに備わっているとなれば決して非の打ちどころのない脳内の聖域ように思える。
「言葉では伝えられない感覚」は書けば神秘的な印象を受けるが、それは至って日常的な感覚だ。
たとえば“下ネタ”。
下ネタを出す瞬間、それこそデリカシーやモラルと呼ばれる一般意思が働く瞬間だろう。
下ネタはモラルからの脱却ではないのだろう。
むしろ、モラルの延長線上にあるが故の笑いの方法だろう。
それは嘲笑を求める人間に対する侮蔑に似せた賞賛の笑みなのだ。
下ネタ、それは真に厳しく笑いを追求する人間のなせる技だとボクは直観的に考える。
自身を堕落させ嘲笑の対象とさせてでも笑いをとろうとするスタンスに大いに魅かれる。
お笑い芸人に魅かれる原因はそこではなかろうか。
笑いという感情の噴出を起こし、そしてそれは他人の快楽である。
笑いを引き出せる人間には畏敬の念がある。
芸能の在り方の底には畏敬があり、それは操りが困難な情緒に繋がるからである。
その芸能でもっとも現在人気があるのは俳優かお笑い芸人だろう。
彼らの引き出す感情や情緒、それも一般意思の一部だ。
また、彼らに向けられる畏敬も一般意思の一端だ。
感情も理性もそれぞれの7割方は一般意思だろう。
そうでなければ人間が社会を築いていくことは不可能だ。
一般意思もどのような観点から観察するかで変わってくることは今まで何度も触れてきたことだ。
もっともメジャーなものがダーウィニズムだろう。
「我々は先祖が同じなのだから」、「生き残るためだよ」それに尽きるところがダーウィニズムの偉大さであり実践性であるのだろう。
ただ、注意すべきところは根源ではなく現在におけるその価値だ。
一般意思は決定の理由だ。
裁判でそれは常に活かされており、情報化社会と呼ばれ流れの早い時代だからこそ、その価値の証明は常に重要視されている。
技術の進歩による犯罪は数知れない、しかしまた、従来の、いや昔と変わらぬ手口の犯罪もこれから多く残るだろう。
そのときの一般意思は収拾が面倒であり、小さい物語の執着が見えてこない現在において収拾は不可能に思える。
民主主義上の平等主義は大衆の政治体制の理想だ。
しかし、その民主主義を支える経済体制は資本主義ではないか。
それでは格差が生まれて理想の完成を見ないのも無理はない。
社会的一般意思のズレがそこに生じているのだ。
イデオロギー論やパラダイム論は大衆の時代だからこそ見えた観点だ。
それを今回は書いてみたが、その根源を、現在を知る。
その全体への見方のスタンスは社会や人類全体を考える上では欠けることのならない姿勢だ。
これはこれからも考え続けることとなるだろう。
以上!
2009年3月2日月曜日
one pieceのBGM
今、アニメ「ONE PIECE」のサウンドトラックを聴いている。
特に「Difficult」はお気に入りだ。
あれはストーリーの節目や大事なセリフの場面で使われるから耳にも残っている。
王下七武海や四皇、海軍大将など圧倒的に強力なキャラクターの登場に使われているように感じる。
ONE PIECEはBGMがクラシックだから聴いていて気持ちがいい。
ボクの率直な感想だ。
アニメもBGMに関してはそれぞれだけど、BGMがクラシックというのは明らかにエヴァンゲリオンで半試験的に行われた手法であろう。
だが、実際に演奏して録音する手法であるため、それなりにコストが必要なのではないだろうか。
また、アタリハズレもありそうだ。
しかし、ONE PIECEは本当にアタリの作品だ。
BGM的な話だが。
その場の緊張感やキャラの覚悟が耳に訴えられるのだ。
ONE PIECEの場合、その場に応じたBGMの使い方はおおよそ定着化している。
よって、映像を見ずとも聞いていて大方その状況が理解できる。
BGMがクラシックだとそれ自体が独立して悪く言えば映像に準じるのではなく浮くようなかたちにもなりかねない。
ONE PIECEの場合それがうまくバランスを取っているのだ。
クラシックをBGMにするとそれは要素というよりは部門になるのだろう。
それはオペラにみられるように、歌舞伎にみられるように「総合した芸能」はそれを必ず行うのだ。
それこそがメインカルチャーへの登竜門ではなかろうか。
アニメというサブカルチャーの主はメインカルチャー化しているのか?
以上!
特に「Difficult」はお気に入りだ。
あれはストーリーの節目や大事なセリフの場面で使われるから耳にも残っている。
王下七武海や四皇、海軍大将など圧倒的に強力なキャラクターの登場に使われているように感じる。
ONE PIECEはBGMがクラシックだから聴いていて気持ちがいい。
ボクの率直な感想だ。
アニメもBGMに関してはそれぞれだけど、BGMがクラシックというのは明らかにエヴァンゲリオンで半試験的に行われた手法であろう。
だが、実際に演奏して録音する手法であるため、それなりにコストが必要なのではないだろうか。
また、アタリハズレもありそうだ。
しかし、ONE PIECEは本当にアタリの作品だ。
BGM的な話だが。
その場の緊張感やキャラの覚悟が耳に訴えられるのだ。
ONE PIECEの場合、その場に応じたBGMの使い方はおおよそ定着化している。
よって、映像を見ずとも聞いていて大方その状況が理解できる。
BGMがクラシックだとそれ自体が独立して悪く言えば映像に準じるのではなく浮くようなかたちにもなりかねない。
ONE PIECEの場合それがうまくバランスを取っているのだ。
クラシックをBGMにするとそれは要素というよりは部門になるのだろう。
それはオペラにみられるように、歌舞伎にみられるように「総合した芸能」はそれを必ず行うのだ。
それこそがメインカルチャーへの登竜門ではなかろうか。
アニメというサブカルチャーの主はメインカルチャー化しているのか?
以上!
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