本について、と言うとどうしても、「その内容の事だろう」と身構えるのが普通である。
しかし、今書こうとしているのはそういうことではない。
「装いとしての本」のことである。
こういうことはあまり語られない。
雑誌や新聞なら必ず書評が載っているが、「内容を抜きにした本」について伝えようとしたり、語ろうとしたりすることは一般的なことではない。
あいかわらず、本がおかたいと思われているのは、そこに関係していると思う。
おしゃれするように本を読む、デートのように本を読む、スポーツみたいに本を読む。
そういうのはまるで読書の邪道のように思われがちだが、ボクはこういうだらしない読書が大好きである。
本を寝ながら読んだり、物を食べながら読んだり、線を引きながら読んだりすることは読書を修行のように考えている人たちには想像がつかないほど楽しいことである。
ここまでだらしなく、言い換えれば、ずっと自由な運動として読書を捉えた場合、読書はきっと「歩く」と同じレベルで行われる「動作」になるだろう。
読書という行為はそれだけ広くて深いのだ。
道がそれた。
「内容を抜きにした本」とは、いわば本のデザインの事であったり、外装の事であったり、挿絵の事であったり、配色の事であったり、フォントの事であったり、文字の大きさの事であったり、文字の間隔の事であったりとほんとうに枚挙に暇がない。
フォントは明朝体が好みだが人名はゴシックの方が好きである、とかそういうところまでいって本当に本好きなのではないのか、最近はそう思う。
本は、ボクにとってツールに留まらない存在だ。
本はただ単に速読して内容を理解し頭に知識として納めておけばよい、といういわゆるビジネスマン的読み方を好きにはなれない。
本という趣味がある、そう表現してもよい。
本は作者の分身だ、よって読書とは間接的に作者と会話することだ。
先ほどのビジネスマン的読み方は知識の収集だが、僕にとっての「本」とは人との会話、それも雑談のようにとりとめもない話を延々と続けるようなものである。
宮本武蔵や柳生石舟斎のような武芸者は剣によってのみ生きる己の人生を「剣」と表した。
剣を究める、というような感じだ。
ボクもそれに則って、読書から本のデザイン、本という存在を隅々まで味わいつくす人生を「本」と言いたい。
2009年では、杉浦康平の装頓に感動したことから「本」への興味が始まった。
面白い本というと内容だけを指すようだが、もっともっと広い意味で面白いことがあることに気がついた。
今は、よさげな本を手に取ると外装や本の重さ、紙の質、匂いにまで注意するようになった。
そういうところまで来ると、一般的な読書好きから見ると変態扱いされそうである。
しかし、そういう道楽者の変態であることは本好きの勲章である、そう思う。

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