2008年7月31日木曜日

顧みる

なかなかいい文章や発想は訪れないものである。
それはボクが未だ若輩で青く、頭の中で整理や体系化が行われていないからだろうが。
そこがいらだつところであり、まあ、「若さやこれからへの期待」とも妥協できる。
固い文書や適切ではない語句や気取りが混ざっていると、読み返してみると鼻につく。
一番いらだつのは、自分の文章がなにかの本に書いてあったことのまる写しみたいになっていることだ。
そこに自分がいない文章ほど悲しいものはない。
きっと、そんなことは絶対にありはしないのだろうが。
それでも、もっと積極的に自分をアピールしたいボクの気質では耐えられない屈辱だ。

中学生の時に、ボクの作文が入賞した。
そのときに夢中になっていた『武士道』的な武士道や『国家の品格』的な生き方に憧れ、この二作を素に書いていた。
そのころから読書を始めたから、今以上に思想に疎かったし、文章も気取りがこびり付いていた。
それを突いてきた先生がいた。
若い、なにかチンピラみたいな格好をした不細工な数学の先生だったが、彼が、ボクの作文は青臭いという。
中学生に向かって、ともしたが、妥協を嫌い、天才に憧れているボクにとって、それは正論だ。
気取って書いていたのは間違いない。
それが、いまでも何かを書くときには戒めとなっている。
多分、先生方のほとんどが青臭い文章だと感じながらもそれを言わなかったのに比べ、大人気なしにも指摘し、才能を見出そうとしたであろう先生には感謝だ。

また、自分の文体が好きな作家の文体になっていることもある。
まあ、これは若い時期の、模倣の時代とも言える。
そこは成功だろうが。
模倣の時代はどんな芸術家にもあった。
師事することの大切さだ。
宮本武蔵は師を持たなかったと言うが、影響を何からも受けなかったわけではないだろう。
戦いの中から得たのならば、単に師が人でないだけである。
師は万物の中にある。
蛇になるためには蛇を師とするまでだ。
しかし、模倣をマネごとと蔑み、卑しんだ思想の時代もある。
それは伝統を捨てた明治維新であり、戦前を否定した第二次大戦の敗戦後でもある。
勿論、伝統も否定によって積み重ねていくものだが、切り捨てるわけではない。
明治維新と敗戦後は完全な否定であり、すべてを廃棄している。
そこから、生まれたものはあるが、失われたものは多過ぎ、それらがまだまだ必要なのにもかかわらず捨ててしまったことが問題だろう。
それを反省し、再構築するのがこれからの時代だろう。

以上!

2008年7月30日水曜日

世代間のズレ

世界は本当に変わるのだろうか。
近年ではよく、今の時代が転換期や確実に世界は大きく変わりつつあるなどと言うが、それは本当なのか。
価値観が崩壊しているとか、社会の変化のスピードがとてもはやくなってきているなんて言ってみても、若い世代にはちっとも伝わらない。
ものごころついた頃にはコンピュータは普通にあったし、CDも売っていた世代だ。
その時代に生まれたら、それが普通なのだ。
変化の早い社会なんて普通なのだ。

その問題の深刻さもなかなか伝わらないし、本当かどうかもわからないのが若者だ。

以上!

2008年7月26日土曜日

抗いの人生

人生とは何か。
「抗う」ことだ。
学問も文化も人間が作り出したものが大きくなった。
それらから見れば、個人の人生など孤独で小さく憐れだ。
だから、こんな時代だからこそ、それらに挑んでいきたい。
また、昔からある「懐疑」の伝統も引き継ぎたい。
常識を疑う。
それは社会からの逸脱、追放を意味する。
自分の身を危険に置くことになる。
社会、大多数の人間、正義に押しつぶされそうになるだろう。
そのたびに抗うという意味もある。
もっと、苦しみの中に飛び込んでいきたい。
抗い苦しみ、孤独に死ぬ。
そして、成果が残る。

以上!

2008年7月25日金曜日

そこで止めるなよ

「深い」という言葉が流行している。
流行というより使い勝手がいいからだろうが。
深遠な、意味深な意味を持つ言葉に使われる。
研究心が掻き立てられるとき、誰でもこう感じるものなのだろうが、ボクはあまり使わない。
「深い」という言葉は若い世代がよく使い、それも浅く使う。
よく使う人間はとりあえず、考えるのが面倒だから、「深い」ことで収めておこうという魂胆があるからだ。
考えることを生きることとしているボクにとっては価値のないことだ。
こういうとりあえず収めておける言葉が日常会話の中でよくある。
説明を省けられる言葉がたくさんある。
「深い話だね。」
じゃなくて自分のなかで批評すべきだ。
どこが良くてどこが悪かったか。
でも、それを「深い」をよく使う人たちに言えばしらけるだろうな。
「別にいいだろ」と思われ、おしまい。
しかし、平和な人間はこれぐらいでよいのかも。
別に見えても苦しみならば、見る必要もないのかもしれん。

以上!

2008年7月20日日曜日

頂に住む男の力とは

松岡正剛は多岐の分野にわたるコネクションがある。
そこが羨ましい。
そういう人間が近くにいたことがだ。
三島由紀夫だったり、稲垣足穂だったりすごい面々だ。
それを10代、20代からいたことは環境もだろうが、やはり彼は行動力の大きいからだろう。
でなければ、あれだけの本を読むこともできないだろう。
「編集工学」も「千夜千冊」も「ISIS編集学校」も作れなかっただろう。

彼の圧倒的な知の力に人は驚愕するが、実は彼の行動力に驚かされているのだ。
行動力で色濃く生きている、偉人:松岡正剛

以上!

2008年7月19日土曜日

友達はいらないんだ

ボクがいま欲しい話し相手は友人ではない。
「サロン」のシステムだ。
サロンにはボクと同じ熱意をもった同志が集まってほしい。
そういう意味では啓蒙主義が謳歌していた時代に憧れる。
ポンパドール婦人のような人物を探しているのだ、ボクは。
サロンでは無駄話も無駄ではない。
各々の研究の糧になることは間違いない。

別にひとつのジャンルにこだわる必要はない。
なにかに熱意のある人物ならばだれでも歓迎だ。
野球選手や物理学者、AV女優、雑誌の編集者が集まってみても面白いのではないか。
学問自体がそうでありたい。
そう願っているし、その中に参加していきたい。
今の年頃からサロンに入れたら嬉しいが、大人になればサロンを建ててみたい。
これがボクの夢なのだろう。

以上!

2008年7月16日水曜日

不満小咄

なかなかいい文章や発想は訪れないものである。
それはボクが未だ若輩で青く、頭の中で整理や体系化が行われていないからだろうが。
そこがいらだつところであり、まあ、「若さやこれからへの期待」とも妥協できる。
固い文書や適切ではない語句や気取りが混ざっていると、読み返してみると鼻につく。
一番いらだつのは、自分の文章がなにかの本に書いてあったことのまる写しみたいになっていることだ。
そこに自分がいない文章ほど悲しいものはない。
きっと、そんなことは絶対にありはしないのだろうが。
それでも、もっと積極的に自分をアピールしたいボクの気質では耐えられない屈辱だ。

中学生の時に、ボクの作文が入賞した。
そのときに夢中になっていた『武士道』的な武士道や『国家の品格』的な生き方に憧れ、この二作を素に書いていた。
そのころから読書を始めたから、今以上に思想に疎かったし、文章も気取りがこびり付いていた。
それを突いてきた先生がいた。
若い、なにかチンピラみたいな格好をした不細工な数学の先生だったが、彼が、ボクの作文は青臭いという。
中学生に向かって、ともしたが、妥協を嫌い、天才に憧れているボクにとって、それは正論だ。
気取って書いていたのは間違いない。
それが、いまでも何かを書くときには戒めとなっている。
多分、先生方のほとんどが青臭い文章だと感じながらもそれを言わなかったのに比べ、大人気なしにも指摘し、才能を見出そうとしたであろう先生には感謝だ。

また、自分の文体が好きな作家の文体になっていることもある。
まあ、これは若い時期の、模倣の時代とも言える。
そこは成功だろうが。
模倣の時代はどんな芸術家にもあった。
師事することの大切さだ。
宮本武蔵は師を持たなかったと言うが、影響を何からも受けなかったわけではないだろう。
戦いの中から得たのならば、単に師が人でないだけである。
師は万物の中にある。
蛇になるためには蛇を師とするまでだ。
しかし、模倣をマネごとと蔑み、卑しんだ思想の時代もある。
それは伝統を捨てた明治維新であり、戦前を否定した第二次大戦の敗戦後でもある。
勿論、伝統も否定によって積み重ねていくものだが、切り捨てるわけではない。
明治維新と敗戦後は完全な否定であり、すべてを廃棄している。
そこから、生まれたものはあるが、失われたものは多過ぎ、それらがまだまだ必要なのにもかかわらず捨ててしまったことが問題だろう。
それを反省し、再構築するのがこれからの時代だろう。

以上!

2008年7月14日月曜日

変化の宣言

人は正義を見つけると酔うものだ。

なにかに酔っていたり、気取っていたりする人はどうも好かれない。
しかし、所定の地位や職柄に着くと人は変わるものです。
言葉遣いが堅苦しくなったり、性格が落ち着いたり、または傲慢になったりと客観的に見れば、明らかに見える変化。
しかし、当人はそうではないようです。
彼はむしろ、きちんとやろうとしているだけだとか。
まあ、差しさわりがなければいいのですが。

①全ては変化し続けます。
②その変化を人は嫌います。
たとえば、①明日から職場の上司がアメリカ人に代わったら嫌でしょう。
しかし、②有能ならば人種など関係ないという社の方針は変化の激しい、今の世を考えてのことでしょう。
この矛盾を持ちながらも人は生き残ってきました。
平和のために戦争をしてきた人類のことですから、本能なのかもしれません。
しかし、この矛盾を解き明かすのはすべての人の権利であり、心のもやもやがある限りは義務でもあります。

以上!

2008年7月12日土曜日

苦闘

人間の不便なところは有限であるところ。
取り返しのつかないことがあることだ。
もし、少年時代に真理があると大人になってわかっても、もう遅いことが問題だ。
そこに人生の美があるように思えないでもない。
しかし、それでも真理を掴むことが不可能であることが証明できる。
我々の人生はきわめて儚い。
ひとりひとりの人生はとても脆弱である。
それをよく人間はオペラや音楽や能や浄瑠璃や落語にして肯定し同情する。
きっと、人間がこんなに繁栄させられた理由がここになるのだろう。
数で歴史をつくって、その中で真理に近づいていけ、ということか。

以上!

2008年7月9日水曜日

本の買い時と将来

本はやはり欲しい時に買うのが一番だ。
腹が減っているときに飯を食うのに本は別か。
いや、本も読みたい時に読むべきだ。
だから、買いたい時には買うべきだ。
しかし、購入となると金銭の限界がある。
だから、そういうときに図書館を利用すべきだ。
豊かさの象徴だ。
ただで高価な本が読めるなんて豊かな国の証拠ではないか。

多分、ボクが大人になったとき、収入の1割は本だな。
いや、それ以上かも。
この性格じゃ、友人もつくらなそうだし。
休日はランニングと読書、とアウトドアとインドアの両方を孤独に過ごしそう。
独りで映画、独りでショッピング、孤独と言えばそうではあるがボクの夢だ。
こういうのをボクのなかではお洒落という。
ゴルゴ13ぽくてカッコいい。
そうなりたいなあ。

以上!

2008年7月7日月曜日

無念な人生

いま、焦ることは人の命についてだ。
ボクの命だ。
あまりに短い。
現代、情報の発信がとても多いのにもかかわらず、発信している人間はとてもスローだ。
追いつけていけない。
一冊の雑誌の情報はすぐ変わる。
価値が薄れやすい。
哀れに違いない。
ボクはすべての学を得たい。
すべての学問どころか、一学問のすべても得れない。
だから、絶望する。
すべての学問を得たときに、あらたな境地に立てるような気がある。
だから、無念。
死は避け難し。

以上!

2008年7月2日水曜日

懐疑の精神

懐疑せよ、されば、学ここにあらん。

懐疑したから人間は学問を積み上げることができた。
懐疑し、体系化し、時代の常識となり極まったかに見えた。
しかし、誰かが再び、懐疑し、新時代を築く。
それが、人の歴史、論争こそが学問の核。
人は磨き上げられたものや精巧に仕込まれたものを見ると、これ以上はできない、と断念しようとする。
もしくは、妥協する。
だが、成功者は懐疑する。
もっと上があるはずだ。
心にある懐疑心のみを信じていくのだ。
自分にも相手にも満足せず作り上げていく。
これを一種の心の修養と考える者もいるが、そんなきれいに言えるようなものではなく、ただの人間の心の作用だ。
それ自体は、むしろ、忌み嫌われる精神。
美を極めるために人を殺す、技を究めるために人を捨てる、これらはよく聞く、かつタブー視された精神の一種だ。
懐疑心もその一つだ。
その心の作用が時代を作ってきた。
薄汚い精神とも言える。
しかし、今、私が薄汚いと決めた精神は道徳から来ているが、これは単にその薄汚い精神を美化しただけだ。
人間の美化という真に汚れた精神がきれいに見せているだけなのだ。
汚いとか卑怯とか言う前に、それらを一旦、保留に置いておき、本当のことを見極める。
これが哲学者のお仕事ではなかろうか。

以上!