最近、ひっきりなしにスーパーマーケットに行く。
また、ホームセンターや文房具店にも行く。
無論、買い物のためなのだが、野菜やくぎや消しゴムは見ているだけ面白い。
ボクは2日に一回は書店に行き書店で遊んでいる人間なので本の価格の相場は大体心得ているつもりだ。
しかし、スーパーに行くとその相場が他の製品の相場とは大きく異なることに気がつき本の高価に驚いた。
「文庫本一冊分の代金があれば定食が食える。」
そう考えたとき、本だけじゃだめだなと素直に思った。
いろんなものに手をつけてみることが大事なのか。
そのとき、ちょうど所ジョージにはまっていたから彼の異常なまでのモノ作り精神やモノへの愛し方に影響されてそんな風に感じたのかもしれない。
しかし、確かに本以外のモノを見て触れて買って遊んでみると本についてもよくわかった。
本と本以外のモノの違いは、本は情報の媒体であり本以外のモノはそれ自体に価値があることだ。
そういう意味では本は本当に魅力がある。
「情報」というここ数年流行りの概念は確かに価値があったようだ。
その代表格が本だ。
ただの紙の重なり、それに付着したインクで象られた文字。
それだけの製品が知らず知らずに好きになっていたことを改めて知った。
2009年7月24日金曜日
2009年7月22日水曜日
大人になるこども


16歳と18歳の年齢はなんとなくボクのなかでは区切りの歳に感じる。
それはきっと、中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」にあるように確実に大人になっていく年頃だからだ。
その飛躍は人生のなかでもっとも大きいように感じる。
彼氏、彼女ができたかどうか、キスをしたかどうか、それ以上にまで到達したかどうか。
思春期の下世話でやらしいと思っていた友人らとの会話はそれ自体が大人になるための儀式のひとつなのだ。
そして、16歳と18歳はやはり人生の大きな節目にあたるだろう。
ボクは18歳になった。
18歳がもっとも10代を代表するように感じる。
そして、19歳ではなく18歳が10代最後の歳に感じる。
なぜだろうか?
それはやはり18歳は「大人の始まり」を意味していると社会的に思われており、同じく「子供の終わり」を意味していると思われているからだろう。
この常識は法律にも明記されている。
さまざまな権利や義務は18歳から始まり、この権利と義務に乗っ取り子供は大人になる。
では16歳はどうなのだろうか?
16歳に法律的に権利が与えられるのは「女性の結婚」ぐらいだ。
これは18歳とは違いきっとボク個人の感じ方だろう。
16歳で人生が初めて決定の義務を負わされるように感じる。
人生を決めなければならないという大人には当然の人生選択が16歳に端を発しているのだ。
そう思う。
ボクがそうだった。
ボクが16歳を特別視しているのも16歳に何かを起こさなければ人生を勝ち取ることはできないように感じていたからだ。
それでも結局、大したことは何もしていなかった。
高校に慣れることで精いっぱいだった。
16歳が終わる頃、ボクは何もできなかったように感じた16歳を後悔した。
だが、今から思えばあの時のボクは頑張っていたように感じる。
それが今のボクに大きく影響していると思われるからだ。
例えば、「和して同ぜず」の精神を貫こうとしたのもあの歳だったし、読書を本格的に始めたのもあの歳だった。
今、自分が思っている正しさを貫けているのもあのときの自分のおかげだ。
その時々にとりあえず頑張ってみること。
その結果は思ったよりずっと後に現われるものだと悟った。
それはきっと、中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」にあるように確実に大人になっていく年頃だからだ。
その飛躍は人生のなかでもっとも大きいように感じる。
彼氏、彼女ができたかどうか、キスをしたかどうか、それ以上にまで到達したかどうか。
思春期の下世話でやらしいと思っていた友人らとの会話はそれ自体が大人になるための儀式のひとつなのだ。
そして、16歳と18歳はやはり人生の大きな節目にあたるだろう。
ボクは18歳になった。
18歳がもっとも10代を代表するように感じる。
そして、19歳ではなく18歳が10代最後の歳に感じる。
なぜだろうか?
それはやはり18歳は「大人の始まり」を意味していると社会的に思われており、同じく「子供の終わり」を意味していると思われているからだろう。
この常識は法律にも明記されている。
さまざまな権利や義務は18歳から始まり、この権利と義務に乗っ取り子供は大人になる。
では16歳はどうなのだろうか?
16歳に法律的に権利が与えられるのは「女性の結婚」ぐらいだ。
これは18歳とは違いきっとボク個人の感じ方だろう。
16歳で人生が初めて決定の義務を負わされるように感じる。
人生を決めなければならないという大人には当然の人生選択が16歳に端を発しているのだ。
そう思う。
ボクがそうだった。
ボクが16歳を特別視しているのも16歳に何かを起こさなければ人生を勝ち取ることはできないように感じていたからだ。
それでも結局、大したことは何もしていなかった。
高校に慣れることで精いっぱいだった。
16歳が終わる頃、ボクは何もできなかったように感じた16歳を後悔した。
だが、今から思えばあの時のボクは頑張っていたように感じる。
それが今のボクに大きく影響していると思われるからだ。
例えば、「和して同ぜず」の精神を貫こうとしたのもあの歳だったし、読書を本格的に始めたのもあの歳だった。
今、自分が思っている正しさを貫けているのもあのときの自分のおかげだ。
その時々にとりあえず頑張ってみること。
その結果は思ったよりずっと後に現われるものだと悟った。
2009年7月21日火曜日
乗り物のなかが気持ちいい。
雨が続いている。
去年が空梅雨であったからかどうも毎日、雨に困っている。
自転車によく乗るから不便極まりない。
まあ、屋内から見る雨や雨音はむしろ好きな方である。
雨が生む心地よいノイズは屋内での作業にはもってこいである。
本にあったが意外にある程度のノイズがあった方が集中できるとか。
そういえば、ボクも電車好きである。
電車そのものにはあまり興味がないがあの不特定多数の人間が乗るせまいガタンゴトンの車内は心地よいストレスがあり読書には最適である。
ボクは電車通いではないのでよりそれを実感している。
あの居心地の良い空間は何なのだろうか。
あの電車やバス、飛行機の特有の感覚は誰もが感じているはずだ。
確かにあそこはせまく身動きが取れず疲れる場所だ。
それでもそこを好むのはなぜか。
あの空間をよく旅のロマンの一つとして挙げるのはなぜなのか。
きっと、「群れ」の感覚と「安全」の感覚、双方があそこにはあるからだろう。
きっと知らない者であれ旅は道連れで場を共有するものとしての連帯感が生まれるのではないか。
それはもともと社会的生物であり、群れをなす霊長類には群れとして居心地の良さとして感じるはずだ。
そして、あの狭い空間、座席は人間一人分の広さ、あのエコノミーの背中や腰回りがすっぽり入る空間は安心感がある。
そして車内、機内全体の空間も視界に入りうる程度で外敵の脅威もない。
あの空間には本能的な安全がある。
生物学はとくにそうだが、科学的視点から人間の生物としての性質=本能を日常生活から改めて思考し実感することは面白い。
柔軟な思考や発想はここから出発する。
これは忘れたくない。
去年が空梅雨であったからかどうも毎日、雨に困っている。
自転車によく乗るから不便極まりない。
まあ、屋内から見る雨や雨音はむしろ好きな方である。
雨が生む心地よいノイズは屋内での作業にはもってこいである。
本にあったが意外にある程度のノイズがあった方が集中できるとか。
そういえば、ボクも電車好きである。
電車そのものにはあまり興味がないがあの不特定多数の人間が乗るせまいガタンゴトンの車内は心地よいストレスがあり読書には最適である。
ボクは電車通いではないのでよりそれを実感している。
あの居心地の良い空間は何なのだろうか。
あの電車やバス、飛行機の特有の感覚は誰もが感じているはずだ。
確かにあそこはせまく身動きが取れず疲れる場所だ。
それでもそこを好むのはなぜか。
あの空間をよく旅のロマンの一つとして挙げるのはなぜなのか。
きっと、「群れ」の感覚と「安全」の感覚、双方があそこにはあるからだろう。
きっと知らない者であれ旅は道連れで場を共有するものとしての連帯感が生まれるのではないか。
それはもともと社会的生物であり、群れをなす霊長類には群れとして居心地の良さとして感じるはずだ。
そして、あの狭い空間、座席は人間一人分の広さ、あのエコノミーの背中や腰回りがすっぽり入る空間は安心感がある。
そして車内、機内全体の空間も視界に入りうる程度で外敵の脅威もない。
あの空間には本能的な安全がある。
生物学はとくにそうだが、科学的視点から人間の生物としての性質=本能を日常生活から改めて思考し実感することは面白い。
柔軟な思考や発想はここから出発する。
これは忘れたくない。
2009年7月20日月曜日
恥ずかしがらずに「美」って何だ?
美とは何なのか?
なぜ、美がなくてはならないのか?
美と現実主義は矛盾するのか?
美について考えたのはデザインについて長期間に渡りずいぶんと考えているからだ。
ここで何度も挙げたテーマだ。
ただ、今回は美(美性ともいえる)とその存在意義についてだ。
なぜ、そんなものがあるのか?
それがテーマである。
「美とはね・・・。」なんて青山次郎のごとく美について考えることはたいていしない。
それどころか「美」なんて言葉を普通の会話で口に出すことすらない。
美なんてものは美術家、芸術家、目利き、世捨て人のための言葉だ、そんな風にも思われているのかもしれない。
しかし、確かに誰でも美が好きだし、美があるかどうかで選択することも多い。
美がこもった製品はやはり売れるし、美のある生き方には魅かれ、美人には誰もが弱い。
「だが、美のみを追い続ければ世の中で生きていくことはできない」、「世の中、妥協することも大事だ」
そんな一見大人な考え方、本当にそうだろうか。
もし、それが挫折したときに苦しまぎれに吐いた言葉なら、少し考え直してほしい。
ボクは何事も美になりえる、「美へ転化」することができると考える。
それはたとえば、喜劇のみに美が通うわけではなく悲劇にも美を感じられることのように誰しもが感じ、それを共感しているはずだ。
そして、その転化は「自身が美としての認識をすること」によって起こりえる。
芸術家の仕事はそこにある。
世の中から見たら、センセーショナルで狂っていて下らなくてもそれでも偉人となった過去の新進気鋭な芸術家たちはそれを美と言い続けていた。
それはそこに美を見出したからであり、言い換えればちょっと心を広くしたり視点を変えてみたりしたからだ。
心を変える、これは古典的でかつ現代から見れば画期的でとても実用的な考え方だ。
心を乱すこと、これをストレスという。
ストレス社会なんて言われているからストレスを嫌う人がいるが、ストレスに敵うものはストレスにほかならない。
例えば、勉強のストレスをスポーツのストレスで解消するように。
心にかかる力をちょっと変えてみるだけで世界は大きく変わるはずだ。
そこに美の存在意義が、教養としての意味が、価値がある。
なぜ、美がなくてはならないのか?
美と現実主義は矛盾するのか?
美について考えたのはデザインについて長期間に渡りずいぶんと考えているからだ。
ここで何度も挙げたテーマだ。
ただ、今回は美(美性ともいえる)とその存在意義についてだ。
なぜ、そんなものがあるのか?
それがテーマである。
「美とはね・・・。」なんて青山次郎のごとく美について考えることはたいていしない。
それどころか「美」なんて言葉を普通の会話で口に出すことすらない。
美なんてものは美術家、芸術家、目利き、世捨て人のための言葉だ、そんな風にも思われているのかもしれない。
しかし、確かに誰でも美が好きだし、美があるかどうかで選択することも多い。
美がこもった製品はやはり売れるし、美のある生き方には魅かれ、美人には誰もが弱い。
「だが、美のみを追い続ければ世の中で生きていくことはできない」、「世の中、妥協することも大事だ」
そんな一見大人な考え方、本当にそうだろうか。
もし、それが挫折したときに苦しまぎれに吐いた言葉なら、少し考え直してほしい。
ボクは何事も美になりえる、「美へ転化」することができると考える。
それはたとえば、喜劇のみに美が通うわけではなく悲劇にも美を感じられることのように誰しもが感じ、それを共感しているはずだ。
そして、その転化は「自身が美としての認識をすること」によって起こりえる。
芸術家の仕事はそこにある。
世の中から見たら、センセーショナルで狂っていて下らなくてもそれでも偉人となった過去の新進気鋭な芸術家たちはそれを美と言い続けていた。
それはそこに美を見出したからであり、言い換えればちょっと心を広くしたり視点を変えてみたりしたからだ。
心を変える、これは古典的でかつ現代から見れば画期的でとても実用的な考え方だ。
心を乱すこと、これをストレスという。
ストレス社会なんて言われているからストレスを嫌う人がいるが、ストレスに敵うものはストレスにほかならない。
例えば、勉強のストレスをスポーツのストレスで解消するように。
心にかかる力をちょっと変えてみるだけで世界は大きく変わるはずだ。
そこに美の存在意義が、教養としての意味が、価値がある。
2009年7月16日木曜日
哲学を捨てよう!!
最近はこう考えている。
「哲学からの脱却」こそが人生の目標なのではないか、と。
つまり、哲学的懐疑を見逃すことこそ健全な人生であり、そのためにも哲学を必死で勉強すべきなのではないか。
(ここでの哲学とは特に形而上学のことである。)
無論、哲学を無視することも逃げることも不可能である。
ただ、考えないという解釈でもって考えれば、ある種の哲学病から解き放たれるのではなかろうか、という主張である。
ボクは形而上学に対しては永遠のテーマではあるだろうが、それは不可知であるという立場にある。
そして、それを考えるよりも別の視点に立つ方がよりその解答に近づけるような気もしている。
最近の思想のなかで最も思想らしいものができて素直に嬉しい。
結果を常に出していくこと、それを認識していくことがボクが考える建設的な人生論である。
「哲学からの脱却」こそが人生の目標なのではないか、と。
つまり、哲学的懐疑を見逃すことこそ健全な人生であり、そのためにも哲学を必死で勉強すべきなのではないか。
(ここでの哲学とは特に形而上学のことである。)
無論、哲学を無視することも逃げることも不可能である。
ただ、考えないという解釈でもって考えれば、ある種の哲学病から解き放たれるのではなかろうか、という主張である。
ボクは形而上学に対しては永遠のテーマではあるだろうが、それは不可知であるという立場にある。
そして、それを考えるよりも別の視点に立つ方がよりその解答に近づけるような気もしている。
最近の思想のなかで最も思想らしいものができて素直に嬉しい。
結果を常に出していくこと、それを認識していくことがボクが考える建設的な人生論である。
2009年7月11日土曜日
スカイクロラ後のボク
さきほど「スカイクロラ」をDVDで観てきた。
あまりに淋しかったので今もテンションが上がらない。
押井守のテーマは原作とそれからくる結末の印象こそ違え、「うる星☆やつら2 ビューティフルワールド」のときとあまり変わらず、それを表現しようとしているところも変わっていない様子だ。
むろん深いテーマであるからだろうが。
もっとも、このテーマは解決はできるのだ。
誰しもが解決できる。
ただ、その解決方法はあまりに淋しいものなのだ。
だから、だれしもあのテーマにぶつかると辛くなり、本当のことがわかる。
人生の一面は確かに淋しい。
あまりに淋しかったので今もテンションが上がらない。
押井守のテーマは原作とそれからくる結末の印象こそ違え、「うる星☆やつら2 ビューティフルワールド」のときとあまり変わらず、それを表現しようとしているところも変わっていない様子だ。
むろん深いテーマであるからだろうが。
もっとも、このテーマは解決はできるのだ。
誰しもが解決できる。
ただ、その解決方法はあまりに淋しいものなのだ。
だから、だれしもあのテーマにぶつかると辛くなり、本当のことがわかる。
人生の一面は確かに淋しい。
2009年7月9日木曜日
こんな時代とテレビ番組
安っぽいテレビ番組が増えているようだ。
セットの安っぽさ、出演タレントの安っぽさ、テレビの制作の安っぽさが透けて見える。
もちろん、それは製作コストが割けないためであろう。
それでも大衆文化の、メディアの中心にはいまだにテレビがあり、社会におけるテレビの影響力は絶大だ。
安っぽくとも人気が絶えない存在であり続けているテレビ、それはなぜか。
それはやはりあの膨大な情報量のおかげであろう。
そして、それを補足する程度ではあるが制作側の安い中での工夫、苦闘のすえの解決のおかげのはずだ。
テレビ批判はよくあるが、もっと建設的に行こう。
テレビを受け入れない限り、新たな文化は生まれない。
セットの安っぽさ、出演タレントの安っぽさ、テレビの制作の安っぽさが透けて見える。
もちろん、それは製作コストが割けないためであろう。
それでも大衆文化の、メディアの中心にはいまだにテレビがあり、社会におけるテレビの影響力は絶大だ。
安っぽくとも人気が絶えない存在であり続けているテレビ、それはなぜか。
それはやはりあの膨大な情報量のおかげであろう。
そして、それを補足する程度ではあるが制作側の安い中での工夫、苦闘のすえの解決のおかげのはずだ。
テレビ批判はよくあるが、もっと建設的に行こう。
テレビを受け入れない限り、新たな文化は生まれない。
2009年7月5日日曜日
年の哲学~わが師、小林秀雄に感謝~
最近は書きたいことがない。
だから、それしかネタがないがとりあえずは書いている。
やりたいことも書きたいこともない、まるで涅槃につく直前だ。
老人ならばともかく青年がこうあっては体面が汚く見えないだろうか。
数か月ぶりに小林秀雄の講演をきちんと聴いてから「年の功」にボクは惚れこんでいる。
ぐっと来るというか、あれは数ある人生論のなかでも特にお気に入りだ。
きっと、青年ならば誰しも、ちょっとは大人のよう振る舞いで気取ってみたり、もしくは子供じみた真似をしてみたりしてしまうものであろう。
実際、ボクも一人前に凝った文体や難しい言葉を使ってみたりしてしまう。
そういうのは、やはり恥ずかしいことである。
後からになって気付いてしまう、1年後だったり、1週間後だったり、早くして5分後だったり。
「あんな余計なことしなきゃ・・・。」なんてことはしょっちゅうだ。
確かに青年は無理してお高くとまらなくとも、やんちゃにならなくともよい、青年は青年らしく普通にしていればよろしい。
それさえ、心に留めておかれれば、むしろ多くの失敗をしてほしいと思う。
そこが話の要である。
青年の理想になってもらわなくともよい、「あんな余計なことしなきゃ・・・。」の気恥ずかしささえ覚えていれば身体の老熟の作用も加わって中庸に生きられるようになってくる。
もちろん青年のみならず大人も年相応な振る舞いから外れてしまうことはよくあるだろう。
それでも、青年よりはずっと少ない。
それは青年時にそれを嫌ってほど経験したからであり、彼らの熟した人格はそれから来るのであろう。
つまり、失敗の連続の青年時代が大人になる手引となるのだ。
これを思ったとき、ボクはこれが「徳を積む」ということを実感し、「年の功」に納得できた。
まあ、それでも大人嫌いのパンクな中年はたくさんいる。
青年を気取っている中年はいる。
それが見識ある大人像ではないという意見もあるが、ボクは大人になった結果など正直どうでもよいと思っている。
すべての大人が理想の大人であることなど考えられない。
大切なのは確かに彼らが老熟していることだ。
年老いてゆく身体と共に精神が変化していく、それを老熟というのであろう。
何も「良い大人」にならなくとも、そこを踏まえた大人になってしまうのだ。
プラトンは老人を哲人の鏡としたがアリストテレスは頑固者と評した。
人間、端から見れば両極端の人間性に突き動かされる。
それでも年と共に老熟する身体と精神、その相互関係が人間の生き方に現れるところが面白いのだ。
別に人生を説かない、人生を言っているのだ。
小林秀雄の考えからも少々ずれてしまったか。
どうか、つたない文章ゆえ共感してイメージしてもらいたい。
だから、それしかネタがないがとりあえずは書いている。
やりたいことも書きたいこともない、まるで涅槃につく直前だ。
老人ならばともかく青年がこうあっては体面が汚く見えないだろうか。
数か月ぶりに小林秀雄の講演をきちんと聴いてから「年の功」にボクは惚れこんでいる。
ぐっと来るというか、あれは数ある人生論のなかでも特にお気に入りだ。
きっと、青年ならば誰しも、ちょっとは大人のよう振る舞いで気取ってみたり、もしくは子供じみた真似をしてみたりしてしまうものであろう。
実際、ボクも一人前に凝った文体や難しい言葉を使ってみたりしてしまう。
そういうのは、やはり恥ずかしいことである。
後からになって気付いてしまう、1年後だったり、1週間後だったり、早くして5分後だったり。
「あんな余計なことしなきゃ・・・。」なんてことはしょっちゅうだ。
確かに青年は無理してお高くとまらなくとも、やんちゃにならなくともよい、青年は青年らしく普通にしていればよろしい。
それさえ、心に留めておかれれば、むしろ多くの失敗をしてほしいと思う。
そこが話の要である。
青年の理想になってもらわなくともよい、「あんな余計なことしなきゃ・・・。」の気恥ずかしささえ覚えていれば身体の老熟の作用も加わって中庸に生きられるようになってくる。
もちろん青年のみならず大人も年相応な振る舞いから外れてしまうことはよくあるだろう。
それでも、青年よりはずっと少ない。
それは青年時にそれを嫌ってほど経験したからであり、彼らの熟した人格はそれから来るのであろう。
つまり、失敗の連続の青年時代が大人になる手引となるのだ。
これを思ったとき、ボクはこれが「徳を積む」ということを実感し、「年の功」に納得できた。
まあ、それでも大人嫌いのパンクな中年はたくさんいる。
青年を気取っている中年はいる。
それが見識ある大人像ではないという意見もあるが、ボクは大人になった結果など正直どうでもよいと思っている。
すべての大人が理想の大人であることなど考えられない。
大切なのは確かに彼らが老熟していることだ。
年老いてゆく身体と共に精神が変化していく、それを老熟というのであろう。
何も「良い大人」にならなくとも、そこを踏まえた大人になってしまうのだ。
プラトンは老人を哲人の鏡としたがアリストテレスは頑固者と評した。
人間、端から見れば両極端の人間性に突き動かされる。
それでも年と共に老熟する身体と精神、その相互関係が人間の生き方に現れるところが面白いのだ。
別に人生を説かない、人生を言っているのだ。
小林秀雄の考えからも少々ずれてしまったか。
どうか、つたない文章ゆえ共感してイメージしてもらいたい。
2009年7月3日金曜日
宗教は嫌いじゃない、宗教団体が好かないんだ。
ボクの周りに宗教者がいる。
彼は宗教団体に所属し、団体の教義に従い、団体と行動を共にしている。
ボクは彼のような人間をあまり好かない。
ボクが群れるのが苦手で嫌いな人間だからかもしれないが、ボクは宗教とは自立のためのものだと捉えている。
それを他人と群れて行うのはボクにはできそうにない。
人間はどこまでいっても所詮は独りである。
そこを逃げて生きることはできない。
もちろん、群れていながらも自立し、自らの人生を悟った人もいるのかもしれない。
しかし、群れると全体がどうしても統制のために試行錯誤し、第一にすべきことを形骸化し、その真意を見損なってしまう恐れもある。
そして、それに気づかずにいることもある。
それが恐ろしい。
その状態はもはや宗教とは言い難い。
そのおそれは現在、某団体で起こっていると思う。
宗教を群れて行う宗教団体が根本的に間違っているようにボクが感じるのもそれが原因だろう。
ひとり宗教者の警告だ。
彼は宗教団体に所属し、団体の教義に従い、団体と行動を共にしている。
ボクは彼のような人間をあまり好かない。
ボクが群れるのが苦手で嫌いな人間だからかもしれないが、ボクは宗教とは自立のためのものだと捉えている。
それを他人と群れて行うのはボクにはできそうにない。
人間はどこまでいっても所詮は独りである。
そこを逃げて生きることはできない。
もちろん、群れていながらも自立し、自らの人生を悟った人もいるのかもしれない。
しかし、群れると全体がどうしても統制のために試行錯誤し、第一にすべきことを形骸化し、その真意を見損なってしまう恐れもある。
そして、それに気づかずにいることもある。
それが恐ろしい。
その状態はもはや宗教とは言い難い。
そのおそれは現在、某団体で起こっていると思う。
宗教を群れて行う宗教団体が根本的に間違っているようにボクが感じるのもそれが原因だろう。
ひとり宗教者の警告だ。
2009年7月1日水曜日
今日から夏だ!
先ほど今月第1号のブログを製作しながら先月の反省をしていた。
6月はいたって多忙な日々であったからブログの更新もままならなかった。
たくさんのスケジュールをこなし、それなりの成果を手にし、同時に見出してきたつもりではあった。
だが、そもそもネットすらできなかった程であったのでブログにそれを載せられなかったのは残念である。
今日からの7月。
夏らしい月が始まる。
ボクのなかでは6月も8月も夏とは言い難い。
さわやかで思い出に残る夏のイメージとは7月をおいてほかにない。
入道雲が山や海にかぶさる絵図は幼い夏であり、真の夏だ。
かき氷、スイカ、水しぶき、プール、海、山、カブトムシ、川、サンダル、陽炎、マウンテンバイク、挑戦。
日陰、クーラー、扇風機、団扇、浴衣、祭り、花火、恋、日焼け、10代。
アニメ祭、漫画、ごろ寝、タオルケット、アイス、読書、宿題、31日。
夏は欲望の季節だからか言葉が次々に湧いて出る。
そして、きっとこれはそれらを一年中憧れ続けているからであろう。
それはすなわち、ボクがそれらを本当の意味で楽しめてきていないからで今までの夏を無駄にしてきたからである。
というより、夏には夏の過ごし方をダメにする効果があるようだ。
それは皆がうなずくのであろう常識というかいわゆるデフォルメである。
ボクは上記の夏のイメージの情景はすべて小説や歌詞、アニメ、漫画などで収集したステレオタイプなのだ。
夏は絶対に無駄になるだろう。
そして後悔するのが夏である。
一年の中腹にあたるこの季節は一年の盛りである。
それは一生の中腹ともいえる。
であれば、「夏を無駄にはしたくない」が常識だ。
ものの本には必ず乗っているような言葉ではあるが、それは人生において大切で素敵なことのようだ。
6月はいたって多忙な日々であったからブログの更新もままならなかった。
たくさんのスケジュールをこなし、それなりの成果を手にし、同時に見出してきたつもりではあった。
だが、そもそもネットすらできなかった程であったのでブログにそれを載せられなかったのは残念である。
今日からの7月。
夏らしい月が始まる。
ボクのなかでは6月も8月も夏とは言い難い。
さわやかで思い出に残る夏のイメージとは7月をおいてほかにない。
入道雲が山や海にかぶさる絵図は幼い夏であり、真の夏だ。
かき氷、スイカ、水しぶき、プール、海、山、カブトムシ、川、サンダル、陽炎、マウンテンバイク、挑戦。
日陰、クーラー、扇風機、団扇、浴衣、祭り、花火、恋、日焼け、10代。
アニメ祭、漫画、ごろ寝、タオルケット、アイス、読書、宿題、31日。
夏は欲望の季節だからか言葉が次々に湧いて出る。
そして、きっとこれはそれらを一年中憧れ続けているからであろう。
それはすなわち、ボクがそれらを本当の意味で楽しめてきていないからで今までの夏を無駄にしてきたからである。
というより、夏には夏の過ごし方をダメにする効果があるようだ。
それは皆がうなずくのであろう常識というかいわゆるデフォルメである。
ボクは上記の夏のイメージの情景はすべて小説や歌詞、アニメ、漫画などで収集したステレオタイプなのだ。
夏は絶対に無駄になるだろう。
そして後悔するのが夏である。
一年の中腹にあたるこの季節は一年の盛りである。
それは一生の中腹ともいえる。
であれば、「夏を無駄にはしたくない」が常識だ。
ものの本には必ず乗っているような言葉ではあるが、それは人生において大切で素敵なことのようだ。
デザインと美
24日に地元で活躍する広告デザイナーがボクの学科に講演に来た。
ボクは「デザイン」について最近考えるところがあったから真剣に聴いていたが、周りには念願のエアコンとデザイナーの語り口調があまりに静かでゆっくりであったためか堂々と居眠りするクラスメイトもいた。
彼は3時間ほどの講演であったが彼の作品の数々をディスプレイで見せながら、デザインとはなにかを大雑把であったが主要な部分を切り取って講じていた。
「デザインとはなにか?」いざ考えてみるとこれに安易に答えることは難しい。
近いところはあるが美術とは言えない。
美術性、美学があることは間違いなさそうだが。
デザインに興味を持ち始めたときもそこまで考えていた。
テレビに出ていた川崎和男はそれについて的を射た考えを導いている。
デザインとは「効用・効能・・などでできている」と。(確かな部分はここだけ)
それを聞いた時、ボクは彼に意見におおいに頷けた。
ああ、デザインの美とは「実用の美」か。
デザインのあるものは確かに美しい。
デザインという外来語に惑わされがちだが、確かに美しさとデザイン性というものの間には繋がりがある。
そのうえ、日常、デザインと言えばインテリア、家具、ファッションなど実用品についての用語であり、自然にそれらとデザインとがイメージされる。
そして、もっと深く考え思想の域まで達すると実用性と美性というものは確かに同一であるという考えに辿りつく。
使えるものは美しい、醜いものは使えない。
そんな単純で一見、Noと抗いたくなる美と実用についての考えこそが人間の本能としてなんとも納得させられてしまう。
ボクは「デザイン」について最近考えるところがあったから真剣に聴いていたが、周りには念願のエアコンとデザイナーの語り口調があまりに静かでゆっくりであったためか堂々と居眠りするクラスメイトもいた。
彼は3時間ほどの講演であったが彼の作品の数々をディスプレイで見せながら、デザインとはなにかを大雑把であったが主要な部分を切り取って講じていた。
「デザインとはなにか?」いざ考えてみるとこれに安易に答えることは難しい。
近いところはあるが美術とは言えない。
美術性、美学があることは間違いなさそうだが。
デザインに興味を持ち始めたときもそこまで考えていた。
テレビに出ていた川崎和男はそれについて的を射た考えを導いている。
デザインとは「効用・効能・・などでできている」と。(確かな部分はここだけ)
それを聞いた時、ボクは彼に意見におおいに頷けた。
ああ、デザインの美とは「実用の美」か。
デザインのあるものは確かに美しい。
デザインという外来語に惑わされがちだが、確かに美しさとデザイン性というものの間には繋がりがある。
そのうえ、日常、デザインと言えばインテリア、家具、ファッションなど実用品についての用語であり、自然にそれらとデザインとがイメージされる。
そして、もっと深く考え思想の域まで達すると実用性と美性というものは確かに同一であるという考えに辿りつく。
使えるものは美しい、醜いものは使えない。
そんな単純で一見、Noと抗いたくなる美と実用についての考えこそが人間の本能としてなんとも納得させられてしまう。
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