2008年8月30日土曜日

漫画研究部 更木剣八篇

「楽しめよ!死も苦しみも!ただ一つの代償だろうが!」
漫画「BLECH」は、殺し合いを好む、アウトローな登場キャラの更木剣八のセリフの一つで、主人公・一護との戦闘シーンで出てくる。
ボクはこれがどうにも上手く理解できなかった。
戦いを楽しみ、死や苦しみは恐怖には繋がらず、代償とする発想がそこにはあるのだろうか。
しかし、このセリフはその発想の裏打ちした場合だ。
このセリフをその発想を無視した場合、①「楽しめよ!死も苦しみも!」と②「死も苦しみも!ただ一つの代償だろうが!」に分けられ、分けることにより更木の2種類の思想を垣間見ることができる。

更木はただ単に敵を倒すことに楽しみを求めず、戦いそのものに楽しみを求める、戦いを「遊び」としているのでそこに目的を必要としない。
その思想の持ち主であり、それを実行できる力と精神があるからこそ、相手を圧倒することも相手からの攻撃をまともに受けて平気でいられることが可能なのだろう。
ボクは更木剣八が大好きだ。
きっと思想があり、かつ強く、恐怖がないからだ。
恐怖がないので、敵に何度も斬られてボロボロになっても息を切らさず、恐怖を感じず、より楽しもうとする。
そこに生きる積極性があり、人間としての模範がある。
だから、ボクは魅かれるのだろう。

2008年8月26日火曜日

夢なんて下らないという夢

夢だとか、何になりたいかを聞かれるのがボクは苦手で、学校通っているから、しょっちゅうあるけどもなかなか頭に浮かんでこないね。
もちろん、好きなことも尊敬する人もいるけども、そういうのに乗っかっていこうとは思わないし、自分のなかのモラルがカッコ悪いからやめろと言うね。
実際、尊敬する人自体にはなれないし。
別に夢なんていらないけど自分の力を出し切ろう、自分のやりたいことをやって死のう、なんて考えている人間が夢を叶えられる。
実際、そういう意識で動いているから夢が叶っても嬉しくもないだろうけど。
そうありたいね。
いちいち夢を語っている余裕なんて下らない。
いま、やりたいことをやればいいんだ。
やりたいことと夢は違う。
やりたいことは遊びみたいなものだが、夢はその行動に裏打ちされる意義を必要とするからだ。
人間の歴史は欲望の歴史だ。
意味もなくこうたいという歴史だ。
そこには確たる正義もなく感覚におぼれているだけである。

以上!

2008年8月23日土曜日

アニメと無意識の日常

最近、アニメの人気ジャンルとなりつつある「日常系」は元祖を高橋留美子とし、癒しや平穏を売りにしている。
「らき☆すた」や「みなみけ」は昨年の人気作品だった。
しかし、日常といいながら非日常な点がある。
代表的なのが、髪の色である。
最近のアニメはすべてそうかもしれないが、日常系まで髪の色は金や紫、赤などカラフルだ。
実際、日本全国、女子高生の髪が赤だったら怖いものだ。

結局、アニメというのは内容がいくら日常的になっても非現実として存在しなければならないのではないか。
あくまで画面のなかの世界の住人なのだ。
これはインターネットにもつながり、インターネット内はあっち(・・・)の世界と呼ばれる。

アニメにしてもインターネットにしても、現実とリンクしていても見る側も別世界だと意識しているのだろう。

以上!

2008年8月18日月曜日

学習予定

これからの学習は無意識やエスなどの見えない自分や意識できない自我の分野である精神分析学や反ヘーゲルだったショーペンハウワ―の系譜の哲学だ。
もしくは、甲野善紀の言うような古武術だ。
精神分析学や哲学は学問であるが、古武術はなぜ探究に役立つか。
それは、古武術は不合理な体の使い方をすると見かけから思われがちだが、実際は体を使いやすくするための術理だそうだ。
体をうまく使えばより速く、的確に相手に勝てる。

とても合理的だ。
最近では、その体の働きをスポーツに応用しようと着目されているが、ボクとしてはなぜ、最初からそう使わないか、自分の体にもかかわらずどうして合理的な動作ができないのか、を発見したいがためだ。
そういう余地が古武術にはある。
余地というのは先の人間がつくりあげたので、適切な表現ではない。
しかし、忘れられた部分としては取り戻す価値がある。

2008年8月11日月曜日

理性へ

常に考えることを権利とし、武器とし、存在意義とし思索している人生、すくなくとも努力している人生だが、一つの恐怖がある。
思索が真理に辿り着く方法であるか、ということだ。
そこに論理の根本である条件や仮定がある。
つまり、「~ならば、・・・だ」の仮定から論理、方程式が始まる。
そこに困難がある。
論理や理性を信じなければならない。
道理を道理抜きで信用しなければ、先に進められない。
そこが論理の始発点の矛盾だ。
つまり、そこを常に考えておかないと理性至上主義(主知主義)に陥りやすくなり、理性以外を見逃しがちになる。
そこが訓示としたいのである。

以上!

2008年8月8日金曜日

馬鹿も守って

たとえば、典型的な馬鹿がいるとする。
ものごとの根本を探らず表面上の作用にしか目を向けない低い思考の持ち主だ。
この型の人間をボクはもっとも嫌う。
また、たいていの人間の思考だ。
考えるときは深く考えるのだろうが、日常はそんなに深く考えない。
それはすばらしい思想を持った哲学者の中にもいる。
つまり、自分の思想の通りに生きない哲学者。
そういうだらしなさは人類共通だ。

それを人間は自嘲のように認める。
その典型が落語だ。
立川談志いわく、「落語とは人間の業を肯定するものである」と。
そこが一つの美学や憧れだろうな。
狂うことが芸術家の典型的な要素の一つだと世間一般では思われるんだろうが、それ自体が美学だからだろう。

以上!

2008年8月4日月曜日

言葉の二元論

言語の歴史にはずっと「いわゆる」言葉と「正規な」言葉があり、それらがときには相殺し、ときには絡み合っていた。
だから、言語はひもとくのが難しい。
変化している言葉と辞書に収められている言葉を両方知らなければ、文章というのは読めたものではない。
特に小説、物語はそうだ。
これらの場合、歴史的知識も必要となるからだ。
正規の言葉は百年ほど経っても変化は見られないが、いわゆる言葉は一年も経てば必ず変化しており、関連する言葉の数も増えている。
それは言葉の不埒さが原因だ。
それをとどめることはまずできない。
しかし、それは確かに認知されており、近年、「現代用語」として書籍化されている。
内容は辞書に載らない言葉、用語ばかりだ。
それの書籍はとても人気で売れている。
一般人も言葉の不埒さに困っているのだろう。
けれども、それをつくっているのは間違いなく一般人だ。

以上!

2008年8月3日日曜日

not FREND

ボクは他人が何を考えているのか、汲み取るのが苦手な人間なんだよね。
なんでこんなことで笑えるのか、なんでこんなことを平気で出来るのか。
そこがいまいち理解できない。
きっと、ボクのほうがズレテいるだろうとは思うけど。
ボクは友達と呼べる友達も少ない。
休日に出かける仲間とか、家に招く友人たる人物に関しては一人もいない。
単に学校で話したりする程度の人間は少しながらいるがね。
まあ、特に欲しいとは思ったことはない。
何年か前は家に招く友人もいたけど、正直、一緒にいてつまらなかった。
息苦しい。
さっさと時間が経たないかな、と思っていた。
そのときは同い年の連中は常にそれを「遊び」のひとつにしていたから、やっておくべきかな、と思い、そうしたのだが。
失敗だった。
「孤高」、それだけで十分だ。
そう思うと誇りも湧く。
そういう人間だな、ボクはさ。

以上!