2008年12月28日日曜日

生き方の問題

自分が何かに熱中するとそれを好きになっていくものですね。
ですが、好きになって批評ができないようになっていくのも考えものです。
つまり、それを善とみなしてしまうことが危うい行動であると思うのです。

ボクには自分の信念というものがあります。
それは『四諦と方法的懐疑、遊び、傲慢』であることです。
ですが、この信念もときには折れてしまいます。
それは「酔い」です。
酔いは人を元気づけることもあります。
もしかしたら今のボクも評論家な雰囲気に酔っているだけなのかもしれません。
ですが、酔いはなにかに依存することです。
それは思考の堕落につながります。
「生=思考」が人生と考えているボクには堪えかねません。
酔っている人はなにかの道に生きています。
出来上がった道を歩く者です。
ボクが目指しているものは道を疑い、道で遊ぶことです。
こうすることが真理なんて考えている人はあまりに怠惰な人間です。
自分からはなにも考えていない、創造出来ていない。
生き方が受動的です。
恐れているからか保守的になっています。
人生は走り回るものです。
遊ぶものです。
命に価値を求めず、道具として扱うべきものなのです。

上記の信念は孤独にさせます。
ですが、あの信念を持つには自然と孤独を求めているはずなのです。
群れて馬鹿になるより孤高を目指すほうが崇高であることもボクたちは知っているのではないでしょうか。

以上!

2008年12月25日木曜日

「合理的」の濫用の歴史

「合理的」という言葉が巷では頻繁に使われるが、この言葉ほど使用にやっかいなものはない。
合理とは何かをまず整理する必要があるからだ。
理に合う、手段として最も都合のよいルートに使用する。
問題はその判断が難しいところだ。
その理の証明に歴史的に数々の思想や哲学が生まれ、使用されてきた。
現在の立場から見れば、使用ではなく実験だろう。

例えば、環境破壊。
かつてのキリスト教社会、キリスト教の教えが社会の根本に根強くあった時代では自然というのは人間のためにあった。
神がご自身を写してつくられたという生物、それが人間。
その人間の資源として存在する自然環境。
その関係は現在から見れば、あまりに非合理的だ。
木を過剰に伐採すれば、自然のバランスを崩し、人間は結局その地から締め出される。
もしくは全滅する。
産業革命、いや、それ以前からわかっていたことだ。
エジプト、メソポタミア、インダス、黄河どの文明発祥の地を見ても、いまは砂漠と化している。
文明発祥の頃、各地の自然環境は豊かであっただろう。
資源が無ければ何も生み出すことができないのが人間だ。
しかし、エコなんてしらないものだからやりたい放題、文明発達し放題。
文明をもち始めて人類も若かったと言えば、それまでだが。
産業革命、いや、それ以前からわかっていたことなのだ。
あくまで現在からみればだが。

かつての合理的もいまでは愚の骨頂だ。
そこが難しいのだよ。
私的な話だが、安く売っている本をまとめ買いしてもあまり勉強にはならない。
それは安く売っている分、特に読みたくもない本も買ってしまう可能性があるから。
また、たくさん買うので結局、積読化する。
そんなところでさえ合理的な正解をみつけることは難しい。
そこではやはり、帰納法が重視され、実験や経験がカギとなる。
しかし、そうするとやってみないとわからないということなので、失敗の覚悟は常に必要だ。
帰納法的生活とはこういうことだろう。
とりあえず、とびこまなきゃ。
事実を積み重ね、正しい知とするには時間が大事となる。
だから、若いころになんでもさせたがるのね。
この生き方はさ。

以上!

2008年12月22日月曜日

よろこびとつらさの狭間

やはり、いやらしいが人間の性というのは「両方欲しい」というものだろう。
いま、部屋の模様替えをした。
窓向きだった机を逆に部屋向きにした。
視界が全く違うわけだから気分が違う。
ボクとしては「勉強部屋」から「オフィス」になったなと思った。
いや欺瞞として感じたわけだが。

しかし、人間は幸せや欺瞞でも喜びや自己満足を得ても、不幸な話で不満なときや苦しいとき、悩んでいるときの方が多いのではないだろうか。
模様替えをしてみたが、前の雰囲気も惜しまれる。
豪邸に住みたいが、家なしで旅人としても生きてみたい。
隠者として過ごしたいが、世界中を飛び回るビジネスも捨てがたい。
この世に固執しているのは人間の証とまでは言わなくても、皆が思っていることぐらいのものだろう。
欲の塊、この世の可能性、みずからの可能性に気づけば気づくほど、欲は出る。
なにもできなければいいのに。
ボクはもっと小さい存在だと思っていた。
しかし、何か出来る。
そのひとつが読書であったりするわけだけど。
知識が得られる、それを発揮することもできる。
それを昇華することも付け加えられることもできる。
それに自己満足する日々、時間に悦楽する。

まるでパスカルのように書いてしまった。

ただ、喜びを得ることは次に必ず来る苦悩を得ることになるのだろう。
これだけは小生の少ない限りの真の知恵になっている。
真の知恵とは生きる知恵だ。
読書で先人の知恵を得たとしても、それが生きているとは言えない。
生きているかどうかは証がいる。
脈を測ってみなければならない。
つまり、経験しなければならない。

ボクたちは悦楽と苦悩の狭間で生きている。
それから仏教に入っていくのもいいが、やはり、そんな世の中でも、つまりこんな理から遠いところであったとしても生きていこうと思うことにも美学があるのだろう。
泥の中にも美がある。
汚いのか、そうでないのか、富岡鉄斎的な問題だ。
そんな中に生きているのか・・・それこそ心の安息だ。
いますこし気分が良くなった。

以上!

2008年12月19日金曜日

マレー旅行

マレーシアへ行ってきた。
あちらは気温30℃ほどの日が続き、湿度も高く、ミストサウナのなかのような感じだった。
雨季だったが、雨には遭わず天気が続いた。
記録の詳細は別の文章に起こしてある

初の海外旅行となったわけではあるが、旅に疎いものだから見つけられるものも見つけられなかったような気がする。
電車や飛行機の乗り方でさえ滅多なものだから無駄に興奮してしまった。
もっと旅行、いや「外」に出ないと。
頭の中でもなかなかクリエイトは起こらなかった。
思考が止まっていたような気がする。
いま覚えていることは、ただ、スティーブ・ジョブズについてを新書で読んだだけか。

以上!

2008年12月12日金曜日

常識と世代間の哲学

人生五十年だった時代と百歳もざらにみる現代とでは命のあり方、人生の目的意識も異なっていたであろう。
そういう所謂、意識の違いが判断力や思考力を変化させ、独特の思想や哲学を築いていった。
それには環境という概念は非常に大切なポイントとなる。
すべて環境による決定とは言い難いが、それでも自己よりも環境の方が判断の分が多いのではないか。
そう考えると我々がいま、悩んでいる「空気」についてはまさにそれであろう。
全体が支配し、かつ各々の中に住むものの仕業だ。
全体を築くためには、社会と言い換えてもいいが、それには共通する感覚、一般意思がないと築くことはできない。
それには多少のずれこそあれ常識として荘厳に世の中に君臨する。
しかし、その常識がどれほど現代という時代において使用するには脆く、性質も変化しやすいか。
それは近頃、考えた「世代間の哲学」がまさしく答えとなろう。
世代が違えば考えることも違い、自ずと常識とするものも異なってくる。
ケータイが常識の世代、好景気体験が常識の世代、戦争体験が常識の世代、生まれたばかりの世代、死に逝く世代。
変化の激しい現代であるからして、このような世代間のズレが生じる。
江戸時代の農村ならば、50年前の人間が未来に行ったとしても、さほどの障害は起こらないだろうが、現代ならばもはやその人間の常識など何の役にも立たないであろう。
それは我々が望み、かつ望まなかったことだ。
「最速」という言葉が電子機器においてポジティブに聞こえ、「スローライフ」という言葉が生活様式においてはポジティブに聞こえる。
しかし、両方を望み、両方で幸福を得ることは不可能である。
真に生きるということは何かを捨てなければならない。

以上!

2008年12月4日木曜日

たまにはリアルタイムの小言

年末も近づき、一年間を思い返す日々ですが、特に何をするでもなく平凡な毎日です。
そんな毎日の積み重ねではありますが、ちりも積もれば山となる。
少しづつの変化を感じることがあります。
それが偶然か、それとも実力からの必然か。
どちらも因果関係上、あると思います。
実力を持っているから周囲も変化し、他人の意思をも変えてしまうことはあるでしょう。

読書ぐらいしか趣味のない人間ですが、それでも積み重ねたことに、読み重ねたことになると思います。
まだまだ、至らなさを感じますが、それが向上心の糧になると思い精進しています。

以上!

2008年12月2日火曜日

風土というテーマ

秋の涼しさというのはなんとも言えぬ穏やかさがある。
自然の美、芸術の美、知の美と、過ごすのに充実感がある。
四季は日本の風土を表す場合に第一となるのだろうが、その四季は何に例えるか。
四季というのは変化だ。
モンスーン風土の象徴、四季のなかで諸行無常が生まれたのも頷ける。
諸行無常が真理の一つであることはまちがいない。
四季に比べれば、四季のないヨーロッパの気候は瞬間の連続にすぎない。
季節をくりぬいたにすぎないとナショナリズム的にも感じてしまう。
もっとも、四季は生と死の連続が連なることで無変化を生みだす。
変化のうちにある永遠、四季はそれを感じられる。
変化のない永遠を思い浮かべるのはいつ行っても変わらないヨーロッパの風土だ。
永遠という概念をどうとらえるかで、宗教にはもちろん、文化、芸術に大きく影響する。
それは人生観にもつながり哲学につながる。
和辻哲郎の「風土」という概念は世界を抽象化して観察するにとても実践的な論拠となる。
風土、それは文化や芸術の根本とされる以上、ボクの分野の鍵となることが予測される。
では、風土の研究はボクの絶対に必要なことになるだろう。
海外での研修はその絶好の機会である。
それを意識することを忘れずに臨みたいものである。

以上!

2008年12月1日月曜日

読書から得ることと注意すること

よく考えてみれば自分の行いが損であることに気づくことなどしょっちゅうだ。
そのひとつが『バカの壁』(養老猛司・新潮新書)にあった。
ボクは自分というものを知りたく、もがいていた。
いや、それ自体は今もかもしれない。
自分とは、つまり個性とはなにか。
それを知りたくて、そして作っていきたくて、ここを作ったともいえるのだ。
だが、自分の体が日々、変化していくのにその度に自分の個性を整理していくのは間が抜けている。
そう思い、やめたわけではない、ただ楽になった。
自分をわざわざ知ろうとする行為がただの足掻きであったことを知って、なんだか正解を見つけられたような気がしたのだ。

だが、ボクの信条やモットーのようなものに「抗い」というものがある。
人間はなぜスムーズに生きられないのか。
なぜ面倒にも悩まなければならないのか。
なぜ苦しみがあるのか。
それは、それに役割があるからだ。
苦しむことも悩むことも、嘆くことも一見、不器用で無為自然とは逆の道と思われるだろうが、それがあるのはそれに役割があるからに違いない。
すくなくとも、ボクは生きていく上で役割を与えられていないものを見たことがない。
(これはある意味、低迷し、学問としての体系が危ぶまれる哲学への救いとでも言い換えられる。)
ボクは正しさを否定する「抗い」がより正しい結果を生んでくれることを確信し、生き方として、それを据えている。
上記は、少々、ヘーゲルの弁証法に近い考え方かもしれないが。
世の中において可能性が0になることはない。
その可能性に向けて「抗い」続けよう。

読書する際に気をつけていることがある。
それは本の内容を「鵜呑みにしないこと」だ。
鵜呑みにし、その内容を信じ込むことはとても危うい行為であるし、それは読書としてボクは一次の読み方だと思う。
一次は文字を拾っていき、表面だけをすくっていく行為である。
そこには記憶力しかいらない。
たいてい、読書というとこれでもっとも楽な読み方だ。
二次になると、すこし深くなり、著者と会話している気分になる。
綾や文書の構成、書き方のかたさからなにを言いたいのかわかる。
三次は感情を感じ取る方法だ。
内容より感情を優先させる。
二次と同じように思えるが、二次はあくまで文章で理解しなければならず、三次は感覚だ。
もはや、理屈抜き。
親友と話しているくらいに文章を把握していないと著者とのシンクロはできない。
著者が実際、どう思っているのか。
相手は物書きであり、文字で隠されている気持ちや感情を嗅ぎ分けていく力が必要だ。
これはインスピレーションの問題かもしれない。

今回はとくに散漫なものになった。

なにをすればわからない。
アニメか。
陶芸か。
ファッションか。
さあな。

以上!

2008年11月30日日曜日

視点を持つ、持たない

ボクはどちらかというと受け入れやすい性格で好き嫌いがなく生きている。
「視点」という好きな言葉がある。
さまざまな視点では異なった価値観が存在する。
視点をずらすと人の価値観なんてものは脆弱なものと化す。

しかし、自らが人生を選択し決定することが人間らしい知性のある生き方だ。
サルトルみたいなことを書いてしまったが、好きとか嫌いとかを自らの中に持つことで自分という枠を持つことができる。
オリジナリティー、アイデンティティは主体的に作っていくものだろう。
川喜多半泥子はキレイダ・キライダをはっきり言い続けた風流人であり、陶芸の大家であり、三重・百五銀行の頭取も勤めた経済人でもある。
彼のように断言することで自分というものを確立できるかもしれない。
それは迷いを捨てることにつながるかもしれない。
ボクは以前、(こう思う人は世間にもいるかもしれない)価値観なんて視点次第という考えはなにか仙人のような、磨かれた知性だと思っていた。
そうなる途中に、プロセスとして、価値観を持つ時代があるのだと。
しかし、いまはそうではないことがわかった。
プロセスではない、それぞれは完成された作品だ。
タイプ、型のようなものでそこにこそ価値観はおけない。
別次元にあるのだ。

だいじなことをまとめたい。
要は、視点を変えてみたり、ワープしたりすることで価値観の相違を量ることとひとつの視点に当てはまって、そこから自分を押し出していくことの両方をうまく利用することが人生において柔軟でいられる方法なのだ。

以上!

2008年11月29日土曜日

おっぱいの発見

ボクはどちらかというと、おっぱいに興味がわかなかった。
まあ、獣、自然派だったわけです。
しかし、最近、エロ同人誌の読みすぎか、すこしずつ良さがわかってきた。
わかってきたからか、「おっぱい」という言葉の面白さを発見した。

そもそも「おっぱい」は幼稚さが伴った言葉だ。
そこから考えた結果をまず述べる。
乳房は小さくてもいいにしろ、おっぱいは小さいことは許されない。
それは言葉のニュアンスの違いであり、またはボクの偏見だろう。
理由はなにか、簡単だ。
おっぱいは破裂音が伴っている。
そこだ。
破裂音から「おっ・ぱい!」は大きい乳を表す。
巨乳とは言わないが、ある程度の張りのある大きな乳は乳児にとって必要で、そこからおっぱいは幼稚さにつながる。

以上!

2008年11月27日木曜日

いまのオタク

注:「オタク」はオタク文化、サブカルチャー、下流社会全般を広い意味で示しています。

“オタク”なんてものは「消す価値もない」と思われているべきなのだ。
それによって生き延びてきたのだから。
また、そう思われることにオタクとして意義があった。

しかし、最近はほんとうにオタクがメインカルチャーにこそならないものの、注目の的に、悪く言えば、「叩かれている」のだ。
そこがボクとしては好奇心が出る反面、オタクが消滅する危険性があるとして恐れてもいるのである。
この世は移ろいがあるとはいえ、自分の拠り所が消えていくのをみすみす見ていたくない。
有効な手としてはアキバを捨てることだ。
もはや、アキバは観光地と化している。
金銭がうごめき、オタク情緒の街ではないのだ。
街全体がテーマパークだ。
隠れ里ではもはやない。
やはり、開拓するしかあるまい。
現実世界に。
もっとも、最初はヴァーチャルなネットも考えられたが、アキバよりも質が悪い。
壁など無いに等しいからだ。
東京にあること自体テーマパーク化する恐れがあるのだ。
東京に近い県でよいのではないか。
それぐらい真にアンダーグラウンドだった時代が羨ましく思える。

以上!

2008年11月21日金曜日

好き嫌い

こどものたべものに対する好き嫌いは食の豊かさとともに日本にやってきた。
それに関して、モラル的に好き嫌いを否定するのはあまりに前時代的だ。
食の豊かさを得るとはこういうことであると貧しい時代は予想できなかったのだ。
「空腹」、それは戦争直後を味わった世代と戦後生まれの世代とではまた違い、平成の世に生まれた世代ならば雲泥の差であろう。
われわれの世の中では、空腹感は飢餓につながることはない。
空腹感がなくとも、時間に合わして飯を食っているだけである。
そんな食が食べることに本意を持たない世代には好き嫌いなどあって当然である。

そんななかでも、ニンジン嫌いのこどもにニンジン嫌いを克服させようとするテレビ番組を見かけるが、大抵、この手の番組の結果はニンジンをニンジンでなくしてこどもに食べさせるものである。
見ていて何をしているのかわからない。
ニンジンからニンジンの風味をなくしたニンジン料理など克服でも何でもない。
世の中に出てニンジンの風味のないニンジン料理を食べることはまずないだろう。
風味は料理の目的にも近い。
ただ、好き嫌いがいけないことだからニンジン嫌いをやめさせようなどというのは浅はかな考えだ。
今の時代、好き嫌いの2つや3つ、何ら人生に障壁とならない。
もちろん、嫌いになる食材にもよろうが、それも障壁とは呼べまい。

好きか嫌いか意見を持つことは大事だ。
自分があることは社会に入る第一歩だ。
好き嫌いがあるということは豊かさの象徴だ。
 
以上!

2008年11月18日火曜日

楽しいから強くなれる

剣に触れていると初めて触れたときより短く軽く思える。
剣に常に触れていることが大事だ。
柄の触感や抜きの感覚を常に掴んでおくのだ。
それは剣が好きな者勝ちだ。
常に何かを斬りたい、殺したいと思う心を持つ者だ。
斬る為にもっとも優れた剣、日本刀が自分の欲求を叶えてくれる。
だから、好きになれる。
剣を好きになろう。

以上!

2008年11月16日日曜日

海舟伝

勝海舟は「コレデオシマイ」と遺書に記している。
そういうところが勝海舟らしく、彼の人気の理由だろう。
人生を謳歌するものとして余裕が感じ取れる。
余裕を持つ人物こそ歴史に名を残せるのではないか。
つねに気負いを感じ、せっぱつまっては頭も固くなるばかりである。
もっと、遊びを感じ、大きく大きくか考えていかなければやりたいことも見つからないまま終わっていくだろう。
勝海舟はたしかに成り上がりだ。
曽祖父は盲目で百姓の生まれから高利貸しになった人物で、高利貸しで得た大金で武士の身分を買っている。
しかし、勝家のくらしは貧しく、旗本であったが無役であったという。
低い身分の者が幕末の中心であったのだろうか。
勝海舟はじめ坂本竜馬、新撰組、山岡鉄舟など多く挙げられる。

勝の生きざまはなんとも男気溢れる。
それは彼の江戸っ子なまりに現れるようにロマンがあり、人生を物語のように感じていたのではないかと推測できる。
そこからは先述のように余裕が感じ取れるのだ。
「コレデオシマイ」その物語の終わりというものをバッと感じ取れる。
同じように白洲次郎も素晴らしい遺書を残している。

以上!

2008年11月13日木曜日

常識と世代の哲学

人生五十年だった時代と百歳もざらにみる現代とでは命のあり方、人生の目的意識も異なっていたであろう。
そういう所謂、意識の違いが判断力や思考力を変化させ、独特の思想や哲学を築いていった。
それには環境という概念は非常に大切なポイントとなる。
すべて環境による決定とは言い難いが、それでも自己よりも環境の方が判断の分が多いのではないか。
そう考えると我々がいま、悩んでいる「空気」についてはまさにそれであろう。
全体が支配し、かつ各々の中に住むものの仕業だ。
全体を築くためには、社会と言い換えてもいいが、それには共通する感覚、一般意思がないと築くことはできない。
それには多少のずれこそあれ常識として荘厳に世の中に君臨する。
しかし、その常識がどれほど現代という時代において使用するには脆く、性質も変化しやすいか。
それは近頃、考えた「世代間の哲学」がまさしく答えとなろう。
世代が違えば考えることも違い、自ずと常識とするものも異なってくる。
ケータイが常識の世代、好景気体験が常識の世代、戦争体験が常識の世代、生まれたばかりの世代、死に逝く世代。
変化の激しい現代であるからして、このような世代間のズレが生じる。
江戸時代の農村ならば、50年前の人間が未来に行ったとしても、さほどの障害は起こらないだろうが、現代ならばもはやその人間の常識など何の役にも立たないであろう。
それは我々が望み、かつ望まなかったことだ。
「最速」という言葉が電子機器においてポジティブに聞こえ、「スローライフ」という言葉が生活様式においてはポジティブに聞こえる。
しかし、両方を望み、両方で幸福を得ることは不可能である。
真に生きるということは何かを捨てなければならない。

以上!

2008年11月7日金曜日

器のなかの人間

人間は、とくに科学者は、多少なりとも宇宙の実態を解き明かしてきていると思っているのだろうが、解き明かした部分など全くない。
ただ、こうであるという大きな仮説を結果とし、それを真実に置き換えているにすぎない。
だから、人間の真実というのはすぐに変わる。
欲望や権力が真実を曲げるのは人間の常道であろう。
織田信長の死、聖徳太子の実在など歴史はすぐ塗り替えられる。
歴史はその代表だが、科学もそうである。
火とはなにか。
それを考え、数千年がたつ。
古来は自然哲学者が考え、現在は科学者が考えている。
時代とともに火の発生原理は塗り替えられてきた。
これを科学の進歩と唱える輩もいるかもしれないが、これは公式な理論が新論に代っていったのだ。
人間が真実を塗り替えているにすぎない。
自然はもっと虚ろだ。
ただ、人間が自然に色をつけ見ているのである。
まるで、人間は自然の中で生きていながらも、別の世界に実体、本当の自然があるのではないかとボクは思ってしまう。
イデア論のようになってしまった。
また、『マトリックス』の世界観もある。
まあ、これを非科学的なものだとして切り捨てるのが科学であろうが、これもまた1つの論として成り立つことも否めないのではないか。

以上!

2008年11月5日水曜日

ひとつの方法

よく読書している時や調べものしている時、恥ずかしながらテストの問題を解いている時にわからないところにぶつかる。
ボクが嫌うことはこのときに止まってしまうことだ。
ウォーターフォールモデルのように目の前の障壁を飛ばしてしまうことや後戻りすることは決して効率のよい方法とはいえない。
しかし、そうなってしまう人間の方が多いのではないか。
そういう人間は時間の有効活用の面からいえば柔軟性に欠ける。
そういう人間は生真面目なのかもしれない。
問題を飛ばすことをズルかなんかと思っているのかもしれない。
しかし、そんな勝ち目のない問題よりも勝算のある問題を解いていった方が断然、点は取れる。
その方が、解ける問題にあたりやすいだろうし、精神的にもリラックスできる。
できない問題で力んでいると、それが解けても疲れが残り、その後に支障を来す。
そう考えると、わからないことはとばし、残った時間でそれを解こうとする方が賢明だろう。
先週、テストがあったので書いた。

以上!

2008年11月2日日曜日

カントリージェントルマン

「カントリージェントルマン」という人間がいる。
白洲次郎が理想とした姿だそうだ。
田舎紳士という意味ではなく、財政の中心からはすこし離れたところにいながら、中心の様子を注意深く伺っている人間をイギリスではそう呼ぶそうだ。
もともと、イギリスには伝統的に貴族が社会に生きている。
いや、貴族のみならず、階級、身分という伝統が日本とは違って未だに生きている。
その、貴族の屋敷はすべてがロンドンの中心にあるわけではない。
郊外に広い敷地とともに建っている伝統的な屋敷は多い。
それからもカントリージェントルマンの姿、発端が伺える。

カントリージェントルマン、そういう政治家の在り方は日本にもあったのではないか。
もともと、武士階級がそうであったであろう。
鎌倉時代のころから「いざ鎌倉」という武士の言葉があった。
やはり、鎌倉時代の武士がカントリージェントルマンに当たるだろう。
同時代の西洋の騎士がカントリージェントルマンの発生とみると、日本も西洋も中世、封建社会の始まりに現代社会の為政者のはじまりを見ることができる。
つまり、後々に大名になっていく「武士」だとか、貴族化していく「騎士」はもともと地方にいながらも積極的に政治を考える人間だった。
彼らは考えていたのだろうと思う。
彼らは地方の為政者であり、かつ国を考える。
それには命を張っていた。
なにせ、彼らの生業は戦闘である。
そして、死以上の価値の名誉は美意識としてあった。

カントリージェントルマンは社会人としてあるべき姿だろう。
アンガージュマンほど意気込む必要もないニュアンスがあるだろう。
カントリージェントルマンは日本人には懐かしく、イギリスでは継承していくべき姿なのかもしれない。
そう考えると日本人の白洲次郎がイギリスでそれを見つけられたのも必然的だ。

以上!

2008年11月1日土曜日

セリフ分析考察

漫画を読んでいて、「あれこのキャラのイメージに合わないセリフ言わせているぞ」っていうことがあった。
まず、「妙だな」と思ったが、だんだんと「いや、この漫画家は実は頭の切れる奴じゃないか」と思えてきた。
それはなぜか。

ほら、だいたい漫画のキャラって固定化されていて、それに合わせたセリフも固定化されているでしょ。
主人公ならクール系とか熱血系とかいじめられっ子系とかアンチヒーローだったりとだいたいわかりやすい。
主人公が成長するのは当たり前、それに合わせたセリフをかけるのも当たり前。
漫画家なら当然でしょ。
最初からのキャラでずっと書いていたって誰も楽しめやしない。
じゃあ、そう(・・)で(・)ない(・・)漫画家とはなにか。
ボクは主人公以外にも成長が、もしくは変化を描ける漫画家は才能があると思う。
ひとり、ひとりに思想を持たせ伸ばしていく、そのなかで諸々の、少しずつの成長、変化を描けるのなら人を見る目のある人間であり、たいしたものを描いてくれると思う。
思想と言ったが、人間を描く限りはキャラに思想を持たせることは重要だ。
そうすることによってキャラは「思想の記号」となる。
それにより、なにが起こっているか、ストーリーの展開がわかりやすくなると思う。
展開が先読みできる作品という意味ではない。
それは固定化された流れ(フラグ)に従っているだけだ。
言いたいのは先読みではなく、今を読む技術だ。
瞬間を分析することは絵で描かれ、それによりキャラの数も多くすることのできる漫画の長所であり、年齢や国を問わないともなれば特権とも言える。
そのためには「思想の記号」を意識し、成長や変化の流れをくみとることで常にキャラを的確に捉えることが重要だ。
今、現在の分析を欠いては未来を読むことはできず、未来図も妄想に囚われたにすぎなくなる。

以上!

2008年10月31日金曜日

タイトル

読み物のタイトルはやはり奇をてらうくらいじゃないと。
マキシマムザホルモンの曲のタイトルくらいにさ。
なにがなんだかわからない。
それくらいじゃないと、タイトルの芸術が廃る。

以上!

2008年10月28日火曜日

真実とともに生きる

もし、セックスで快楽が得られなくなったら人は死ぬのではないか。
たまにこう思ってしまう。
それは童貞の思いこみかもしれない。
しかし、これは真剣な思い込みだ。
至上の事が破られれば、そのあとはどうなる。
始まるから終わるのであり、なにごとにも限界はあるのは当然だ。
では、セックスで快楽が得られなくなる日には、人は新たな境地に立てるのか。
それはステップなのかスットプなのか。
スットプならば、きっと世界の小ささを感じることだろう。
それは絶望である。
幼いころの思い出はどうしてか澄んでおり、齢が経つにつれ、グレーに、文字化していく。
“みえる”ってことはそういうものなのかもしれない。
世間や空気なんて言うみえないものが見えてくる。
感じてくる、実際に在る。
だが、世界が小さく見えるのは実際小さいからではなく、世界は小さいという真実を作り上げている自分がいることに気づかなければならない。
世界の本質を知ることは不可能である。
カントじゃないが、不可知論を認めることはいたって冷静な知性だと思う。
四諦と書いて、仏教では四つの真理を表す。
真理を「諦め」という字で表すことは納得がいき、かつ、けだるさがある。
本質を知るのは不可能、ならば自ら決定していくほかない。

以上!

2008年10月25日土曜日

自己決定こそ人生

悪も行き過ぎると正義となる。
相対的な存在の価値なんてものはないとは言い難いが不透明であることは間違いない。
それは一種の悟りだろう。
是非じゃない。
善悪じゃない。
それはただの言葉だ。
道教や禅の世界観に近い。
老いた考えと無視されるかもしれない。
だが、真実はそういうものだ。
その老いた考えとやらも相対的な価値となり、ボクの言い分では無に帰す。
ただ、真実がそれだからといって堅苦しく生きろとは言ってない。
真実は各々が決めることだ。
ボクの言い分だって、強制的に無視することもできる。
人間には確かにそういう瞬間に自由があるように思える。
いろんなタイプの人生、それを送るための方法がある。
人は思考方法では帰納法でいくか、演繹法でいくか選べる。
ただ、選択の際の責任は自己にある。
それも無視することはできるが、誰もがその強力な無視ができるわけではない。
人は全体で見ると弱い。
絶対にくじける者がいる。
それを歴史のなかでは犠牲とよんだが、歴史は人間全体の歴史だ。
個人の生き方とは無縁だ。
真実を決めるのは全体ではなく、自分であり、生きるのも自分次第だ。

以上!

2008年10月21日火曜日

書籍のこれから

辞書を書籍と見ることはあまりなく、その存在をなにとすればよいか決めかねるところである。
しかし、辞書はもっとも古い書籍のジャンルであろう。
ものごとの定義が示してあることは書物が最初に必要とされたであろうことは容易に考えられる。
ボンパドール夫人の手元にあったのは百科事典であった。
知は常に辞書、辞典から始まっていた。
今では電子辞書、パソコンや携帯電話の辞書機能などから書籍の辞書を紐解く機会も少なくなったと思われる。
しかし、書籍の辞書は廃れいく存在かもしれないが、絶滅することはないだろう。
その人気は減少こそあれ、0になることはないのだ。
話題を広くしよう。
書籍の絶滅もありえないであろう。
そこには学術的根拠はない。
それが普通である、常識であるというような固定概念があり、しかし、また、生き抜く知恵が書籍にはあるというような気がしてならない。
紙でできた情報媒体、書籍は削る部分がそんなにない。
また、まとめ的役割があることが最近の書籍の状況よりわかる。
ケータイ小説が書籍化されるところを見ると紙文明は新たな時代に新たな役割を担わされたのかもしれない。
書籍の中でも面白いと思ったのは、名作の漫画化や名作を横書きにした本が出回っていることだ。
そこに書籍のフットワークの軽さ、汎用性を垣間見たような気がする。
それは生き残りの知恵でもあり、情報媒体の王位を未だに離れまいとしている余裕の態度にも思える。

辞書はその中でも王だ。
それはあの前時代的なインテリの印象、でかい図体のことからそう言っているのではない。
それは文字を並べ置き、知を保存する役割を持つ書物の中でも、その文字を生業とする書物だからである。
文字を決めるのは吾のみするところは王者の風格だ。
文字を定義する権限は文学を問わず文字を扱うものにとって絶大なものだ。
その辞書の風格はやはり紙ならではであろう。

以上!

2008年10月16日木曜日

浅い決意

最近、もっと本を読まなきゃと思い、1週間に2,3冊の新書を購入している。
お金はかかるが、自己投資できる時間は今しかないと思い、面白そうなものを選んで買っている。
そのなかの『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』著:山本ケイイチのなかの「第8章できる人のトレーニング」にあったトレーニングに対する心構えや注意点は初心者向けであり、かつビジネス要素もある汎用的な内容であった。
共感する内容も多々あり、日常に生きる知恵がある。

そういうものに触れるたびに、「ああ、自分を変えなきゃ・・・。」としみじみ感じてしまう。
こういうものって意識しなきゃ何も変わらないってことをあらためて教えられる。
まあ、「遊び」を根底に自分を変えていきたい。
スキルを付けて人生を謳歌するのだ。

以上!

2008年10月15日水曜日

生きる、活きる

怠惰な生活とはよく言うが、行き詰まりの生活はもっと苦しい怠惰な生活は客観的に見ているが、行き詰まりの生活というのは主観的にみている感じであるからだ。
あくまでボク個人の解釈と感覚からの発言だが。

問題は行き詰まりの生活とは何かだ。
主観的であることは間違いないのだから、当人がそうであることを意識している、自覚していることは確かだろう。
うんざりとする、心の靄が晴れないような。
宇宙の真理を知り、気が触れたような感覚。
具体的にはボクにとっては何か。
それは閉塞的生活だ。
先に進むことをやめた極端かつ無意識のうちに陥っていた保守的な生活全般を指す。
広義の意味で、ボクが使用する場合の「破壊」がない生活だ。
なにかを疑ったり、否定したり、壊したりするアンチな行為、思考は「破壊」があるのだから必然的に「創造」がある。
それには挑戦が常に必要だ。
それをモチベーションとしてもいい。
それを意識することで少しは生活がマシになるのではないか、面白くなるのではないかというのがボクの生き方でもある。
挑戦のためには文化的に「読書」、「思索」、「瞑想」、「研究」が必要になる。
また、脳だけではなく体を使い「運動」することも上記の4つに良い影響を与える。
あの4つは挑戦するための手段なのである。
しかし、挑戦することは手段であり、目的とも化している。
それは生きることは動名詞であるからだ。
つまり動詞でもあり、名詞でもあり、二重の意味があるからだ。
二重の世界が同時に存在することは深い意味をもつ。
止まっている世界と動いている世界が同時にあることを想像するのは相当、思考と解釈に工夫を必要とするだろう。
「静中動」これ動名詞なり。
動名詞、これ人生なり。
一瞬、一瞬を生きていることには違いないが、それが動いているのも事実だ。

以上!

2008年10月14日火曜日

歴史を意識する

一般人は歴史を意識することはあまりない。
つまり、個々にものが存在すると誤解している。
だが、現実はそんなことはあり得ない。
たとえば、ネクタイとローマ兵と言われても、その二つの関係はかなり希薄だろうと思うのが一般人であろう。
しかし、歴史をたどればネクタイの源流はローマ兵が首に巻いた布から来ていることがわかる。
ネクタイとローマ兵は歴史的には無視できないほどの関係線が引かれていたのである。

歴史とはものとものを結ぶ関係線である。
その関係線を結ぶのは創造力だ。
想ってみるのではなく創ってみるのだ。
歴史は年々、変遷されている。
それは新説が次々に創られているからだ。
いくら頑張っても真理たる文献や証拠はあまり出てこない。
そのようなときには歴史家は関係線を結ぶために蓄積した知識を活用し関係線を結ぶのだ。
関係線を勝手に創ってしまう。
創るから歴史は変わり、聖徳太子もいなくなった。

ドュールズはリゾームを唱えたが、歴史とはまさしくリゾームだ。
しかし、教科書では歴史は縦になっている。
昔から今の流れしかない。
もっと、横、斜めの関係線を結び、禍々しい、豊かな潮流が築かれてくことを学ばなければならない。

以上!

2008年10月11日土曜日

Rockという在り方

もともと、ロック自体がポップカルチャーの中心になったことが若者文化を語る上で重要になるだろう。
そこには「ロック=若者」という切り離せない関係をつくられた背景である。
ロック誕生は若者音楽や若者ファッションなどの要素を組み合わせポップカルチャーになっていたが、ロックの誕生からはロックを中心にしたポップカルチャーになっていったことがわかる。
ボク自身もポップカルチャーと言われ、まず頭に浮かぶのは「音楽」、すなわちJ-POPである。
ロックがポップカルチャーの中心になれたのはボクの考えるに若者そのものが音楽になったからであろう。
そこには「老い」がない。
常に反体制主義がある。
ニヒリズムに終着するのであろう諸行無常の形式、若さ、精神性、情熱そのものである。
ロックが初めて若者のための音楽となりえたのだ。

そのロックもかなり他分類化されミクスチャーロックのように種類が恐ろしく増えつつあり、また、もとより定義があいまいなため、ロックとは何か掴みにくくある。
しかし、それでも我々は何気ないことでも精神性としてのロックを感じ取ることがある。
それは錯覚や定義づけがあいまいなためではなく、感覚として感じるのだ。
そこにロックの奥深さ、本質があるのではないか。
ロックは音楽、その中の言葉という器に入っている精神性、感覚、パトス、思いなのだ。
それは日本人の仮名文字で表せられる感情に類似している。
「うつくし」、「あはれ」はロックと似た感覚にある。
漢字は字そのものが意味であり本質だ。
しかし、日本語は長らく文字がなかったためか文字は器にすぎない。
それは「うつくし」、「あはれ」のように平仮名で表せられるものは特にである。
純粋な感情が平仮名に込められている。

定義づけがないにもかかわらず感じ取ることができる音楽、ロックは定義づけがないゆえに生き残れ、多様化し続け、若者文化の中心であり続けるであろう。
感覚の音楽だからこそ心に入りやすい。

以上!

2008年10月8日水曜日

白洲次郎

最近ハマっている人物として白洲次郎がいる。
白洲次郎といえば終戦直後GHQ支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、東北電力会長、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員などを務めた政治家、実業家である。
生い立ちとしては、明治32年に生を受け、もともと実業家の家に生まれたらしく旧制第一神戸中学校に入学しているが、かなりの乱暴者として知られており、高級外国車を乗り回している。
これは白洲次郎、終生の性格、人格、趣味につながる。
卒業後はイギリス・ケンブリッジ大学に留学している。
このときも自動車に溺愛して、車をいじり油まみれになるため「オイリーボーイ」と呼ばれていた。
帰国後は伯爵樺山愛輔の娘、正子と結婚する。

白洲次郎も有名な人物ではあるが、白洲正子も随筆作家として有名である。
なにせ白洲正子というのは極端にいえば万人から恐れられた人物である。
政治家にも高級料亭の旦那にも容赦なく食い掛かっていく。
筋が通っており、単に爵位にぶらさがっているお嬢様ではない。

白洲次郎に戻ろう。
彼のエピソードで多いのは終戦連絡中央事務局にいた頃の話だろう。
終戦後の日本政府はGHQ/SCAPに対し従順すぎる態度であった。
しかし、白洲次郎はイギリス仕込みの流暢な英語とマナー、本人がもともと持っていた押しの強さと原理原則を重視する性格から、GHQ/SCAPの要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。
また、神と崇められるに等しい存在であったダグラス・マッカーサーが昭和天皇からのクリスマスプレゼントをぞんざいに扱われた際には届け役であった彼は「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせ、誤らせたという。

彼には日本人で初めてジーンズをはいたことぐらいのエピソードからコートニー・ホイットニー准将への皮肉のエピソードなど大小多くの有名なエピソードがある。
しかし、どれも白洲次郎的であり、つまりそれはダンディズムを表し、彼のルックスとともにかなりの男前である。
男なら誰でもこうありたいと思うのではないか。
そう感じさせてくれる人生、それを生きたのが白洲次郎その人である。

以上!

2008年10月4日土曜日

日本の美意識の断片

日本の美意識は、それを表す言葉が多く存在する。
「あはれ」、「もののあはれ」、「あっぱれ」、「すさび」、「幽玄」、「妙」、「わび」、「さび」などきりがない。
これらは現代人たる我々から見れば、ばらばらの価値観だが、歴史的には生まれてきた順序、誕生の背景、日本の美意識という潮流の系譜としてそれぞれがつながっている。
背景と言ったが、それは貴族社会だったり、戦乱だったり、町人文化であったりとさまざまだが公家が武家と、武家が公家とまったく同じ美意識を持っていたかというとそうではなかった。
だいたい、身分がまったく違うのだ。
身分内の気風、流行は身分ごとの個性や特徴を築いていった。
ただ、それも大きな系譜のなかでは歴史の流れとしてみることができる。

以上!

2008年10月2日木曜日

世界と自分の関係

世界がどうなっているのかも決定権は必ず自分にあり、逆に言うと世界を決める義務が自分にはある。
「他」の気持ちや状況、本質を100%捉えることは不可能だ。
「他」についてはヒントをもとに自分が決定しなければならない。
ゆえに「他」とはわからないことを指す。

独我論はボクにとって最も実感の沸く哲学だ。
だって、そう感じているのだもの、幼稚園の頃から。
自分が見えないところに果たして他人は存在するのだろうか。
その価値はあるのだろうか。
自分で捉えられる世界は自分の中にしかないのに。
見えないことの意味はないだろう。

以上!

2008年9月29日月曜日

言語ご注意

言葉にはやはり慎重であるべきだ。
言葉は自己表現の手段でありながら使いづらい手段であるからだ。
特に日本語は、ボクが日本人だからかもしれないが、難しい。
漢字や仮名、カタカナといった文字がまず多い。
そして、敬語や流行語のように表現も多様である。
日本語自体はフットワークが軽く優れた言語であるが、使いづらく、われわれにとっては母国語と言っても難易度が高い。
だから、日本人同士でも会話による勘違いが起きたり、難しい表現が伝わりにくかったりということがある。
これは世界中であるだろうが。
よって、言葉とは他人と自分を結びつける手段であるが故に慎重にならなければならないことは確かだ。
他人の価値も自分の価値も交わす言葉によっても決まるのだから。

むかしから「賢者は聞き、愚者は語る」というが、やはり無意味かつ無造作なおしゃべりは危険である。
それは会話中に出てくる名詞にも当てはまる。
たとえば、つい先週買ったばかりの高い外車の自慢ばかり口から出てくれば、「この人は自慢好きだ」、「高収入だな」、「車好きだな」などと様々な情報を伝えることとなる。
それは足元をすくわれることにもなる。
だから、その点に気をつけるべきだ。
自分の価値を守り、高めていくためには考えて喋らなければならないのだ。
どのような情報を与え、得るか。
また、自分をどう思わせるか。
そこで間違えばイメージが変わり価値も崩れる。
言葉とはそれほど危険で、かつ高価なのだ。


以上!

2008年9月26日金曜日

思想史の逸脱

思想史において先人の軌跡をたどることはきわめて重要だが、歴史という流れを通して見れば、「なぜ、そのように考えたか」という思考の根本原理が拾える。
細かく見ること、ポイントとして見ることと全体として、流れとして見ることの両方を使うことが正解を導き出せるだろう。
偏見は常に付きまとう。
我々に必要とされるのは、偏見を逸脱することで、そこでは否定、もしくはジャック・デリダの脱構築を意味している。
それはニヒリズムでもあり、偏見を逸脱することもひとつと数えられる。
逸脱という言葉をそういう意味合いもあり選んだ。

偏見の逸脱とはさまざまな見方であり、見方を提供する時代はもう終わった、というかかなりの数の方法、見方、思考がある。
それらを整理することで改めてわかる知識や学問があるのではないか。
また、整理することで先人の哲学を総合するようなカント的な哲学の潮流が生まれるのではないかと考える。

総合といったが、そのような役割はこれほど知識と情報、つまり知が溢れる時代において必要にもかかわらず、その役目を負う存在が少ないことは嘆かわしい。
無論、GOOGLEはネット世界の検索において革新的ではあったが、整理という面では中心にはいない。
一見、情報の整理を目的としているかに見え、粗雑な情報や偽りの情報を貯め込んでいるという面もある。
それがネット世界の問題点ではある。
しかし、それがネットの存在意義でもあることは間違いではない。
どのような者であろうとネットはヴァーチャルで、自由であることが伺える。
それが犯罪と結びつこうしても我々は拘束されない、犯罪チックな世界をどこかに持っていたいのであろう。

情報の宝庫(質を問わず)であることは間違いない。
足りないのは、整理の役割、かつ、総合的であることである。
正しい情報を管理する役割は情報化社会であるが故に必要不可欠。
アレクサンドリア図書館をネットの世界でもメジャーにつくるべきだろう。
学問の専門化することで学問全体を渡り歩くことは不可能と言われる時代になった。
しかし、困難であるとしても情報に莫大な価値が伴う時代に整理することで新たなる知を発掘できるのではないか。
インターネットは情報の海、そこに検索をGOOGLEはじめ様々な検索サイトに、そして、それらの情報を束ね整理し総合化するサイトがあってはじめて我々は正しい情報化社会を迎えられるのではないか。

また、これはヴァーチャルなネット世界に対して書いてきたが、無論、現実世界にも当てはまる。
図書館が情報の溜まり場と化さないように積極的な情報の整理、総合化を主とした活動が行われるようにしてもらいたい。

常に正しい情報に価値がある、その鑑定ははたして今、何が行えるというのか。

以上!

2008年9月25日木曜日

思い出といま

最近、中学生だったときのきつかったバスケ部時代のことを思い出す。
部活の時間が怖かったから3年間ずっと放課後のことを考え、怯えていた。
何度も逃げだし、テキトーに入部したことの後悔もした。
つらかった3年間だったが、そこに生きること、勝つこと、覚悟のことを学んだ。
生があり、厳しいが故に正しさがあると信じていた。
自分というものを確立できたのはあの頃の経験のおかげだ。

それをいま、生ぬるい時間の中で思っている。
肉体も精神も安心しきっている。
だが、怠惰な気持ちは罪悪感に近い。
体力も落ちた。
なにもかもがダメになるのだろう。

以上!

2008年9月23日火曜日

ベストセラーの価値なんて・・・

ベストセラーとは理解されやすい本のことだ。
文章が軽く、わかりやすく簡単だから、読者の年齢層は広く多く売れる。
そんなものを買いに行こうとは思わない。
思いたくない。
自分の価値を低くすることになるから。
そこをベストセラーばかりを読んでいる人はそう思うのだろう。

と言っても、前までボクもしょっちゅう読んでいた。
書店で「何万部突破!」とかあると吸い寄せられていった。
しかし、そんな売るための本。
読破に1週間もかからない。
薄かったね、本の厚さも、内容も。
そこから過ちに気付いた。

ベストセラーという数で騙され、その上、読んで感動する日本人は嘆かわしい。
本を読んでいない証拠ではないか。
思想に触れていないからだ。
「読む」ことに慣れていないからだ。
見えないものを解読することを「読む」ことだ。
文字は見える。
しかし、考えないと見えない本がある。
そこが一番、必要なのだろう。
考えなくとも見えるベストセラーを疑おう。

以上!

2008年9月21日日曜日

イデア反対!

日本にはイデアは存在しない。
日本の文化、文明すべてに土臭さ、生が宿っている。
だから、見捨てられるものもなく、ただ、流転があるだけである。
高尚なもののなかにも卑猥があり、不埒なものなかにも聖域がある。
それが神道のなかにも仏教のなかにも見られる。
それが日本である。

ヨーロッパ人もそうであっただろうが、イデア論、キリスト教の虚装の「高潔さ」が誕生し、広まっていき、生を捨てることとなり、生が罪と化した。
もともと、人類、考えていたことは上記の日本と全く同じだ。
善も悪もない生のなかで暮らしていたはずだ。

以上!

2008年9月14日日曜日

アダルトゲームに視る性差

全部が全部ではないだろうが、BLゲーとエロゲーの違いは視点の違いと考える。
エロゲーは女性と主人公がセックスするが、「主人公=ゲーマー」であり、視点も主人公視点である。
だから、つい見入ってしまう。
かわいい少女が自分としている気分になる。
それが売りだろうが。

BLゲーはむしろ「覗き」だ。
男性と男性が絡み合っている場面を「見ている」のである。
自分としている気分はまず、ないだろう。
そこがエロゲーに象徴される男子、BLゲーに象徴される女子(腐女子)の違いであろう。
つまり、男子と女子の体の違い、心理の違いである。

ゲームの違い、文化の違いには性差が必ず出る。
しかし、1人の人間の中にも男性と女性が存在している。
またはポール・マクリーンの仮説通り、「ワニの脳」、「ネズミの脳」、「ヒトの脳」があるのだから感情の起伏が激しい生物なのだろう。
そんな場面をPCゲームで発見し、文化の奥行きを考えさせられる。

以上!

2008年9月13日土曜日

道徳教育

道徳教育は今の日本社会の乱れを立て直す手段としては多くの人間から認められている。
しかし、道徳を相手にするだけあって学校教育としては難儀なものである。
はたして道徳をテストすべきなのか、道徳とはテストではかれるものなのか、ここが問題点である。
そこには社会を改正していく動きの初期段階として苦労する面がある。
必ず反発を食らう。
モンスターペアレントしかり、役人しかりである。

学校教育ではなく家庭教育に注目が集まるが、これも制度は難しいうえ、個人個人での解決というのは改正の放棄に近い。
それでも今は少なかれ品格ブームである。
坂東眞理子の本がとても売れ、一見、日本が道徳を気にし出したかに見える。
しかし、気にし出してもブームはブームではなかろうか。
そして、留意してもらいたいのが、「これは上の世代が慌てふためいてるだけなのではないか」ということである。
ボクの世代は生まれてから、ものごころついてから、社会を知ってから、世間はこのざまである。
そんな世界に生まれた人間たちにとって年長者が感じる道徳に乱れ、社会の乱れは感じにくいであろう。
世代間の感覚の差異とはそういうものである。

ボクとしてはブームにしても道徳の乱れにしてもさして興味はない。
その乱れによって興味があるのは何がなくなり、何が生まれるかである。
変化にかかわる動きの分析を行いたいだけである。

まあ、もし、道徳教育によって世の中がいわゆる「正常」になってもその動きを見続けるだけではあろうが。

以上!

2008年9月11日木曜日

エロゲー講壇

世界には教会もあれば売春宿もある。
なにも創造に善も悪もない。
そこにあるのは「遊び」だ。
それを前置きにしたい。

ボクはまったくと言っていいほどゲーム(電子ゲームのことだが)をやらない。
小学校の頃は何本かPSのソフトも持っていたのだが、それで満足するぐらいのものだった。

珍しくはないが、ゲームのコントローラーのさばきがとても上手な子供、最近は子供に限らないだろうが、いるでしょ?
あれは「遊び」の力のすごいところだよね。
ただ自分の欲望にまっすぐに力を磨いている。
あれがボクの理想型。

コントローラーにもガンコンとか釣りコンがある。
あれも工夫したものだよ。
そっちの方が、臨場感があるもの。
よりリアルに、かつヴァーチャルに、そこのバランスが重要なのかな。
そういうのを考えていたら、先日、ハッ!と思った。
エロゲーにそういうのがあったら面白い。(笑)
なんとも卑猥なものではあるが。
だが、あればきっと売上が取れるはずだ。

ボクが考えたのは「女性の腰の部分型コントローラー」だ。
もちろん、穴あり(二つ)、なかはオナホールみたいになっており、振動や収縮が起きる。
そこに挿入し、パソコン画面なりTV画面と連動して操縦者が腰を動かして相手の感度を上げていくゲームだ。
それには対応ソフトも必要で、人間の感覚をモデルとしているので開発もたいへんだろうが、きっと需要があるはずだ。
進歩したゲームともオナホールとも言える。
エロゲーだけあって開拓の余地も需要の目途もある。
だって、男の性欲がなくなることはまずないから。(笑)

以上!

2008年9月6日土曜日

危険思想

9月一発目がこれか・・ってかんじにはなりますが。
自信作なんでw
どうぞ!!
(この3行のみ久々のlive書き)




強姦は生殖における手段の一つとも言えるのに何故、法に触れるのか。
そこが不思議だ。
産めよ、増やせよではいけないのか。
ソドムとゴモラはなぜ神の怒りにふれたのか。
神がそうだから、としか言いようがないが。
それでも、野生動物は繁殖期があるという違いこそあれ同じ動物だろう?
人間も野生動物だろう?
なのに、なぜ、法がある。
人間が人間を縛るとき、縛る側は賢者であることは勿論、神にも等しくなくてはいけないのが条件だ。
そして、大抵の法は後の世では捨てられる。
それだけ、法治主義が穴だらけなのだ。
人間なんて勝手にやっててくれるのに。
いや、法治主義が勝手にやってる証拠か。
だとすれば、それでよしか?

しかし、ショーペンハウワ―やフロイトの言うとおり人間は「非合理的で盲目的な意志」があるようだ。
危険やタブーの海に飛び込みたいのだ。
地獄にさえ憧れを持つのだ。
ソドムやゴモラのような街があったら、きっと、天罰が下ると知っていても行く人がいるだろう。
ボクだってそうかもしれない。
生きる楽しみとして、死に近づくのだ。
ならば、ソドムとゴモラに天罰が下ると知っていれば、なおさら快感だろう。
行きたがる人間もなお多くなるだろう。

路上を歩けば、レイプは当然、同性愛や人身売買が常に行われているのだ。
臭気はなお興奮を高め、卑猥な音が響き渡る。
欲望と悲しみと快楽と背徳が重なる。
価値観は欲に包まれる。

そんな地獄絵図が人間の望む世界の1パターンでもあるのだ。

以上!

2008年8月30日土曜日

漫画研究部 更木剣八篇

「楽しめよ!死も苦しみも!ただ一つの代償だろうが!」
漫画「BLECH」は、殺し合いを好む、アウトローな登場キャラの更木剣八のセリフの一つで、主人公・一護との戦闘シーンで出てくる。
ボクはこれがどうにも上手く理解できなかった。
戦いを楽しみ、死や苦しみは恐怖には繋がらず、代償とする発想がそこにはあるのだろうか。
しかし、このセリフはその発想の裏打ちした場合だ。
このセリフをその発想を無視した場合、①「楽しめよ!死も苦しみも!」と②「死も苦しみも!ただ一つの代償だろうが!」に分けられ、分けることにより更木の2種類の思想を垣間見ることができる。

更木はただ単に敵を倒すことに楽しみを求めず、戦いそのものに楽しみを求める、戦いを「遊び」としているのでそこに目的を必要としない。
その思想の持ち主であり、それを実行できる力と精神があるからこそ、相手を圧倒することも相手からの攻撃をまともに受けて平気でいられることが可能なのだろう。
ボクは更木剣八が大好きだ。
きっと思想があり、かつ強く、恐怖がないからだ。
恐怖がないので、敵に何度も斬られてボロボロになっても息を切らさず、恐怖を感じず、より楽しもうとする。
そこに生きる積極性があり、人間としての模範がある。
だから、ボクは魅かれるのだろう。

2008年8月26日火曜日

夢なんて下らないという夢

夢だとか、何になりたいかを聞かれるのがボクは苦手で、学校通っているから、しょっちゅうあるけどもなかなか頭に浮かんでこないね。
もちろん、好きなことも尊敬する人もいるけども、そういうのに乗っかっていこうとは思わないし、自分のなかのモラルがカッコ悪いからやめろと言うね。
実際、尊敬する人自体にはなれないし。
別に夢なんていらないけど自分の力を出し切ろう、自分のやりたいことをやって死のう、なんて考えている人間が夢を叶えられる。
実際、そういう意識で動いているから夢が叶っても嬉しくもないだろうけど。
そうありたいね。
いちいち夢を語っている余裕なんて下らない。
いま、やりたいことをやればいいんだ。
やりたいことと夢は違う。
やりたいことは遊びみたいなものだが、夢はその行動に裏打ちされる意義を必要とするからだ。
人間の歴史は欲望の歴史だ。
意味もなくこうたいという歴史だ。
そこには確たる正義もなく感覚におぼれているだけである。

以上!

2008年8月23日土曜日

アニメと無意識の日常

最近、アニメの人気ジャンルとなりつつある「日常系」は元祖を高橋留美子とし、癒しや平穏を売りにしている。
「らき☆すた」や「みなみけ」は昨年の人気作品だった。
しかし、日常といいながら非日常な点がある。
代表的なのが、髪の色である。
最近のアニメはすべてそうかもしれないが、日常系まで髪の色は金や紫、赤などカラフルだ。
実際、日本全国、女子高生の髪が赤だったら怖いものだ。

結局、アニメというのは内容がいくら日常的になっても非現実として存在しなければならないのではないか。
あくまで画面のなかの世界の住人なのだ。
これはインターネットにもつながり、インターネット内はあっち(・・・)の世界と呼ばれる。

アニメにしてもインターネットにしても、現実とリンクしていても見る側も別世界だと意識しているのだろう。

以上!

2008年8月18日月曜日

学習予定

これからの学習は無意識やエスなどの見えない自分や意識できない自我の分野である精神分析学や反ヘーゲルだったショーペンハウワ―の系譜の哲学だ。
もしくは、甲野善紀の言うような古武術だ。
精神分析学や哲学は学問であるが、古武術はなぜ探究に役立つか。
それは、古武術は不合理な体の使い方をすると見かけから思われがちだが、実際は体を使いやすくするための術理だそうだ。
体をうまく使えばより速く、的確に相手に勝てる。

とても合理的だ。
最近では、その体の働きをスポーツに応用しようと着目されているが、ボクとしてはなぜ、最初からそう使わないか、自分の体にもかかわらずどうして合理的な動作ができないのか、を発見したいがためだ。
そういう余地が古武術にはある。
余地というのは先の人間がつくりあげたので、適切な表現ではない。
しかし、忘れられた部分としては取り戻す価値がある。

2008年8月11日月曜日

理性へ

常に考えることを権利とし、武器とし、存在意義とし思索している人生、すくなくとも努力している人生だが、一つの恐怖がある。
思索が真理に辿り着く方法であるか、ということだ。
そこに論理の根本である条件や仮定がある。
つまり、「~ならば、・・・だ」の仮定から論理、方程式が始まる。
そこに困難がある。
論理や理性を信じなければならない。
道理を道理抜きで信用しなければ、先に進められない。
そこが論理の始発点の矛盾だ。
つまり、そこを常に考えておかないと理性至上主義(主知主義)に陥りやすくなり、理性以外を見逃しがちになる。
そこが訓示としたいのである。

以上!

2008年8月8日金曜日

馬鹿も守って

たとえば、典型的な馬鹿がいるとする。
ものごとの根本を探らず表面上の作用にしか目を向けない低い思考の持ち主だ。
この型の人間をボクはもっとも嫌う。
また、たいていの人間の思考だ。
考えるときは深く考えるのだろうが、日常はそんなに深く考えない。
それはすばらしい思想を持った哲学者の中にもいる。
つまり、自分の思想の通りに生きない哲学者。
そういうだらしなさは人類共通だ。

それを人間は自嘲のように認める。
その典型が落語だ。
立川談志いわく、「落語とは人間の業を肯定するものである」と。
そこが一つの美学や憧れだろうな。
狂うことが芸術家の典型的な要素の一つだと世間一般では思われるんだろうが、それ自体が美学だからだろう。

以上!

2008年8月4日月曜日

言葉の二元論

言語の歴史にはずっと「いわゆる」言葉と「正規な」言葉があり、それらがときには相殺し、ときには絡み合っていた。
だから、言語はひもとくのが難しい。
変化している言葉と辞書に収められている言葉を両方知らなければ、文章というのは読めたものではない。
特に小説、物語はそうだ。
これらの場合、歴史的知識も必要となるからだ。
正規の言葉は百年ほど経っても変化は見られないが、いわゆる言葉は一年も経てば必ず変化しており、関連する言葉の数も増えている。
それは言葉の不埒さが原因だ。
それをとどめることはまずできない。
しかし、それは確かに認知されており、近年、「現代用語」として書籍化されている。
内容は辞書に載らない言葉、用語ばかりだ。
それの書籍はとても人気で売れている。
一般人も言葉の不埒さに困っているのだろう。
けれども、それをつくっているのは間違いなく一般人だ。

以上!

2008年8月3日日曜日

not FREND

ボクは他人が何を考えているのか、汲み取るのが苦手な人間なんだよね。
なんでこんなことで笑えるのか、なんでこんなことを平気で出来るのか。
そこがいまいち理解できない。
きっと、ボクのほうがズレテいるだろうとは思うけど。
ボクは友達と呼べる友達も少ない。
休日に出かける仲間とか、家に招く友人たる人物に関しては一人もいない。
単に学校で話したりする程度の人間は少しながらいるがね。
まあ、特に欲しいとは思ったことはない。
何年か前は家に招く友人もいたけど、正直、一緒にいてつまらなかった。
息苦しい。
さっさと時間が経たないかな、と思っていた。
そのときは同い年の連中は常にそれを「遊び」のひとつにしていたから、やっておくべきかな、と思い、そうしたのだが。
失敗だった。
「孤高」、それだけで十分だ。
そう思うと誇りも湧く。
そういう人間だな、ボクはさ。

以上!

2008年7月31日木曜日

顧みる

なかなかいい文章や発想は訪れないものである。
それはボクが未だ若輩で青く、頭の中で整理や体系化が行われていないからだろうが。
そこがいらだつところであり、まあ、「若さやこれからへの期待」とも妥協できる。
固い文書や適切ではない語句や気取りが混ざっていると、読み返してみると鼻につく。
一番いらだつのは、自分の文章がなにかの本に書いてあったことのまる写しみたいになっていることだ。
そこに自分がいない文章ほど悲しいものはない。
きっと、そんなことは絶対にありはしないのだろうが。
それでも、もっと積極的に自分をアピールしたいボクの気質では耐えられない屈辱だ。

中学生の時に、ボクの作文が入賞した。
そのときに夢中になっていた『武士道』的な武士道や『国家の品格』的な生き方に憧れ、この二作を素に書いていた。
そのころから読書を始めたから、今以上に思想に疎かったし、文章も気取りがこびり付いていた。
それを突いてきた先生がいた。
若い、なにかチンピラみたいな格好をした不細工な数学の先生だったが、彼が、ボクの作文は青臭いという。
中学生に向かって、ともしたが、妥協を嫌い、天才に憧れているボクにとって、それは正論だ。
気取って書いていたのは間違いない。
それが、いまでも何かを書くときには戒めとなっている。
多分、先生方のほとんどが青臭い文章だと感じながらもそれを言わなかったのに比べ、大人気なしにも指摘し、才能を見出そうとしたであろう先生には感謝だ。

また、自分の文体が好きな作家の文体になっていることもある。
まあ、これは若い時期の、模倣の時代とも言える。
そこは成功だろうが。
模倣の時代はどんな芸術家にもあった。
師事することの大切さだ。
宮本武蔵は師を持たなかったと言うが、影響を何からも受けなかったわけではないだろう。
戦いの中から得たのならば、単に師が人でないだけである。
師は万物の中にある。
蛇になるためには蛇を師とするまでだ。
しかし、模倣をマネごとと蔑み、卑しんだ思想の時代もある。
それは伝統を捨てた明治維新であり、戦前を否定した第二次大戦の敗戦後でもある。
勿論、伝統も否定によって積み重ねていくものだが、切り捨てるわけではない。
明治維新と敗戦後は完全な否定であり、すべてを廃棄している。
そこから、生まれたものはあるが、失われたものは多過ぎ、それらがまだまだ必要なのにもかかわらず捨ててしまったことが問題だろう。
それを反省し、再構築するのがこれからの時代だろう。

以上!

2008年7月30日水曜日

世代間のズレ

世界は本当に変わるのだろうか。
近年ではよく、今の時代が転換期や確実に世界は大きく変わりつつあるなどと言うが、それは本当なのか。
価値観が崩壊しているとか、社会の変化のスピードがとてもはやくなってきているなんて言ってみても、若い世代にはちっとも伝わらない。
ものごころついた頃にはコンピュータは普通にあったし、CDも売っていた世代だ。
その時代に生まれたら、それが普通なのだ。
変化の早い社会なんて普通なのだ。

その問題の深刻さもなかなか伝わらないし、本当かどうかもわからないのが若者だ。

以上!

2008年7月26日土曜日

抗いの人生

人生とは何か。
「抗う」ことだ。
学問も文化も人間が作り出したものが大きくなった。
それらから見れば、個人の人生など孤独で小さく憐れだ。
だから、こんな時代だからこそ、それらに挑んでいきたい。
また、昔からある「懐疑」の伝統も引き継ぎたい。
常識を疑う。
それは社会からの逸脱、追放を意味する。
自分の身を危険に置くことになる。
社会、大多数の人間、正義に押しつぶされそうになるだろう。
そのたびに抗うという意味もある。
もっと、苦しみの中に飛び込んでいきたい。
抗い苦しみ、孤独に死ぬ。
そして、成果が残る。

以上!

2008年7月25日金曜日

そこで止めるなよ

「深い」という言葉が流行している。
流行というより使い勝手がいいからだろうが。
深遠な、意味深な意味を持つ言葉に使われる。
研究心が掻き立てられるとき、誰でもこう感じるものなのだろうが、ボクはあまり使わない。
「深い」という言葉は若い世代がよく使い、それも浅く使う。
よく使う人間はとりあえず、考えるのが面倒だから、「深い」ことで収めておこうという魂胆があるからだ。
考えることを生きることとしているボクにとっては価値のないことだ。
こういうとりあえず収めておける言葉が日常会話の中でよくある。
説明を省けられる言葉がたくさんある。
「深い話だね。」
じゃなくて自分のなかで批評すべきだ。
どこが良くてどこが悪かったか。
でも、それを「深い」をよく使う人たちに言えばしらけるだろうな。
「別にいいだろ」と思われ、おしまい。
しかし、平和な人間はこれぐらいでよいのかも。
別に見えても苦しみならば、見る必要もないのかもしれん。

以上!

2008年7月20日日曜日

頂に住む男の力とは

松岡正剛は多岐の分野にわたるコネクションがある。
そこが羨ましい。
そういう人間が近くにいたことがだ。
三島由紀夫だったり、稲垣足穂だったりすごい面々だ。
それを10代、20代からいたことは環境もだろうが、やはり彼は行動力の大きいからだろう。
でなければ、あれだけの本を読むこともできないだろう。
「編集工学」も「千夜千冊」も「ISIS編集学校」も作れなかっただろう。

彼の圧倒的な知の力に人は驚愕するが、実は彼の行動力に驚かされているのだ。
行動力で色濃く生きている、偉人:松岡正剛

以上!

2008年7月19日土曜日

友達はいらないんだ

ボクがいま欲しい話し相手は友人ではない。
「サロン」のシステムだ。
サロンにはボクと同じ熱意をもった同志が集まってほしい。
そういう意味では啓蒙主義が謳歌していた時代に憧れる。
ポンパドール婦人のような人物を探しているのだ、ボクは。
サロンでは無駄話も無駄ではない。
各々の研究の糧になることは間違いない。

別にひとつのジャンルにこだわる必要はない。
なにかに熱意のある人物ならばだれでも歓迎だ。
野球選手や物理学者、AV女優、雑誌の編集者が集まってみても面白いのではないか。
学問自体がそうでありたい。
そう願っているし、その中に参加していきたい。
今の年頃からサロンに入れたら嬉しいが、大人になればサロンを建ててみたい。
これがボクの夢なのだろう。

以上!

2008年7月16日水曜日

不満小咄

なかなかいい文章や発想は訪れないものである。
それはボクが未だ若輩で青く、頭の中で整理や体系化が行われていないからだろうが。
そこがいらだつところであり、まあ、「若さやこれからへの期待」とも妥協できる。
固い文書や適切ではない語句や気取りが混ざっていると、読み返してみると鼻につく。
一番いらだつのは、自分の文章がなにかの本に書いてあったことのまる写しみたいになっていることだ。
そこに自分がいない文章ほど悲しいものはない。
きっと、そんなことは絶対にありはしないのだろうが。
それでも、もっと積極的に自分をアピールしたいボクの気質では耐えられない屈辱だ。

中学生の時に、ボクの作文が入賞した。
そのときに夢中になっていた『武士道』的な武士道や『国家の品格』的な生き方に憧れ、この二作を素に書いていた。
そのころから読書を始めたから、今以上に思想に疎かったし、文章も気取りがこびり付いていた。
それを突いてきた先生がいた。
若い、なにかチンピラみたいな格好をした不細工な数学の先生だったが、彼が、ボクの作文は青臭いという。
中学生に向かって、ともしたが、妥協を嫌い、天才に憧れているボクにとって、それは正論だ。
気取って書いていたのは間違いない。
それが、いまでも何かを書くときには戒めとなっている。
多分、先生方のほとんどが青臭い文章だと感じながらもそれを言わなかったのに比べ、大人気なしにも指摘し、才能を見出そうとしたであろう先生には感謝だ。

また、自分の文体が好きな作家の文体になっていることもある。
まあ、これは若い時期の、模倣の時代とも言える。
そこは成功だろうが。
模倣の時代はどんな芸術家にもあった。
師事することの大切さだ。
宮本武蔵は師を持たなかったと言うが、影響を何からも受けなかったわけではないだろう。
戦いの中から得たのならば、単に師が人でないだけである。
師は万物の中にある。
蛇になるためには蛇を師とするまでだ。
しかし、模倣をマネごとと蔑み、卑しんだ思想の時代もある。
それは伝統を捨てた明治維新であり、戦前を否定した第二次大戦の敗戦後でもある。
勿論、伝統も否定によって積み重ねていくものだが、切り捨てるわけではない。
明治維新と敗戦後は完全な否定であり、すべてを廃棄している。
そこから、生まれたものはあるが、失われたものは多過ぎ、それらがまだまだ必要なのにもかかわらず捨ててしまったことが問題だろう。
それを反省し、再構築するのがこれからの時代だろう。

以上!

2008年7月14日月曜日

変化の宣言

人は正義を見つけると酔うものだ。

なにかに酔っていたり、気取っていたりする人はどうも好かれない。
しかし、所定の地位や職柄に着くと人は変わるものです。
言葉遣いが堅苦しくなったり、性格が落ち着いたり、または傲慢になったりと客観的に見れば、明らかに見える変化。
しかし、当人はそうではないようです。
彼はむしろ、きちんとやろうとしているだけだとか。
まあ、差しさわりがなければいいのですが。

①全ては変化し続けます。
②その変化を人は嫌います。
たとえば、①明日から職場の上司がアメリカ人に代わったら嫌でしょう。
しかし、②有能ならば人種など関係ないという社の方針は変化の激しい、今の世を考えてのことでしょう。
この矛盾を持ちながらも人は生き残ってきました。
平和のために戦争をしてきた人類のことですから、本能なのかもしれません。
しかし、この矛盾を解き明かすのはすべての人の権利であり、心のもやもやがある限りは義務でもあります。

以上!

2008年7月12日土曜日

苦闘

人間の不便なところは有限であるところ。
取り返しのつかないことがあることだ。
もし、少年時代に真理があると大人になってわかっても、もう遅いことが問題だ。
そこに人生の美があるように思えないでもない。
しかし、それでも真理を掴むことが不可能であることが証明できる。
我々の人生はきわめて儚い。
ひとりひとりの人生はとても脆弱である。
それをよく人間はオペラや音楽や能や浄瑠璃や落語にして肯定し同情する。
きっと、人間がこんなに繁栄させられた理由がここになるのだろう。
数で歴史をつくって、その中で真理に近づいていけ、ということか。

以上!

2008年7月9日水曜日

本の買い時と将来

本はやはり欲しい時に買うのが一番だ。
腹が減っているときに飯を食うのに本は別か。
いや、本も読みたい時に読むべきだ。
だから、買いたい時には買うべきだ。
しかし、購入となると金銭の限界がある。
だから、そういうときに図書館を利用すべきだ。
豊かさの象徴だ。
ただで高価な本が読めるなんて豊かな国の証拠ではないか。

多分、ボクが大人になったとき、収入の1割は本だな。
いや、それ以上かも。
この性格じゃ、友人もつくらなそうだし。
休日はランニングと読書、とアウトドアとインドアの両方を孤独に過ごしそう。
独りで映画、独りでショッピング、孤独と言えばそうではあるがボクの夢だ。
こういうのをボクのなかではお洒落という。
ゴルゴ13ぽくてカッコいい。
そうなりたいなあ。

以上!

2008年7月7日月曜日

無念な人生

いま、焦ることは人の命についてだ。
ボクの命だ。
あまりに短い。
現代、情報の発信がとても多いのにもかかわらず、発信している人間はとてもスローだ。
追いつけていけない。
一冊の雑誌の情報はすぐ変わる。
価値が薄れやすい。
哀れに違いない。
ボクはすべての学を得たい。
すべての学問どころか、一学問のすべても得れない。
だから、絶望する。
すべての学問を得たときに、あらたな境地に立てるような気がある。
だから、無念。
死は避け難し。

以上!

2008年7月2日水曜日

懐疑の精神

懐疑せよ、されば、学ここにあらん。

懐疑したから人間は学問を積み上げることができた。
懐疑し、体系化し、時代の常識となり極まったかに見えた。
しかし、誰かが再び、懐疑し、新時代を築く。
それが、人の歴史、論争こそが学問の核。
人は磨き上げられたものや精巧に仕込まれたものを見ると、これ以上はできない、と断念しようとする。
もしくは、妥協する。
だが、成功者は懐疑する。
もっと上があるはずだ。
心にある懐疑心のみを信じていくのだ。
自分にも相手にも満足せず作り上げていく。
これを一種の心の修養と考える者もいるが、そんなきれいに言えるようなものではなく、ただの人間の心の作用だ。
それ自体は、むしろ、忌み嫌われる精神。
美を極めるために人を殺す、技を究めるために人を捨てる、これらはよく聞く、かつタブー視された精神の一種だ。
懐疑心もその一つだ。
その心の作用が時代を作ってきた。
薄汚い精神とも言える。
しかし、今、私が薄汚いと決めた精神は道徳から来ているが、これは単にその薄汚い精神を美化しただけだ。
人間の美化という真に汚れた精神がきれいに見せているだけなのだ。
汚いとか卑怯とか言う前に、それらを一旦、保留に置いておき、本当のことを見極める。
これが哲学者のお仕事ではなかろうか。

以上!

2008年6月27日金曜日

否定のすすめ

大嫌いなものを作るべきだ。
好きなものばかり挙げるやつは自分をほかのモノに依存しようとしている。
ボクは嫌いなものをきちんと持っている。
それを持っているおかげで他人とぶつかりっぱなしだ。
しかし、それは個性があるから。
個性は嫌いなものと好きなものの両方を持っているから生まれる。
好きなものばかり集めて自分を売りに出そうとしても、他人は自慢ばかりに聞こえてつまらない。
嫌いなことは嫌いと言えばいいのだろう。
「嫌い」と言えば、他人との差が出る。
好きも通せば、嫌いが生まれるようだが、「そちらも嫌いでもない。」なんていうあいまいな表現で収めようとするのが、「好き」しか使わない人間だ。
「そんなもんは下らない。」
そう大声で張り上げたい。
他人を否定したい。
現代は日本人らしい日本人の時代、とでも言うか。
仲間内を大切にする、異を排斥する、農耕社会にも通じる「道徳」とまではいかなくとも、その集団には「空気」や「雰囲気」があるのではないだろうか。
そういうものは大事だが、それだけになろうというときには「嫌い」を叫ぶべきだ。
「否定」の大事にはそこにある。
だから、ボクはそれを自らの天職とし、生きようとしている。
忘れていたが、それがボクのなかでの哲学者としての役割と考えていたのだ。
社会全般の常識を疑う存在、懐疑する者の総称だと。
「常識を疑う」というのは「否定」の拡大、そのものだ。
常識を疑えば敵を多くつくってしまう、それでも「否定」を貫く者が偉い。
何も考えずに疎外感を恐れるあまり他人と無根拠にも同調しようとする人間が一番、頼りにならず馬鹿者だろう。
残念ながらも、それがこの世に溢れている。
まあ、それだから、我々が存在していると認知できるのだが。
「孤高」を目指せ、他人などそこには必要ない。

以上!

2008年6月20日金曜日

群れて弱さを隠すのか?

人間の多い場所は嫌いだ。
他人に流されそうになるから。
人間って言うのは不思議なもので、群れるだけで周りに同調してしまう。
自分が消えていく。
知らない間に自分がどんどん変わっていく。
そんなことは多分、常にそういう変化が起こっているのだろう。
だから、人間っていう奴はなかなかひとくくりに定義できないのか。

これは環境論のいい例だ。

以上!

2008年6月17日火曜日

偉人 立川談志

ボクは立川談志を知らずに昨日に至った。
しかし、人物像が出来上がってくるに従って、とても魅力を感じた。
よく酷評される人格はとても素晴らしいものだ。
ただし、ああいう人格だらけの日本は末期ガンのようなものだろうが。

ああいう人を認めろとは言わない。
むしろ、ああいう人は差別されながら、冷たくされながらも残っていてほしい。
アウトローな人格はなぜだか、人を魅了する。
ただ面白いからという理由で殺す殺人鬼、自分だけが助かればいいと考える自己中心な政治家。
時代の悪党にもかかわらず、そういう人がいない世界を我々は望まない。
自分もああいうテキトーな人間になってみたい。
そこから発生する差別や批判が人生を見出す素となるはずだ。

以上!

2008年6月15日日曜日

最近のこと

疲れた。
しかし、それも嬉かな。

最近は自分の変化に気づきます。
映画好きだったのに最近はその余裕もなくなったり。
すこし寂しいような。

でも、こうやって昔の自分と向き合うのもいいものです。
昔に学んだことを忘れていたら(苛立ちながらも)再確認できます。
オペラに夢中だったころから、今は絵画。
特にサルヴァドール・ダリ。
今日からだが・・・。

しかし、すべてを知るには人生は短すぎる。
我々はそんな絶望と常に戦っている。
そうじゃないですか?
だから、挑戦する意義がある。
いや、挑戦と言うのは偽善かな。
むしろ、暴走だ。
暴れまわりたい、抗いたいんだろう。
それが芸術家であり、学者である。

まあ、挑戦と言うのは偽善と書いたが、そういう言い回しというか。
そういう悪っぽく気取る事をよく日本人はします。
ボクもそうなんですがね。
これが多いと価値観の基準が分らなくなるってとこが欠点です。
悪っぽく言ってることが当然になる。

これに似たことが常にジレンマとして存在します。
オタクから哲学を見出そうとすれば、その隠れた陰湿な部分が欠如され意味がなくなる。
意味がなくなれが死んだも同然。
「発見したいが残っていても欲しい秘境」でしょうか。

これに酔うのが学者かな。

以上!

2008年6月12日木曜日

あの事件についての感想

秋葉原であれだけのことをやってくれた彼に脱帽だよ。
(まあ、秋葉原の警備がきつくなるのは勘弁だが)

いまのアキバはもう観光地だね。
一種のさ、年中お祭りのような。
オタク文化だ、なんだって売り物だよ。
ため息しか出ない。

アキバとかオタクとかはこっそりいるから意味があったんだよ。
それを流行が明るみに出しっちゃった。
みんな、賛同しちゃったんだよ。
サブカルなのにみんなやってる、なんて馬鹿げてるでしょ?

こんなことになると濫用が激しくなる。
ちょっと、テレビつけりゃオタクの流行に乗っかったタレントが出たり、アニメの話したら、「萌え」だの「腐女子」だの意味も知らないのに使いたいだけ使いやがってさ。
単にお前が使いたいからだろうが、馬鹿野郎。

本当のオタクってのは知識人に近い存在だ。
単に話題の対象がアニメやマンガ、アイドル、サバゲーなどのサブカルチャーだったからだ。

話が冒頭のあの事件についてに戻るが、彼は17人の人生を狂わせた。
この世界を否定したがそれでも自分を否定しなかったのはなぜだ。
あれほどの事件の犯人の覚悟がその程度だったことに憤慨する。
自分も死んで、悲劇の成立だ。
その時点で、この世界の否定という自己表現が完成する。
もっと徹底した美学を持ってほしかった。

立川談志に影響された文体になりました。

以上!

2008年6月10日火曜日

極めるなんてね

極めるとは何かは具体的にはわからないものの、我々の中では超人や逸脱した人間を意味するのではないか。
限界を突破し、次元を超えて別の存在になることだとボクは考える。
生まれ変わり、輪廻があるような。
レベルが上がると言うより、概念を変えてしまうわけだから。

しかし、技術には常に進歩、レベルアップがついてくる。
それはついてこないと困るわけだが。
技術の進歩とはどういうものか?
マニュアルで確認しながら行っていた動作が、いつのまにかオートとして体に染みつき、自由に動かせるものとなっていることである。
技術の取得とは、このようなものだ。
始めはいちいち確認し意識して行っていた動作が知らないうちにもう当然になっていることだ。

2008年6月6日金曜日

これから

いま、とても研究していることは、「文化」、「哲学」、「脳」だ。
どれも世界の本質を観察するのに不可欠であると常識の範囲内だが直感する。


以上!

2008年5月31日土曜日

望む関係

友達たる友達もいないボクですが、理想としては持つならばフリーランスですね。
一つの仕事を一緒にしていくだけの、仕事人同士の付き合いです。
無駄に一緒にいることが嫌いなもの同士でありたいですね。
互いを利害関係で結ばれているもの同士。
でも、じっさいそういう者同士の方が信頼できるというもんではないでしょうか。

同類なんて望んでいるのは結局は自信のない負け犬だ。
そんな連中じゃない。
そんな希薄じゃない。

以上!

2008年5月28日水曜日

心についての考察

少年が犯罪を起こす度、終わりを感じるが、彼はむしろ人生を切り開いたに過ぎない。
人生に失望するより罪を犯すほうが人間として積極的だ。
なにもしないよりするほうが人間として軸があるように感じる。

積極的な生き方は何か人間としての魅力を感じる。
これはいつの時代にもある美意識だ。
そこには道徳や流行を超えた共通観念が心底にあるようだ。

人間誕生の時から心底にあったのか、歴史とともに積み上げられたのかは判明しないが、同時代においても地域が異なっても共通観念があることは確かだ。
それがなぜか。
共通するものとして「心」があるからだろうと推測する。
感情が共通するからだと。

以上!

2008年5月25日日曜日

独我論に生きる幼稚園児

自分の認識が他人と違う、なんていうこと考えたことはないですかね。
ボクは幼稚園の頃からそんなこと考えていましてね。
独我論をもち生れた人間なんですね。
だから、友達もあまり必要と思わないんですね。

以上!

2008年5月24日土曜日

天才の時代とは

どんな人間になりたいかと聞かれて、すぐに答えられる人は見たことがないが、ボクなら「普遍人」とでも答えたいなあ。
普遍人・・・ルネサンス期に現れた総合的学問を研究する人々。要はなんでも研究したがる天才のこと。例えば、ダヴィンチやデカルトなど。
ルネサンス期は絵画も彫刻も建築も演奏もする芸術家が出現していた。
多分、ルネサンス期のように革新期にすべてを研究したがる天才が現れやすいのかな。
「国乱れて天才現る」という感じか。
日本では1960年代の学生運動期とかに、まだ学生であった人が将来、天才となっていたり。
要は天才は育む環境がないと出現しないのである。
そういう環境にならないかねえ。
太平の世は隠居くさい。
若者は常に戦え。
大学とはそういう場であって欲しい。

以上!

2008年5月19日月曜日

いまを見るべし

いま、焦ることは人の命についてだ。
ボクの命だ。
あまりに短い。
現代、情報の発信がとても多いのにもかかわらず、発信している人間はとてもスローだ。
追いつけていけない。
一冊の雑誌の情報はすぐ変わる。
価値が薄れやすい。
哀れに違いない。
ボクはすべての学を得たい。
すべての学問どころか、一学問のすべても得れない。
だから、絶望する。
すべての学問を得たときに、あらたな境地に立てるような気がある。
だから、無念。
死は避け難し。

以上!

2008年5月15日木曜日

学校の英語にモノ申す

英会話とは英語圏の人間とコミュニケーションを取るためにあるものだ。
ならば、なぜ、英語圏の人間と違う方法で英語を教えるのか。

つまり、英語圏の人々は生まれながらにして英語圏だ。
だから、母親は赤ん坊をあやす時も英語だ。
そうして、赤ん坊は英語を身に着け成長していく。
それは、すべての民族に当てはまる。

しかし、日本での英語の授業(中・高等学校)では、まるで「英語学」だ。
英語の分析や公式としての英語は学問的で実用的ではない。
そのような英語を修めたとして、親から授かった英語を日常的に使う人々と話し合えるのか。
そのズレをとても気にしている。

しているにもかかわらず、相も変わらずテストに向けて公式を覚えている筆者なり。

以上!

2008年5月14日水曜日

美学というものはどこにでも存在し、強い感情が入ってさえいれば作り出せる概念だ。
ハッピーエンドも悲劇も人間は好んで描き、好んで見る。
そこに共感があり理解できるからなのだろうが、強い感情が入ってさえいれば、善も悪もない美学となる。
日本人は美学と似たような意味で「粋」をもつ。
九鬼周造は日本の美学や美意識に気づき研究したのではないか。

日本に生まれながら日本の民俗や価値観、文化を知らずに生きることはもったいないの一言。
しかし、これは私の感想で理性でものを言うと、「その生き方もあることは確か。」
多くの人生訓や処世術があるがそのどれにも道理があり一つの方法であることは確かだ。
ボクはそのどれもが好きです。
それはきっと本が好きだからだろう。
さまざまな生き方を見るために本を読む、そのためには本のジャンルに縛られずに乱読すべきだ。

辞書から未成年禁止ものまで。

以上!

2008年5月11日日曜日

やってみないとわからない

人間には生まれつき欲がある。
だから、欲を与えようなんて愚行だ。
それなのに教育なんてことを義務としている。
学問も人間の欲望が作り上げた。
だから、学問するには欲望が必要だ。
それは、興味だったり、好奇心だったりする。
 
よく、「昔の人は勉強したくてもできなかった。」と言うじゃないですか。
それは、できないから体験してみたいという好奇心に違いない。
もしくは、学歴で豊かさを手に入れられると思ってだろう。

それなのにやりたくもない勉強をやらせるのは非合理ではないか。
そこをきちんと考えないと・・・。

以上!

2008年5月4日日曜日

暑いのは苦手なんですよ・・・

夏と冬、どちらがすきですか?
ぼくは冬ですね。
虫いないし、汗掻かないし。
なんか人間も無駄に騒がないし。
沈黙の世界。
雪の降る虚無の世界。
無の境。
自分の世界ですよ。
いやな外のスポーツもやらなくて済むっていうか、できない・・。
だから、冬。


っていうか!!
暑いっす!
4月終わったばかりだよ。
ちょっと暑すぎませんか。
いまも軽く汗掻いているんですが・・・。
こうも暑いと、衣替えとかけっこう好きなボクにはちょっと残念・・・・。
春服やっと着れると思っていたのに、Tシャツかいって感じで!
服は春服が一番好き!
やっぱり軽すぎず重すぎず。
ちょうどいい感じ。
暑くもないので外に散歩に行きたくなる。
それに合った服選び。
オシャレできる喜びはかけがいないです。

あ~あ、暑くなるな~。

以上!

2008年5月1日木曜日

授業中でもイイ考えが浮かんできて、なんとも充実した日々です。
既存の哲学や思想を破壊する新しいオリジナルをつくりたい。
それだから若い頭ならできると信じています。
いましかできないことってあるじゃないですか、何事でも。
そういうことを見極めていかないと平和ボケしちゃいます。
小山の大将と言うか、怖いもの知らずと言うか。
人間だから寿命という限界があります。
だから、そういうところをいつも気に留めておかないとボーっとしちゃって・・・。
あとから後悔してしまいます。
常に緊張。

以上!

2008年4月29日火曜日

ほんとにネットってのは・・

ネットやり始めてもう6年ぐらいたつんですが。
ダウンロードに手をつけ始めたのは半年前ぐらいで今、スゴク驚かされてます。
手に入れれないものはないってくらいに。
恐ろしいよね。
新世界って感じだよ。
なんでもタダで手に入れられる。
自由と優越感。
最高だ。
背徳も違法も快感でしかない。
ハハハ・・・なんか大それちゃいましたね。(笑)

以上!

2008年4月27日日曜日

走り書き 徳のある人ほどうさんくさい

実際、ひきつけられる人って「行動できる人」ですよね。
政治家なんかがいい例ですが。
口だけ強くても言ってることをやれない人はアホ。
口が強くても行動力があれば問題はない。
その言葉に責任をもち、自分に自信を持っている、自分を分かっている。
そういう人が一番安心でき一番騙しそう。
周りの信頼が大きいほど、騙すのには都合がイイから。

以上!

2008年4月25日金曜日

サブカルチャー文化

最近のアニメは、アニメ文化と言ってもいいですが。
はやいですね~。
もう、すごい勢いで広がっていくような感じで・・。
ファンでもついていけないほど。
サブカルチャー文化自体がいま、表に出てきてブームや流行の一つとなっています。
ですから、知っている人、ファンやオタクなどの興味を持つさまざまな人間が存在している状態です。
彼らのようにさまざまな人種(ここでは人種と呼ばせてもらいます)がいることでサブカルチャーという狭い世界に新たなページが付け加えられていくでしょう。
もちろん、ファンの中には遊びや流行だからという理由のみで近づいてくる人たちを侮蔑する人もいます。
ボクのなかにもそういう気持ちは少なからずあります。
ですが、いまはその流行があるからこそできることがある、いわばチャンスでもあります。
サブカルチャーを深めていくことができる、そう思いさまざまな人種から意見を挙げてもらうことや意識調査をすることは文化の必須です。

以上!

2008年4月23日水曜日

今日のこと

最近、やけにテンションの高い女子がいるんですよ。
嫌ですね~。
そのときだけを楽しんでる馬鹿。
いかにも普通の人生を歩む人間じゃないですか。
自分を顧みない、と言うか・・・。
哲学者のボクとは相いれないですね。
哀れなものですよ・・。
しかも、その女子の話をいっしょに聴いている男子。
かわいい面して・・下心多し。
そいつも最近の典型的な馬鹿で。
口だけなアホ。
だから、馬鹿な女子が集まってくるのかね~。
孤独を恐れ、口だけにしか能がない。
まったく張り合いがないね~。

以上!

2008年4月19日土曜日

決意

ネガティブな自分はどうも未来ってものに期待できない。
未来にあるものは辛さだと知っているから。
ネガティブな人間を現実主義ともいうかも。
でも、ネガティブな人間は縮小した現実を考える。
保守主義的な。
期待よりもいままでの経験で行くと予想できることをまず考える。
だから、たいていの未来は予想できる。
でも、変ろうとはしないから希望はない。
よって、挑戦心もない。

そんな人間がこの世のほとんどではないだろうか?
未来を観ることはできず、予想や推理しかできない人間は飛び込むことが苦手だ。
挑戦ばかりを繰り返せない。
でも、変わるには挑戦しかない。
飛び込んでいくしか。

決意、いま。

以上!

2008年4月12日土曜日

人間の味について

人間はおいしいのか?
まあ、タブーな質問ですが。
ボクはおいしいとか、おいしくないとかを考える前に「人間の今の状態」を考えるべきだと思います。

人間は値段でおいしさを区別しようとします。
その値段のモノはすべて同じような味です。
でも、それは飼育しているから。
人間は野生です。
野生動物の味は一様ではありません。
そこのところを考えるべきではないでしょうか。

以上!


2008年4月11日金曜日

自分が世界のすべて

人間はどこまで行っても自分しかいない。
つまり、自分でないことなどありえない。
他人、つまり自分以外の人は実在する。
しかし、彼らの実態は自分の思い込みだ。
彼はこういう人だという思い込みに過ぎない。
しかし、他人は自分ではないので、他人の心理や体調などを完全に知ることはできない。
つまり、他人とは自分が作り出した偏見にすぎない。
他人を完全に理解することなど不可能なのである。
だが、他人の存在は自分には不可欠だ。
他人との関係によって自分は生きているのだから。
だから、他人について知らなければならない。
しかし、先述の通り、他人を完全には理解できない。
これも真実だ。

以上!

2008年4月6日日曜日

sakura

サクラの時期ですね~。
サクラって春の名物なんですが、春を感じる前に終わってしまうと言うか。
サクラの咲いている短さって人間をイメージしませんか?
なんか、人間も一花咲かせるって生きているけど、終わるときはすぐに散ってしまう。
「花は桜木、人は武士」ってことなんですかね。

サクラの散る瞬間って個人的に好きだな~。
まあ、花としては死の瞬間なわけですが。
その死の時にまったく心残りがないというか。
死を恐れていないところにとても感銘を受けますね。
春は生の季節ですが。
同時にサクラは死んで行くんですな。

死を怖いと思うのはほとんどの人間に共通していると思うしますが。
それでも死ぬときは死ぬというか。
死ぬのは避けられないな~。

でも、そんなに生きているときって大切か~?っていう気持ちもあります。
死んでもいいから何かドキドキしたいって思いますがね。
生きているときって無意識だから、どうも生きているときを感じていない。
それを感じるためにも死を意識していまを見つめるのもイイと思いますが。
終わりを見つめるといまを大事にしたくなる。

いまを大事にしたいけど、大事にし過ぎると死を怖くなるんでね。
ホドホドに。
過ぎたるは及ばざるが如し。
中道に生きるべし。

まあ、生きているときなんて楽しむためにあるもので、死んでるときは寝るためにあると考えるがね。
だから、生きているときはより楽しむべきだよね。
体は道具、生きるのは遊び。
走れ、血肉がばらばらになっても。
感覚を楽しめ。
体に剣が刺さる瞬間、脳に響き渡る感覚を。

以上!

2008年3月31日月曜日

真理探究記

人間の浅はかさってのは玉に気づかされると倦怠感があるよね。
何が言いたいかって言うと。
確実なことはないっていうことについて。
真理と言い換えてもいい。
真理がない。
否、まだみつかっていないと言ってもいい。

宗教団体の人間と話した。
まあ、勧誘なわけだが。
とにかく1時間ほど、相手は勧誘、ボクは宗教団体からの勧誘体験をしていた。
はじめは(たぶん誰でもそうだと思うが)ぜったい騙されないと心に決めていたのだが、話を聞いていくうちに話の矛盾点がないことにきづき、もしくはみつけられなくなり、納得してきた。

怖いもんだ。
ボクは宗教は好きでも宗教団体と言うものを毛嫌いするたちだ。
そして、もとより懐疑的な、疑い深い人間だったから勧誘も結局断れた。
でも、あの感覚。
このブログじゃ伝えられないな~。
なんか優しく洗脳されていく感じ。

たぶんボクのなかで宗教団体ってのは無理なことを脅しにかかるようなものばかりかと思っていた。
でも、実際は論理的に話しかけてきた。
宗教団体っていうより教材の訪問販売の相手をしている感じだった。
さすが日本有数の宗教団体。

でも、こういうとき懐疑的になるべきだと思う。
疑って本当のことかどうかを確かめられるようにならなくては。
あっちは勧誘にきて、こっちは受け身だ。
勧誘者はどうとでも言える。
作り話も。
そこを知っておくことと信念を持っておくべきだ。
まあ、毒には毒でってことかな。
自分の宗教を作ることだね。

これが僕の体験談でした。

うっかり入信しなくてよかった。
ホントに。

でも、勉強になったこともいっぱいあったんですよ。
勧誘の対処もそうだけど。
生きた宗教に触れられたこと。
これだよ!やっぱり!
貴重な体験、ゴチッす!

まあ、でも確かに心理がまだないってことはあの人たちの言うとおりだわ。
人間は科学の頂点に来てしまったって言う人もいるけど。
まだまだ、だと思う。
正直なところ勘だけど。
だって、そう思うと生きているの馬鹿らしくない?
面白みなさすぎだよ。

だから、真理は発見できていないってこと。
でも、なかったらなかったで人間は困るんですよ。
地図が無いみたいに。
不安なんだ。
だけど、間違った地図を渡すような人間もいる。
だから、認めるしかないんだよ。
自分だけが認めるしか。
たとえ、他人が違うと言っても自分だけはそれが真理だと言い張ればいいんだよ。
結果としては宗教団体に入信する人間とおなじだがプロセスが大事なんですよ。
どうたどってきたかが。
それによって全く違う意識が生まれる。
たとえば、他人に誘われてその真理を信じた人はどこまで行っても依存したままだ。
その宗教に。
自分のオリジナルの信念を持つ人は自分しかいないので独立できる。
無論、孤独に近い苦しみはある。
でも、ボクは他人に依存するのが嫌いだ。

唯我論に生きているからな、ボク。

以上!

2008年3月28日金曜日

楽しみは天職

あ~やりたいことだけやれる世界ってのは無いんですかね・・・?
やりたいこと、得意なことが職業なら楽しいし、そんなに収入が良くなくても続けていける。
楽しくやれる、と思うんですがね。
なんでかな~?
不条理に尽きる世界め。

成功の素は楽しむこと、苦に思わないことですよ。
やっぱり。
楽しいことは続けられるし、続けられるから成長が早い。
そうですよ。

大人になったらそうなりたいなぁ。

以上!

2008年3月25日火曜日

「夢をかなえるゾウ」読みました。

まあ、人生なんて最後はみんな死でくくっておわるんですがね・・。
ボクとしてはなにか世の中に名を残していきたいと思うんですが。
でも、それも享楽程度の思いいれで、実際はどうでもいいんですよ・・。
笑っちゃうんですが。

「夢をかなえるゾウ」を読破しました!
いや~よかったな~!
なんか、あんなに厚い本を完読したってことがなんか自分の中で自信になりましたね。
まあ、すごく読みやすく面白いんですよ。
なかで出てくるガネーシャの教えはとても共感できるものでよかったです。

べつに成功しなくてもいい。
こんな感じのことが書いてあったんですが、すごく自分の思想とマッチングしてまして。
自称:仏教徒のボクにはとてもグッときました。
ガネーシャはヒンズー教の神様なので仏教とつながる点があるのかな?

人間なんて長く生きているようでそうでもないような気がします。
長寿って言っても100歳生きればスゴイもの。
でも、100年って短くない?
特になにもないってこともあり得るし。

長い、短いは人によって異なると思うんで置いておきますが。
完全に言い切れることは誰でも等しく死が待っていることです。
死後をどう考えるか?
それは宗教を信じるかどうかでも別れます。
でも、だれもはっきりとわからないということは確実です。
宗教が一つしかなければ勝手にその死後を信じるかもしれませんが。
まあ、とにかく今の状況が変わることは確かなようです。
だから、まあ、生き方にこだわる必要もないのです。
周りから堕落していると思われても、それがしたいならオレは正しい!と勝手に叫べばよいだけのこと。
人間って大したこと無いんですよ。
偉人の偉業も項目化して書けばノートの半分くらいだし。
楽しく生きたいですね。

話は「夢をかなえるゾウ」に戻りますが、実行する課題もとても簡単でうなずけるものばかり。
まあ、詳しい内容は実際、読むのが一番!
本は読まねばわからない!

2008年3月23日日曜日

お料理

料理でもしようかな。
すこしでもできるようになりたいな。
別にすごく上手くなくても10品くらいのレパートリーを持っておきたいな。
いまできるのはせいぜいホットケーキと目玉焼きと野菜いためというつっこみたくなるようなメニューばかりだし。

ボクは食べることも好きだ。
食という趣味かな。
だから、どんどん料理を覚えていきたいな。
独り暮らしになってもスキルとして持っておけば便利だし。

料理を勉強したい。
これは別に作って食べるだけではなく、ソムリエみたいに料理やその原料を鑑賞したり、評価したりさ。
料理はたくさんの本が出てきているんだから、勉強しようと思えばできるはずさ。

でも、家族の多い家にいるとなかなかその機会もなくて・・・。
なんて諦めが出てきたり。
ボクはどちらかと言うと「ひとり」が得意なんだよね~。
これはしょっちゅう感じるんだ。
他人の眼の前だとやりたいことが言えない、できない。

生涯、ひとりの作家ってのも悪くはなさそうだな。

以上!

2008年3月20日木曜日

欲に埋もれるは人の常。

人間の欲求は適応する。
つまり、無人島にいれば無人島のなかで可能な欲求が頭にある。
都会のビル群のなかならそのなかで可能な欲求が。

人間って言うのは欲の塊で、欲が本質と言ってもよい。
でも、そう考えると欲って言葉のイメージが崩れていく。
欲って悪そうだけど。
もともとは良くも悪くもない。
むしろ、生を肯定するうえでは善に含まれるだろう。

欲がなければ人間は無明の苦しみに会うだろう。

まあ、大切なのは欲望のコントロール。
利用するべき欲望と排除すべき欲望。

まあ、わかりやすく表現すると、強くなりたいとかもっとこうしたいとかいう向上的な欲望と自分はもう限界なんだ諦めたいという堕落的欲求。
だれでも考えれることなんですが・・・・。

まあ、今回は欲望についてということで。

以上!

2008年3月18日火曜日

本、それは人生。

いつかは本に何か書きこめるような「大人な」+「知識人的な」人間になりたい。
リッチな感じで。

まあ、数百円の単行本でも小遣いのなさでためらってしまってるボクなんで。
自虐的になってしまうわけですが。

でも、反面、本をとっておきたいという気持ちもあるんです。
むかしからコレクター的なところがボクにはありまして。
大事にしておいたり触らずにしておくってとこがあったり。

まあ、どっちも大事なんですけどね。
要は気持ちの問題ですね。

手段である限りは本もその役割をまっとうしなければなりません。
だから、大事にするなら大事にするなりの。
ぼろぼろになってもぼろぼろになるなりの役割を活用してあげなければならないのです。

本、それは人。

以上!

2008年3月11日火曜日

人生ってのは絶望。

勉強ってやる気でなくて困りますね・・・。
毎日少しずつでもやろうと思ってもできないって言うか、習慣づかないっていうか。
なんか、勉強ってやってる意味あんのか?って気分になりませんか。
なんか役に立ちそうにもないことを毎日やってるんですもの。
 
はあ・・・こうやっているときも勉強から逃げているんですけどね・・。
 
まあ、頑張ろう。

以上!

2008年3月8日土曜日

まあ、なんとも退屈と言うか。
浮いた日が続いております。
なんてくだらない日々。
夢を見ているような。
現実なのにリアリティーがないような日々です。
特にやることもないからかな。
学校に飽きてきたということなのでしょうか。

恋もしてないし、なにかに情熱が湧いてくるようなこともないわけで。
高校ってのがすっごく嫌に、無駄に感じます。
すこしでも面白いこと無いのかと思っております・・・・。

大学に進学したいな・・・・。
さっさと自分のやりたいことに打ち込める日がほしい。
だから、今はその準備期間。

そうだぞ、ボク。

以上!

2008年3月5日水曜日

終わるときは終わる。

いや~つかれたわ~。
って、感じで1日が終わっていったわけですが。
すきなことしなくても、1日は終わるんですよね。

終わるものは終わるんですよ。
人は終わるってことが原則だからこれだけど、すこしでも良く過ごしたいよね。
「良く」ってのはみんなに善いことじゃなくて、自分の欲望に充実であることだよ。
まあ、その欲望ってのはエピクロス的快楽主義。
終わるのは辛いのさ。
だから、終わらないことを願う。
終わらないことを信じているんだよね。
ずっと、永遠に走りまくりたいんだよ。
辛くても生きてることなんて暇つぶしだよね。

以上!

2008年3月3日月曜日

自殺もあくってわけじゃない・・・

虚しいことをやめろってんなら人生をやめるってのが一番手っ取り早い手ではないでしょうか。

以上!

2008年2月28日木曜日

ああ虚しいやつめ

人間の本質か。
なんていうかさ。
愚痴る人間、他人を馬鹿にする人間ってたいてい、その人のことを映しているんだ。

人間が嫌う性質はその人間の中にある。
そう思う。
いやなもんですよ。
結局、人間はひとりぼっちなんだな。
どんなに行っても、そいつの思考はそいつだけしかわからない。

ひとりよがりはどこまで行ってもひとりなんだよ。


以上!

2008年2月25日月曜日

週刊ジャンプの「BLEACH」いいとこきてますよ~!!

BLEACH面白いところに来てますね~。
年末から各隊長と十刃との対決。
各隊長が主人公並に戦いまくってます。


クゥ~!!

カッコよすぎ!!

十刃もその隊長とマッチしたやつなので戦い方も魅力的です。
今は一番好きな更木剣八隊長vsノイトラです。

あの肉弾戦!
飛び散る血の量もヤバイよ。

どうなんのかな。
どんな戦いになるのかってとこだよね。
つまり、剣八がなんか進歩してなきゃだめだよな。
観てる側のニーズからすると・・・・。
まあ、今はジャンプが待ち遠しくて、一週間がながいわけですよ。


以上!

2008年2月21日木曜日

テストなんてやってると・・・

はぁ・・・ほんとに。
人間ってのは小さいねぇ。

テストやってるとさ・・テストが悪いと人生だめだ~、なんて思っちゃってさ。
そんなんで人生だめになるか~?

とか思ってると。
次は人生って何だ?とか思っちゃって・・。

まぁ、哲学好きだからイイんだけど・・。
テストなんて紙だよ。
2,3枚の。

それに人生託そうとしてたボクって・・。
・・・
・・
でも、こういうことに気づけるからイイよね。

まぁ、さっきテストのことで書いたけど。
権力ってのは眼には見えにくいじゃん?
テスト用紙にしても、お金にしても。
権力がなかったら、ただの紙。
平気で破れるのに・・。

まぁ、テストで人生を垣間見たわけですよ。


以上!

2008年2月19日火曜日

エロゲー、はじめちゃいました。

いや~こっそりなんか買っちゃうってこと、よくあるけど。
エロゲー買ってしまいました。

いや童貞にはたまらん逸品ですな。(笑)
こまめにセーブして全部のパターンを観れるようにしてます。(恥)

でも、ちょっとハードと言うか、責めるのはその娘だけじゃなくて、その娘の親や妹もやっちゃうんだよね。

まさにインモラル!
いや~はまったね。
ゲームなんてもう・・・5,6年ぶり。

それもいままでやったことあるのって2,3個・・・。

よ~し!
もっとやりこんでいこう!

まあ、エロゲーも文化だ!

また男も磨いていくつもりなのでご期待!


以上!

久しぶりに書いたな~しかし。

2008年2月6日水曜日

らき☆すたにもハマッタよ!

いや~オタク道の入り口って言ったら「らき☆すた」しょ。
らき☆すたは和むよね。
最近の萌えブームも癒しがキーワードになっているよ。
ストレスがたまる現代社会では癒しだけが逃げ道だよね。

少しだけでもこのつらいストレスがなくなるならお金をつぎ込んじゃいまっす。
コミックでも同人誌でもDVDでもギャルゲーでも!

いや~!
趣味って言うか.....。
なんかお気に入りのものが増えたんだ。
最近。

どれもいいんだよね。
なんかちょっとズレててさ。
ボクとしてはなんか他人と同じ行動を無理にするのってバカバカしい.....。

男なら、特にデキる大人な男を目指す者ならばオリジナルを持つべきだよ。
少しの偏見はむしろ勲章だ!

己の道を貫き通せ!

ボクはちょっとオタクチックなとこかな。(笑)

以上!太字

2008年1月19日土曜日

変な趣味多いのか?

よく考えたら他人と趣味の話をしたことがない。
まあ、ちょっと変わった趣味だし、のめりこむタイプだし。

たとえば、日本刀。
まあ、骨董や居合や剣道をやってる人のなかにはいるかもしれないが、何の関わりのない10代が日本刀を趣味にしているのは変わっているような。(笑)

でも、今はなんでも出ていると思う。

たとえば、アニメ。
主人公や登場キャラが武器として持っていることが多いよ。
刀だから男の子かと思えば、女の子が多い。
「サクラ大戦」、「灼眼のシャナ」、「BLEACH」とか。


やっぱり、あの洗練された感じがいいんだよ。
いらないところは削り落して、より斬ることを求めた形。
刀身はダマスカスにも劣らない鉄の聖域。
刀身だけを鑑賞する刀剣って珍しいだとか。
それに日本刀は技術がないと意味がない。
おもしろいものだよ。
まるで人間のようだからね。


でも、装飾にもこだわっている。
細かなところだけどね。
武士はそういうところにとてもこだわっていたとか。
外国人はそういう細かな装飾にとても器用だといって驚いているそうだよ。

そういうところに外国人も日本人もひかれていくのかな。

今回は日本刀についてでした!

以上!

2008年1月13日日曜日

パソコンをもっと使いこなしたい!

やっぱりパソコンを使いこなせるようにならないと…というよりパソコンの潜在能力は素人には測りきれないね。
なんでもできちゃうんだもの。
専用機器がなくてもパソコンのソフトやツールでなんとかできちゃうんだからすごい、すごい!

なんでも手に入ると思えちゃう。
情報も、動画や音楽も無料に手に入る。
ショッピングもできるしさ。

もっと、もっとパソコンを知りたいボクでした。

以上!

2008年1月12日土曜日

「檄!帝国華撃団」イイね!

サクラ大戦、…懐かしい。(笑)
小学校のころ、ちょっとクラスメイトがなんか語っていたから…覚えているな。

この前、ニコニコ動画でopの「檄!帝国華撃団」を聴いて、めちゃ感動!
全然、見たこと無いけどアニメのほうにも興味出ました。

でも、ボク、最近アニソンにはまっているよね~。
「残酷な天使のテーゼ」とか「聖少女領域」とか。
いいアニソンのアニメって、アニメがダメでも面白そうな感じしない。

短いけど。

以上!

2008年1月11日金曜日

人生って早すぎて無意味じゃ?

友達の、いや、ぼくに友達と言うものを認めるのは少しオカシイ。
とにかく、その人間の親は父が19歳、母が22歳で結婚。
1年後には長男が生まれている。
これがソイツだ。

しかし、ぼくは、なぜ人間が終わりのある者に執着するのか、よくわからない。
恋愛も結婚も限界のあるものだ。
そりゃ、人間がつくっているから限界があるのは当然か。

ならば、人間、そのもの自体が限界のある愚かな存在を存在させることの意味は?
パスカルの言うとおりだ。
「人間は考える葦だ」
絶対的な沈黙を有する宇宙に比べれば人の一生なんて馬鹿みたいに虚しく弱い。
無意味な存在に近い。


でも、まあ。
無意味に近いからこそ。
自由がある。

自由とは選択の範囲の広さを言う。
広い行動選択は自由人にのみに与えられる。

まあ、だから、やりたいことをやらせてもらうだけだ。
暴れて、ひきちぎるものはひきちぎり、斬るものは斬りまくる。

かなり危険思想ダネ…。

以上!

2008年1月7日月曜日

いまさらだけど「あ、安部礼司」。

9月末からラジオドラマ「あ、安部礼司」にハマってます。
人気なのもわかる。

各キャラがいいよね、まずさ。
特に!
刈谷勇の資本主義社会勝ち組の鼻の高さ、最高です。

サラリーマンドラマなんてさ、ウケが良くないと思っちゃうじゃんか?
でも、逆にいい!

サラリーマンなんて惨めさにあふれた存在じゃん、と思ってしまうけど。
安部礼司のキャラは青春ものだよね。
はなしの内容は恋と仕事に追われる若々しい30代、安部礼司。

AVERAGEを名前の原型とした(そのまんま)名前だから、普通な平均的なサラリーマン。
だけど、それが持ち味。
普通すぎて普通じゃない!

また、安部礼司の青春時代、1980年代のポップスが時折入っていて。
このドラマから名曲化した当時のポップスがわかったし。

なにより安部くんのケータイの着メロの「MARIONETTO」をはじめとしたBOOWYがすきになったし。
サラリーマンの見方もちょっとはよくなったかな。
それにこのブログを立ち上げようと思ったのも安部くんがブログを書くのが日課だってことからだし。

慰めてくれるよ。
「あ、安部礼司」はさ。
日曜日の午後5時のたそがれに沁みるね。

ちなみに今も録音した「あ、安部礼司」を聴いています。

以上!

2008年1月4日金曜日

あ~切ない!夢よ!

もう…今日の朝、夢を見ました。

このごろはバイトとかで疲れて夢を見ることもなかったんですが。
今日はちょっとゆとりがあったせいか見ました。

でも、その夢が問題でして…。
たまに見るんですよ…。

……好きな人の夢…。

目をつぶって、あの人と額を寄せ合って、互いの熱を感じあって、汗がとけあって…。

今、大好きで、しかもアブノーマルな片思い。
叶うはずもない願いが夢となってしまったか。
夢の世界でしか安らぎはない。
しかし、それでもぼくは生きていかなければならない。
絶望と共に。


思春期に突入してからしょっちゅう見てたね。
そういう夢。
 
妄想癖があるからね(笑)。
でも、勇気がない。
だから、夢はずっと夢。

あ~。
嫌んなるね。


以上!

2008年1月1日火曜日

あけまして おめでとう!

まえに書いた時からすごい時間が経っちゃいました…。
あ~微妙に後悔。

でも、元日なのでテンションも上げていきましょ~。

12月19日からいろんなことがあったんだよ。
冬休みに突入し、クリスマスがあり、アルバイトをはじめ、年末の忙しさとともにバイバイ2007年!

だったわけで…。

まずは、

というか改めまして、

あけましておめでとうございます

よっし!
本年もブログ書いて書いて…いくぞ~。

さっき、アルバイトを始めたと書いていたけど。
そうなんですよ。
生まれて初めて御金稼ぎ!
(まぁ、たかがバイトなんですが)

いや~9時間半の労働も慣れたらどうってことないね。
周りにアルバイト未経験者が少ないと。

優越感、感じまくりなんですけど~。

でも、イイ経験だよね。
イイことづくめだよ。

だって、お金稼げるし、社会体験もできるし、とにかく、いい経験ってことだよ。(笑)

では、今年もヨロシクね。

以上!