2009年2月25日水曜日

極論

極論とは書いてみればなんとも不遜で、かつ実践性のない雰囲気を覚える。
しかしだ、そこには発展の源があり、荒削りであるからこそ希望を持つことができると考え
る。
無論、極論のみでは世界が遊べるどころかめちゃくちゃであろう。
そのうえ、まだ研磨できるところがあるのだから、きちんと仕上げていくべきであろうことは確か   に頷ける。
まあ、たぶんこの風信雲書も極論が飛び交い、危険地帯であろうと自分でつくりながらわかることがある。

極論が求められるのはイノベーション、創造の瞬間だ。
極論、たとえるならば、それは新しい鉱脈を当てるために使うダイナマイトといったところだ。
そこからは変に整えず、新しいものを新しいものを、と求める姿勢が若者に求められていることを示しているのであろう。
その「新しいもの」とはなにか。
新しさ、それは未来を見てもわからない。
むしろ、後ろ、過去をみつめることで学べることなのだ。
歴史を解剖し、次へジャンプできる。
学習の必要性はそこにある。

第二段落からはダイナマイトの極論と温故知新の学習、この二論は対極しているかに見えて、実は重なり合う関係であることがわかる。
イノベーションとは考古学であるのだ。

以上!

2009年2月24日火曜日

解釈

解釈
解釈とはひとつの学問、ひとつの論の根幹をなすものだ。
それは人間そのものの意識活動だ。
あるのは事象そのもののみだ。
それなのに哲学が、自然科学が、宗教がこうも派に分裂し、各主義が生まれたのは解釈の差異によるものと断言してよいだろう。

解釈、それは知の母である。
たとえば、心はどこにあるのか?といった問題について様々な解釈を使えば、答えは丹田であり、心臓であり、脳であり、DNAである。
この答えをみると19世紀から始まる学問の専門化そのものであるようだ。
学問の根幹、解釈は信仰が廃れ、理性至上主義から急速に発展をつづけ現在に至る。
つまり、信仰というひとつの視点、ひとつのコスモロジーの時代から多様な視点を容認し、発展という見返りから解釈を使う時代になったのだ。
だが、多様性は人間ひとりひとりが違うように多くの解釈を必要とした。
そのときに出てくるのが「解釈の差異」だ。
その「解釈の差異」は真理の視点を360度包み込むように分かれていった。
哲学から始まる学問の歴史は包括的で雑然とした総合知「哲学」からアリストテレスによって専門化した。
そして、真理のズレは少しずつ、だが時間とともに大きくなっていった。
現在の論理物理学とフランス文学を比較し、同様だと唱えることはできない。
しかし、少し考えてみればその根底にある目的は同様であることにも気付けるはずだ。
源流が総合知たる哲学にあることを。

自然という母親は同じ、されど解釈という父親は各々異なる。
それが学問や主義の本質であり、学問の宿命だろう。
ボクはこの解釈を常に脳内のデスクトップに置いておきたい。
さまざまな視点こそが糧となる。

以上!

2009年2月20日金曜日

著作権

読書好きとしては書籍存続のためにも作家の資産である著作権を守るべきだとは思う。
しかし、それはあくまで書籍存続、つまり作家がいなくなったら困る程度の意味しかない。
けれども、作家にはかわいそうな話で著作権とは実に限界が見え透いた権利である。
いや、すべての権利は限界が見えているが。

著作権の限界が見え透いているとはどういうことであろうか。
それはすでにロラン・バルトが彼の思想のなかで解決しているようにも見える。
ボクが言うとすれば、どんな偉大な作家の意思や作品への思い入れも読者に読まれる瞬間には読者独自の解釈の二の次となってしまうということだ。
読まれるその瞬間にはその作品(そのなかの思想)は作家から読者へ無償で引き継がれてしまうのだ。
よほどの注釈を付け、読者目線を持たなければ自身の考えは相手に完璧には届かない。
そこが著作権の限界だ。
そう考えると著作権とは作家が食いつないでいくためのただの利権でしかなく思える。
まあ、では作家にのみそれが当てはまるかというとバルトの言うとおり、これは文学作品のみならずテクストと呼ばれるものにはすべて適用される。
つまり、このボクのブログも他人とのズレが生じ伝えきれていない部分が必ずある。
それが言語の限界でありそのなかで生きる人間の限界か。

もし、それが無ければテレパシーだろう。
それを考えると谷川流のライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』に登場する情報統合思念体を思い出す。
彼らは実体を持たず複数でありながら個体数が無い存在、いや概念である。
そこにボクは日本文化の幽玄や妙の世界を感じる。
そして、直観でだが、形を重視する言葉、論理では片づけようのないものは形を捨てなければ伝達できないと考える。

現在、著作権とは作家という知識人階級がブログの登場により追われる身となったために自信を守るための利権である。
ブログは著作権に反しコピーを張り付けている。
ブログの奔放さは犯罪まがいではあるが編集の喜びが感じられ、知の在り方を表現している。

以上!

2009年2月18日水曜日

歴史認識

「歴史の認識」とは即ちひとつの歴史観を視点とし、みずからの解釈で歴史を理解することだ。
最近、時代区分が迷惑なことがある。
それは時代区分があるとどうしてもその時代と前後の時代の流れがつかめにくいのだ。
流れは必ずあり、時代で区切っても続いていくものなのに。
能と歌舞伎はなんの関係のない文化なのか。
戦国大名と百姓ははじめから身分が違うのか。
時代を分けるとどうしてもそれだけを抜き出してしまい、前後を全体を見られなくなってしまう。
歴史とは縦の流れがある。
それは時間の流れであることは誰もが知っている。
しかし、その流れを横からのぞいてみると面白い。
たとえば、織田信長とエリザベスⅠ世が3歳違いであったりするところは歴史に多少の興味のある人間ならば「へえ」と雑学を感じるだろう。
要はそこが常に教育のなかで無視されているところなのだ。
そこを踏まえれば歴史は面白く、新しい発想の素となる。

以上!

2009年2月16日月曜日

器が小さくても

ボクはあまり付き合いのないほうだから、常に不器用な生き方だ。
なにに不器用か。
いわゆるところの人間関係だ。

哲学的になるのだが、人間関係に関係しなかった人間はいないだろう。
人間は社会的動物なのだとボクも信じている。

人と一緒にいて悪い気分はない。
ただ、ボクはその人とずっといたいとは思わない。
それはだれでも思っているのだろう。
ボクはそのレベルが他人と違う。
みんなが一緒にいる時間よりボクが望む時間は短いのだと思う。
いや、夜通し一緒にいたいというときは必ず訪れるのだろう。
要はだれと一緒にいたいかだ。
そこらが器用にいられない。
つまり、嫌いをはっきり表現してしまう。
そこで、我が道を行くならば問題はない。
だが、ボクはそこまでできない。
常に顔色をうかがい、嫌われないように根回しをしている。
少々のことで落ち込み、喜び、おびえる。
居場所を失いたくないのだろう。

それでも討論するときと書くときは独創的に、鋭くありたいと思う。
それを実践していると思う。
もちろんこの文章の通り、足りない人間だが。

自分を出せないボクと独創に走るボク、その両人がボクのなかにいるのだが、そんなことは誰でもそうだろう。
問題はその使い分けだ。
ボクの問題は真面目にするときとふざけるときに両人の使い分けができないことだ。

そんな使い分け、独創の邪魔だと思うボクもある。
では、周りから浮きまくって、社会から飛び出して独りでいればいいのか。
社会的でない人間は人間ではないだろう。
別に人間でいなくてもいい。
しかし、それは新たなステップだ。
新たなステップには必ず変化や死が待っている。
死は嫌だろう。
嫌ではない。
ただ、生が欲しくなるかもしれない。
それは家族や他人との関わりからくる楽しみだ。

問題はそのステップだけだ。
踏み出すべきか止まるべきか。

以上!

2009年2月15日日曜日

雑誌

「雑」という言葉が怪訝される性質があり、というより世間一般でそう思われており、なんとも残念に思う。
ボクは雑という字が好きだ。
雑然、雑草、雑学、どれも正統派ではないかもしれないがどうも親近感があるというか、近寄りやすく安心する。
何せ、ボクは田舎者だからテーブルの上で和食を食べるような雑然としたライフスタイルだ。
庭が広いものだから雑草もよく見かける。
そのうえ、ボクはいわゆる雑学博士でもある。
雑であることは体系がなく整理されていない状態や事物のことに思っているが、ボクはそこにこそ魅かれる。
雑であることはドゥールズがガタリと共に提唱したリゾームの概念そのものだ。
リゾームとはいままでの、つまり20世紀までの体系がたてられた学問の概念の終息を意味する。
インターネットを主とした情報技術やグローバル社会にリゾームの概念が潜んでいることは周知のことであろう。
また、インターネットやグローバル社会での目に見えるシステムの運用だけではなく、感覚としての雑然さもキーであり、それが知覚として繋がり、リゾームの広がりに繋がる。
いま出た「繋がる」という動詞もキーだ。
どんどん繋げていく、しかも意味のあるもの、ないもの、不要に思われるものなど色々繋げる。
そうすると新たな知に至る。
それを書籍としたものが「雑誌」だ。
この語には新聞やフリーペーパーも含める広い定義を持たせる。
この雑誌は一般には毎日、毎週、毎月といった定期的な情報源であるがために安く作られ、またスキャンダラスな芸能記事やゴシップ記事に溢れる政治面を持つものが雑誌として大衆にイメージされ、それが認識されているからか正式な書籍として認められていない
たしかに多くの情報を詰め込んだ安上がりな書物として良い意味でも悪い意味でもみられていることは間違いないだろう。
しかしながら、その詰め込み書物こそ新たな時代の概念を指している。
それは雑誌が「総合」であるからだ。
お菓子特集もあり政治面もあり、グラビアアイドルの写真がある。

それらは独立して、かつ同居しているわけだが、同居しているがために全体像が築きやすく、それが非統一ジャンル分けであるがために時代の構造が見えやすい。
まさにリゾームそのものだ。
そこが雑誌の強みであり、ひとつの集合知の在り方を示している。

以上!

2009年2月11日水曜日

親友から世界視野へ

「親友」と言うと日本人の場合、1対1の親しい友人関係をイメージするだろう。
これは子供も大人も同じだろう。
この親友のイメージは子供のころは欧米人もそうであるのかもしれないが、基本、欧米では大人の男が二人でお酒を飲むことには偏見があるという。
つまり、ホモセクシャルなんじゃないだろうかと思われている。

欧米の見方というのは面白いが、その見方を日本人が完全に理解できないものではない。
「自己のなかの他人としての思考法、考え方」。
この点を押さえておかないと野蛮なだけになる。
多文化であるということは別々の材料や要素を持ち寄るように聞こえるが、むしろ、ボクは「自己の再発見」だと思う。
理解できないものではないことが歴然とある。
そこに意識を置くと同じ人類である共通意識が自分のなかから込み上げてくる。
学問上、与えられることは意外と少ない。
少なくとも100%知らないことや理解できないことは有り得ない。
それを人間は想像することはできないだろう。
膨張する宇宙の外側は想像できない。

以上!