2008年10月31日金曜日

タイトル

読み物のタイトルはやはり奇をてらうくらいじゃないと。
マキシマムザホルモンの曲のタイトルくらいにさ。
なにがなんだかわからない。
それくらいじゃないと、タイトルの芸術が廃る。

以上!

2008年10月28日火曜日

真実とともに生きる

もし、セックスで快楽が得られなくなったら人は死ぬのではないか。
たまにこう思ってしまう。
それは童貞の思いこみかもしれない。
しかし、これは真剣な思い込みだ。
至上の事が破られれば、そのあとはどうなる。
始まるから終わるのであり、なにごとにも限界はあるのは当然だ。
では、セックスで快楽が得られなくなる日には、人は新たな境地に立てるのか。
それはステップなのかスットプなのか。
スットプならば、きっと世界の小ささを感じることだろう。
それは絶望である。
幼いころの思い出はどうしてか澄んでおり、齢が経つにつれ、グレーに、文字化していく。
“みえる”ってことはそういうものなのかもしれない。
世間や空気なんて言うみえないものが見えてくる。
感じてくる、実際に在る。
だが、世界が小さく見えるのは実際小さいからではなく、世界は小さいという真実を作り上げている自分がいることに気づかなければならない。
世界の本質を知ることは不可能である。
カントじゃないが、不可知論を認めることはいたって冷静な知性だと思う。
四諦と書いて、仏教では四つの真理を表す。
真理を「諦め」という字で表すことは納得がいき、かつ、けだるさがある。
本質を知るのは不可能、ならば自ら決定していくほかない。

以上!

2008年10月25日土曜日

自己決定こそ人生

悪も行き過ぎると正義となる。
相対的な存在の価値なんてものはないとは言い難いが不透明であることは間違いない。
それは一種の悟りだろう。
是非じゃない。
善悪じゃない。
それはただの言葉だ。
道教や禅の世界観に近い。
老いた考えと無視されるかもしれない。
だが、真実はそういうものだ。
その老いた考えとやらも相対的な価値となり、ボクの言い分では無に帰す。
ただ、真実がそれだからといって堅苦しく生きろとは言ってない。
真実は各々が決めることだ。
ボクの言い分だって、強制的に無視することもできる。
人間には確かにそういう瞬間に自由があるように思える。
いろんなタイプの人生、それを送るための方法がある。
人は思考方法では帰納法でいくか、演繹法でいくか選べる。
ただ、選択の際の責任は自己にある。
それも無視することはできるが、誰もがその強力な無視ができるわけではない。
人は全体で見ると弱い。
絶対にくじける者がいる。
それを歴史のなかでは犠牲とよんだが、歴史は人間全体の歴史だ。
個人の生き方とは無縁だ。
真実を決めるのは全体ではなく、自分であり、生きるのも自分次第だ。

以上!

2008年10月21日火曜日

書籍のこれから

辞書を書籍と見ることはあまりなく、その存在をなにとすればよいか決めかねるところである。
しかし、辞書はもっとも古い書籍のジャンルであろう。
ものごとの定義が示してあることは書物が最初に必要とされたであろうことは容易に考えられる。
ボンパドール夫人の手元にあったのは百科事典であった。
知は常に辞書、辞典から始まっていた。
今では電子辞書、パソコンや携帯電話の辞書機能などから書籍の辞書を紐解く機会も少なくなったと思われる。
しかし、書籍の辞書は廃れいく存在かもしれないが、絶滅することはないだろう。
その人気は減少こそあれ、0になることはないのだ。
話題を広くしよう。
書籍の絶滅もありえないであろう。
そこには学術的根拠はない。
それが普通である、常識であるというような固定概念があり、しかし、また、生き抜く知恵が書籍にはあるというような気がしてならない。
紙でできた情報媒体、書籍は削る部分がそんなにない。
また、まとめ的役割があることが最近の書籍の状況よりわかる。
ケータイ小説が書籍化されるところを見ると紙文明は新たな時代に新たな役割を担わされたのかもしれない。
書籍の中でも面白いと思ったのは、名作の漫画化や名作を横書きにした本が出回っていることだ。
そこに書籍のフットワークの軽さ、汎用性を垣間見たような気がする。
それは生き残りの知恵でもあり、情報媒体の王位を未だに離れまいとしている余裕の態度にも思える。

辞書はその中でも王だ。
それはあの前時代的なインテリの印象、でかい図体のことからそう言っているのではない。
それは文字を並べ置き、知を保存する役割を持つ書物の中でも、その文字を生業とする書物だからである。
文字を決めるのは吾のみするところは王者の風格だ。
文字を定義する権限は文学を問わず文字を扱うものにとって絶大なものだ。
その辞書の風格はやはり紙ならではであろう。

以上!

2008年10月16日木曜日

浅い決意

最近、もっと本を読まなきゃと思い、1週間に2,3冊の新書を購入している。
お金はかかるが、自己投資できる時間は今しかないと思い、面白そうなものを選んで買っている。
そのなかの『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』著:山本ケイイチのなかの「第8章できる人のトレーニング」にあったトレーニングに対する心構えや注意点は初心者向けであり、かつビジネス要素もある汎用的な内容であった。
共感する内容も多々あり、日常に生きる知恵がある。

そういうものに触れるたびに、「ああ、自分を変えなきゃ・・・。」としみじみ感じてしまう。
こういうものって意識しなきゃ何も変わらないってことをあらためて教えられる。
まあ、「遊び」を根底に自分を変えていきたい。
スキルを付けて人生を謳歌するのだ。

以上!

2008年10月15日水曜日

生きる、活きる

怠惰な生活とはよく言うが、行き詰まりの生活はもっと苦しい怠惰な生活は客観的に見ているが、行き詰まりの生活というのは主観的にみている感じであるからだ。
あくまでボク個人の解釈と感覚からの発言だが。

問題は行き詰まりの生活とは何かだ。
主観的であることは間違いないのだから、当人がそうであることを意識している、自覚していることは確かだろう。
うんざりとする、心の靄が晴れないような。
宇宙の真理を知り、気が触れたような感覚。
具体的にはボクにとっては何か。
それは閉塞的生活だ。
先に進むことをやめた極端かつ無意識のうちに陥っていた保守的な生活全般を指す。
広義の意味で、ボクが使用する場合の「破壊」がない生活だ。
なにかを疑ったり、否定したり、壊したりするアンチな行為、思考は「破壊」があるのだから必然的に「創造」がある。
それには挑戦が常に必要だ。
それをモチベーションとしてもいい。
それを意識することで少しは生活がマシになるのではないか、面白くなるのではないかというのがボクの生き方でもある。
挑戦のためには文化的に「読書」、「思索」、「瞑想」、「研究」が必要になる。
また、脳だけではなく体を使い「運動」することも上記の4つに良い影響を与える。
あの4つは挑戦するための手段なのである。
しかし、挑戦することは手段であり、目的とも化している。
それは生きることは動名詞であるからだ。
つまり動詞でもあり、名詞でもあり、二重の意味があるからだ。
二重の世界が同時に存在することは深い意味をもつ。
止まっている世界と動いている世界が同時にあることを想像するのは相当、思考と解釈に工夫を必要とするだろう。
「静中動」これ動名詞なり。
動名詞、これ人生なり。
一瞬、一瞬を生きていることには違いないが、それが動いているのも事実だ。

以上!

2008年10月14日火曜日

歴史を意識する

一般人は歴史を意識することはあまりない。
つまり、個々にものが存在すると誤解している。
だが、現実はそんなことはあり得ない。
たとえば、ネクタイとローマ兵と言われても、その二つの関係はかなり希薄だろうと思うのが一般人であろう。
しかし、歴史をたどればネクタイの源流はローマ兵が首に巻いた布から来ていることがわかる。
ネクタイとローマ兵は歴史的には無視できないほどの関係線が引かれていたのである。

歴史とはものとものを結ぶ関係線である。
その関係線を結ぶのは創造力だ。
想ってみるのではなく創ってみるのだ。
歴史は年々、変遷されている。
それは新説が次々に創られているからだ。
いくら頑張っても真理たる文献や証拠はあまり出てこない。
そのようなときには歴史家は関係線を結ぶために蓄積した知識を活用し関係線を結ぶのだ。
関係線を勝手に創ってしまう。
創るから歴史は変わり、聖徳太子もいなくなった。

ドュールズはリゾームを唱えたが、歴史とはまさしくリゾームだ。
しかし、教科書では歴史は縦になっている。
昔から今の流れしかない。
もっと、横、斜めの関係線を結び、禍々しい、豊かな潮流が築かれてくことを学ばなければならない。

以上!

2008年10月11日土曜日

Rockという在り方

もともと、ロック自体がポップカルチャーの中心になったことが若者文化を語る上で重要になるだろう。
そこには「ロック=若者」という切り離せない関係をつくられた背景である。
ロック誕生は若者音楽や若者ファッションなどの要素を組み合わせポップカルチャーになっていたが、ロックの誕生からはロックを中心にしたポップカルチャーになっていったことがわかる。
ボク自身もポップカルチャーと言われ、まず頭に浮かぶのは「音楽」、すなわちJ-POPである。
ロックがポップカルチャーの中心になれたのはボクの考えるに若者そのものが音楽になったからであろう。
そこには「老い」がない。
常に反体制主義がある。
ニヒリズムに終着するのであろう諸行無常の形式、若さ、精神性、情熱そのものである。
ロックが初めて若者のための音楽となりえたのだ。

そのロックもかなり他分類化されミクスチャーロックのように種類が恐ろしく増えつつあり、また、もとより定義があいまいなため、ロックとは何か掴みにくくある。
しかし、それでも我々は何気ないことでも精神性としてのロックを感じ取ることがある。
それは錯覚や定義づけがあいまいなためではなく、感覚として感じるのだ。
そこにロックの奥深さ、本質があるのではないか。
ロックは音楽、その中の言葉という器に入っている精神性、感覚、パトス、思いなのだ。
それは日本人の仮名文字で表せられる感情に類似している。
「うつくし」、「あはれ」はロックと似た感覚にある。
漢字は字そのものが意味であり本質だ。
しかし、日本語は長らく文字がなかったためか文字は器にすぎない。
それは「うつくし」、「あはれ」のように平仮名で表せられるものは特にである。
純粋な感情が平仮名に込められている。

定義づけがないにもかかわらず感じ取ることができる音楽、ロックは定義づけがないゆえに生き残れ、多様化し続け、若者文化の中心であり続けるであろう。
感覚の音楽だからこそ心に入りやすい。

以上!

2008年10月8日水曜日

白洲次郎

最近ハマっている人物として白洲次郎がいる。
白洲次郎といえば終戦直後GHQ支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、東北電力会長、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員などを務めた政治家、実業家である。
生い立ちとしては、明治32年に生を受け、もともと実業家の家に生まれたらしく旧制第一神戸中学校に入学しているが、かなりの乱暴者として知られており、高級外国車を乗り回している。
これは白洲次郎、終生の性格、人格、趣味につながる。
卒業後はイギリス・ケンブリッジ大学に留学している。
このときも自動車に溺愛して、車をいじり油まみれになるため「オイリーボーイ」と呼ばれていた。
帰国後は伯爵樺山愛輔の娘、正子と結婚する。

白洲次郎も有名な人物ではあるが、白洲正子も随筆作家として有名である。
なにせ白洲正子というのは極端にいえば万人から恐れられた人物である。
政治家にも高級料亭の旦那にも容赦なく食い掛かっていく。
筋が通っており、単に爵位にぶらさがっているお嬢様ではない。

白洲次郎に戻ろう。
彼のエピソードで多いのは終戦連絡中央事務局にいた頃の話だろう。
終戦後の日本政府はGHQ/SCAPに対し従順すぎる態度であった。
しかし、白洲次郎はイギリス仕込みの流暢な英語とマナー、本人がもともと持っていた押しの強さと原理原則を重視する性格から、GHQ/SCAPの要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。
また、神と崇められるに等しい存在であったダグラス・マッカーサーが昭和天皇からのクリスマスプレゼントをぞんざいに扱われた際には届け役であった彼は「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせ、誤らせたという。

彼には日本人で初めてジーンズをはいたことぐらいのエピソードからコートニー・ホイットニー准将への皮肉のエピソードなど大小多くの有名なエピソードがある。
しかし、どれも白洲次郎的であり、つまりそれはダンディズムを表し、彼のルックスとともにかなりの男前である。
男なら誰でもこうありたいと思うのではないか。
そう感じさせてくれる人生、それを生きたのが白洲次郎その人である。

以上!

2008年10月4日土曜日

日本の美意識の断片

日本の美意識は、それを表す言葉が多く存在する。
「あはれ」、「もののあはれ」、「あっぱれ」、「すさび」、「幽玄」、「妙」、「わび」、「さび」などきりがない。
これらは現代人たる我々から見れば、ばらばらの価値観だが、歴史的には生まれてきた順序、誕生の背景、日本の美意識という潮流の系譜としてそれぞれがつながっている。
背景と言ったが、それは貴族社会だったり、戦乱だったり、町人文化であったりとさまざまだが公家が武家と、武家が公家とまったく同じ美意識を持っていたかというとそうではなかった。
だいたい、身分がまったく違うのだ。
身分内の気風、流行は身分ごとの個性や特徴を築いていった。
ただ、それも大きな系譜のなかでは歴史の流れとしてみることができる。

以上!

2008年10月2日木曜日

世界と自分の関係

世界がどうなっているのかも決定権は必ず自分にあり、逆に言うと世界を決める義務が自分にはある。
「他」の気持ちや状況、本質を100%捉えることは不可能だ。
「他」についてはヒントをもとに自分が決定しなければならない。
ゆえに「他」とはわからないことを指す。

独我論はボクにとって最も実感の沸く哲学だ。
だって、そう感じているのだもの、幼稚園の頃から。
自分が見えないところに果たして他人は存在するのだろうか。
その価値はあるのだろうか。
自分で捉えられる世界は自分の中にしかないのに。
見えないことの意味はないだろう。

以上!