夏が終わる。
終わりの合図は台風だった。
今年もまた残念、無念、また来週。
どうしてまともな夏を送れないのか。
2009年8月31日月曜日
2009年8月30日日曜日
2009年8月29日土曜日
小言ジジイ、侮ることなかれ。
うちの祖父は小言ばかり言っている。
先日もヘキサゴンを観ていると、こんなもんもわからんのか、などと嘲っていた。
ボクは以前、年の功についてよく考え、それについてはここにもしょっちゅう書いていた。
ボクはいまも年の功は存在するし、それが健全な人間の老いだろうと思っている。
それでは、うちの祖父は年の功を積んでこなかった堕落した人間ということになるのだろうか。
ボクの祖父は、たしかに聖人君主にはならなかったわけではある。
ボクは祖父について特に庇いだてするわけでもないが、ボクは祖父のような小言を言う老人は健全に老いていないわけではないと考えている。
それは、たとえば少年が、もし老人のような小言を呟いていたならば、それはいじけているだけ、不満があるだけであり彼の心は苦しくなっているはずだ。
しかしだ、老人の小言というのは決して苦しみはない。
それは一見、罵倒のようであるが、老人の心に悪はない。
むしろ、馬鹿にする者への愛情や親心があり、年長者としてのゆとりがある。
ボクの考えるに、小言老人なんてものはむしろ正道を歩んでいる。
まあ、目指すは聖人君主だろうが、人類がみな聖人や君主になれるとは思えない。
しかし、小言老人は聖人君主への境地のひとつであろうとは思う。
心のゆとりなくして、人間、大器を抱くことなどないであろう。
だから、人間まず目指すは小言老人なのだ。
先日もヘキサゴンを観ていると、こんなもんもわからんのか、などと嘲っていた。
ボクは以前、年の功についてよく考え、それについてはここにもしょっちゅう書いていた。
ボクはいまも年の功は存在するし、それが健全な人間の老いだろうと思っている。
それでは、うちの祖父は年の功を積んでこなかった堕落した人間ということになるのだろうか。
ボクの祖父は、たしかに聖人君主にはならなかったわけではある。
ボクは祖父について特に庇いだてするわけでもないが、ボクは祖父のような小言を言う老人は健全に老いていないわけではないと考えている。
それは、たとえば少年が、もし老人のような小言を呟いていたならば、それはいじけているだけ、不満があるだけであり彼の心は苦しくなっているはずだ。
しかしだ、老人の小言というのは決して苦しみはない。
それは一見、罵倒のようであるが、老人の心に悪はない。
むしろ、馬鹿にする者への愛情や親心があり、年長者としてのゆとりがある。
ボクの考えるに、小言老人なんてものはむしろ正道を歩んでいる。
まあ、目指すは聖人君主だろうが、人類がみな聖人や君主になれるとは思えない。
しかし、小言老人は聖人君主への境地のひとつであろうとは思う。
心のゆとりなくして、人間、大器を抱くことなどないであろう。
だから、人間まず目指すは小言老人なのだ。
巨人のはなし
「風の谷のナウシカ」には巨神兵という巨人が存在する。
巨神兵はアニメでは悪の兵器であったが漫画では明らかなキーマンである。
巨神兵は大きく人に近い形をとり、ビームとその体躯で戦う。
これは巨人のシンボルなのだ。
ビームにしろその圧倒的な体力にしろ彼らの武器はその単純な自身の力だ。
巨人は世界中に神話や伝説でその存在を残し、今でも小説や映画に登場する。
彼らに共通するのは彼らは恐ろしく見た目は人間だが人間とは異質の存在であることだ。
巨人は人間とは違い非文明的な格好でその圧倒的な体力で戦う。
彼らは「自然」の化身なのだ。
それは自然環境ではない。
「純粋さ」そのものだ。
「純粋さ」非文明、無知識のことであり、果実を口にする前のアダムとイブだ。
人類のように文明をもったからこそ手に入れた知識はいっさい巨人に見当たらない。
彼らはもっと単純に破壊し純粋な心を持ち質素な生活を送る。
馬鹿のように大きく、馬鹿力なのだ。
巨人文化はあらゆるところにある。
ゴジラやエヴァンゲリオン、デイダラボッチにタイタン。
絵画で言えば、フォーヴィズムも巨人的絵画であろう。
野性的であるものには巨人性が見受けられる。
巨人性ともいえるものは巨岩信仰だったり大木信仰だったりする。
自然災害も巨人を意味する。
家々を飲み込む洪水、津波、地面を平気でえぐる地震、一瞬で焼き尽くす雷、山火事。
あれらはときどき生物のように見えてくる。
そして、現段階では人類は自然災害を避けることも防ぐこともできない、逃げるのみである。
自然災害の力は単純である。
真っ向から強大な力を押し込むだけ。
それこそ巨人性だ。
人間の蓄積してきた技や知恵などまるでない。
現在、人類は一向に巨人性の圧倒的な力に屈している。
巨神兵はアニメでは悪の兵器であったが漫画では明らかなキーマンである。
巨神兵は大きく人に近い形をとり、ビームとその体躯で戦う。
これは巨人のシンボルなのだ。
ビームにしろその圧倒的な体力にしろ彼らの武器はその単純な自身の力だ。
巨人は世界中に神話や伝説でその存在を残し、今でも小説や映画に登場する。
彼らに共通するのは彼らは恐ろしく見た目は人間だが人間とは異質の存在であることだ。
巨人は人間とは違い非文明的な格好でその圧倒的な体力で戦う。
彼らは「自然」の化身なのだ。
それは自然環境ではない。
「純粋さ」そのものだ。
「純粋さ」非文明、無知識のことであり、果実を口にする前のアダムとイブだ。
人類のように文明をもったからこそ手に入れた知識はいっさい巨人に見当たらない。
彼らはもっと単純に破壊し純粋な心を持ち質素な生活を送る。
馬鹿のように大きく、馬鹿力なのだ。
巨人文化はあらゆるところにある。
ゴジラやエヴァンゲリオン、デイダラボッチにタイタン。
絵画で言えば、フォーヴィズムも巨人的絵画であろう。
野性的であるものには巨人性が見受けられる。
巨人性ともいえるものは巨岩信仰だったり大木信仰だったりする。
自然災害も巨人を意味する。
家々を飲み込む洪水、津波、地面を平気でえぐる地震、一瞬で焼き尽くす雷、山火事。
あれらはときどき生物のように見えてくる。
そして、現段階では人類は自然災害を避けることも防ぐこともできない、逃げるのみである。
自然災害の力は単純である。
真っ向から強大な力を押し込むだけ。
それこそ巨人性だ。
人間の蓄積してきた技や知恵などまるでない。
現在、人類は一向に巨人性の圧倒的な力に屈している。
睡眠も運動
最近、どうも疲れが抜けずにたまらない。
でも、暑いから外にも出ていない。
スポーツなんて私的にする人間でもないので、筋肉痛ではない。
妙な好みだが、筋肉痛は建設的であるから痛みもうれしくなってくる。
今ボクがもっている疲れはどうもダルさに近いように感じる。
とりあえずは寝ようとしているのだが、夏休みは義務的に夜更かしをしたくなる。
ボクみたいな一見、健全な男子高校生はそういう地味に悪びれたいところがあってたちが悪い。
この疲れもその気疲れか。
睡眠についてはよく考える。
最近、夜更かししなくとも安眠ができない。
そして、成長するにつれてしっかり寝られなくなってきているようにも感じる。
いまも「安眠」と書いていて、安眠への渇望が湧いてきた。
どうしてこうも眠れないのだろうか。
よく電気をつけっぱなしで眠ることはよくある。
これは確かに体に悪そうだ。
落ち着かない。
よくノートパソコンをロック状態にしているときの明かりの点滅やDVDプレイヤーの時刻表示の明かりは不快になる。
これは気をつけておくべきだな。
無駄な電力の消費も避けられる。
でも、もっと気をつけるべきは寝る前に何をするかだ。
今日、読んだ英語の参考書には睡眠について書かれており、寝る前に体が刺激の強い行動によって興奮状態にあると寝つきが悪くなるとか。
確かにボクはネットで夜中、何時間でも遊んでいるし、テレビを観ている。
目が休まるはずがない。
また、夜中の時間帯は成長期に欠かせないホルモンの働く時間帯であり、それはいわゆる夜更かしの時間帯と重なる。
やはり、体と時間の連携した働きというのは覚えておくべきだろう。
体は太陽を基にした時間によって働いている。
体は自然環境に合わせて作られている。
こういった体のシステムの方が人間の無茶な行動よりずっと理に適っている。
体のつくりはエコロジーや老荘思想のシステムだ。
睡眠もそのうちの重要な働きで、無駄に動かないわけではない。
睡眠という運動なのだ。
この間にも体は、特に脳は夜型の働きをしている。
体のためにも早めに寝ておくことが健全なのだろう。
むしろ、4時くらいから起きていた方が楽かもしれない。
涼しいし、静かだし、一日が長く感じられる。
グローバルスタンダードが唱えられ、情報化社会が根付いても21世紀は早寝早起きへ帰着するのだろう。
太陽とともにある限りはそうだ。
そうあってほしい。
でも、暑いから外にも出ていない。
スポーツなんて私的にする人間でもないので、筋肉痛ではない。
妙な好みだが、筋肉痛は建設的であるから痛みもうれしくなってくる。
今ボクがもっている疲れはどうもダルさに近いように感じる。
とりあえずは寝ようとしているのだが、夏休みは義務的に夜更かしをしたくなる。
ボクみたいな一見、健全な男子高校生はそういう地味に悪びれたいところがあってたちが悪い。
この疲れもその気疲れか。
睡眠についてはよく考える。
最近、夜更かししなくとも安眠ができない。
そして、成長するにつれてしっかり寝られなくなってきているようにも感じる。
いまも「安眠」と書いていて、安眠への渇望が湧いてきた。
どうしてこうも眠れないのだろうか。
よく電気をつけっぱなしで眠ることはよくある。
これは確かに体に悪そうだ。
落ち着かない。
よくノートパソコンをロック状態にしているときの明かりの点滅やDVDプレイヤーの時刻表示の明かりは不快になる。
これは気をつけておくべきだな。
無駄な電力の消費も避けられる。
でも、もっと気をつけるべきは寝る前に何をするかだ。
今日、読んだ英語の参考書には睡眠について書かれており、寝る前に体が刺激の強い行動によって興奮状態にあると寝つきが悪くなるとか。
確かにボクはネットで夜中、何時間でも遊んでいるし、テレビを観ている。
目が休まるはずがない。
また、夜中の時間帯は成長期に欠かせないホルモンの働く時間帯であり、それはいわゆる夜更かしの時間帯と重なる。
やはり、体と時間の連携した働きというのは覚えておくべきだろう。
体は太陽を基にした時間によって働いている。
体は自然環境に合わせて作られている。
こういった体のシステムの方が人間の無茶な行動よりずっと理に適っている。
体のつくりはエコロジーや老荘思想のシステムだ。
睡眠もそのうちの重要な働きで、無駄に動かないわけではない。
睡眠という運動なのだ。
この間にも体は、特に脳は夜型の働きをしている。
体のためにも早めに寝ておくことが健全なのだろう。
むしろ、4時くらいから起きていた方が楽かもしれない。
涼しいし、静かだし、一日が長く感じられる。
グローバルスタンダードが唱えられ、情報化社会が根付いても21世紀は早寝早起きへ帰着するのだろう。
太陽とともにある限りはそうだ。
そうあってほしい。
日本人とニッポン論
日本とは何か?
いまの日本論とは何なのか?
日本人は自国をアメリカと同じ視点でしか見られていない、と思う。
その視点とはたとえば、「サムライ」だとか「スシ」だとか。
自国の文化にも関わらず、そんな売り文句のニッポンしか知っていないのだ。
それはなぜか?
きっと、日本社会全体が画一化されていったためであろう。
よくある商店街、よくある街並み、コンビニのような全国チェーンは社会そのもののことだ。
そして、日本は自分の姿を見失っていった。
サムライだとか、スシだとかはあくまで外国人向けの置物ぐらいのはずだ。
たしかにあれも日本だと認めるべき概念だ。
ただ、それは日本人が認めるべき日本ではない、とはっきり言いたい。
それは日本を一つの視点でしか見ることができない日本の姿だ。
日本はもっと多文化で多くの視点を持ち、奥ゆかしくい面倒な構造をしているはずだ。
例の一つに「地方」を挙げることができる。
「地方」とは何だ?
「地方」、「田舎」、「故郷」、「ふるさと」、それらは日本という全体の観念の縮小版だ。
日本には地方しか存在していないのだ。
「地方国日本」
田舎ばかりが日本の真の姿だ。
原因は東京のような狭い街を首都以上の存在にしてしまったからだろう。
(まだ、考えあぐねている途中だが、東京論こそ日本論のカギのはずだ。)
そしてまた、日本はあまりに山が多すぎるからだろう。
つまり、比較的に極端な自然が身近にありすぎるのだ。
どんな大都会からでも山々が見えるはずだ。
日本の場合、山地がほとんどの面積を占めているから当然なのだが、それでも街と山々の関連性も日本論のカギのはずだ。
いまの日本論とは何なのか?
日本人は自国をアメリカと同じ視点でしか見られていない、と思う。
その視点とはたとえば、「サムライ」だとか「スシ」だとか。
自国の文化にも関わらず、そんな売り文句のニッポンしか知っていないのだ。
それはなぜか?
きっと、日本社会全体が画一化されていったためであろう。
よくある商店街、よくある街並み、コンビニのような全国チェーンは社会そのもののことだ。
そして、日本は自分の姿を見失っていった。
サムライだとか、スシだとかはあくまで外国人向けの置物ぐらいのはずだ。
たしかにあれも日本だと認めるべき概念だ。
ただ、それは日本人が認めるべき日本ではない、とはっきり言いたい。
それは日本を一つの視点でしか見ることができない日本の姿だ。
日本はもっと多文化で多くの視点を持ち、奥ゆかしくい面倒な構造をしているはずだ。
例の一つに「地方」を挙げることができる。
「地方」とは何だ?
「地方」、「田舎」、「故郷」、「ふるさと」、それらは日本という全体の観念の縮小版だ。
日本には地方しか存在していないのだ。
「地方国日本」
田舎ばかりが日本の真の姿だ。
原因は東京のような狭い街を首都以上の存在にしてしまったからだろう。
(まだ、考えあぐねている途中だが、東京論こそ日本論のカギのはずだ。)
そしてまた、日本はあまりに山が多すぎるからだろう。
つまり、比較的に極端な自然が身近にありすぎるのだ。
どんな大都会からでも山々が見えるはずだ。
日本の場合、山地がほとんどの面積を占めているから当然なのだが、それでも街と山々の関連性も日本論のカギのはずだ。
2009年8月24日月曜日
世の中、表現だらけなのだ。
たとえば、ボクが警察官になったとしても人生は表現することだという考えは失いたくない。
表現とは芸術家や作家、映画監督など文化に携わる人だけの作業ではない。
全人類の目的は「表現」であるとボクは思う。
つまり、人間である限り表現者を目指さなければならない、というところまで言い切れる。
表現すること、たとえば、冗談を言うこと、握手すること、デートすること、その後の事である。
つまり、表現することとは、他人と大いに親しく付き合うことだ。
まあ、その意味では、妊娠はその究極だ。
自分以外の同種を体に宿すことは愛の表現を究めてはいないだろうか。
母性が尊ばれるのはその滅私の表現が要因であろう。
言葉ではとどめられない愛情表現、生かしてくれる、それを感じることが母への愛情につながる。
ちょっと表現の色眼鏡をかけてみればよい。
いろんなところに表現が隠れ、表現者が潜んでいる。
人間の歴史は表現の歴史でもある。
これからはそう考えてみたい。
その色眼鏡をかけて、その表現の矢印を見つける。
どの方向に表現が向いているのか。
どれだけの表現の矢印が伸びているのか。
その状況と表現の整合性はあるのか。
きっと伝えるということに、大げさに言うと人間の生きる目的に近づけるかもしれない。
そしてまた、「表現」、それがビジネスや文化、学問の新天地かもしれない。
表現とは芸術家や作家、映画監督など文化に携わる人だけの作業ではない。
全人類の目的は「表現」であるとボクは思う。
つまり、人間である限り表現者を目指さなければならない、というところまで言い切れる。
表現すること、たとえば、冗談を言うこと、握手すること、デートすること、その後の事である。
つまり、表現することとは、他人と大いに親しく付き合うことだ。
まあ、その意味では、妊娠はその究極だ。
自分以外の同種を体に宿すことは愛の表現を究めてはいないだろうか。
母性が尊ばれるのはその滅私の表現が要因であろう。
言葉ではとどめられない愛情表現、生かしてくれる、それを感じることが母への愛情につながる。
ちょっと表現の色眼鏡をかけてみればよい。
いろんなところに表現が隠れ、表現者が潜んでいる。
人間の歴史は表現の歴史でもある。
これからはそう考えてみたい。
その色眼鏡をかけて、その表現の矢印を見つける。
どの方向に表現が向いているのか。
どれだけの表現の矢印が伸びているのか。
その状況と表現の整合性はあるのか。
きっと伝えるということに、大げさに言うと人間の生きる目的に近づけるかもしれない。
そしてまた、「表現」、それがビジネスや文化、学問の新天地かもしれない。
真贋の差―刀を観る―
昨日、地元の美術館で刀の展示をしていたので観に行ってきた。
たしかにきれいなものが幾つかあった。
きれいなもの、それはボクに言わせれば「切れそうな」ものだ。
特にそれは太刀に多かったと思う。
思ったより細身で短く、そして切れそうで使いやすそうであった。
ボクは剣術に興味があるから、刀の形状を観て、どんなふうに使うかを考えていた。
しかし、いわゆる名刀というものをボクはよく理解できないので「ただ見た」ぐらいのものだ。
ただ、家に帰ると部屋の脇にある関の孫六写しの模擬刀を抜いてみて、すぐわかった。
ああ、たしかにあれは名刀だったのだ、と。
どうにも残念だった。
美術館へ出発する前にも、その三本杉の波紋を眺めていたはずだ。
これが本物と一万何千円の偽物との明らかな差というものか、今もどうしようもない気分のままである。
本物と偽物をあそこまで徹底して教え込まれたことはなかった。
正直なところを言えば、重要文化財であるあの名刀を盗み出したい。
そして、それを振り回して、適当になにかを切ってみて笑いたい。
馬鹿みたいに恐ろしい額の、第一級の美術品の刀を使ってみたくてしようがない。
たしかに貴重な体験であった。
ボクは剣術家だ。
だから、刀は使ってこそ価値のあるものという観念に囚われている。
そして、使うならば最高の仕上げを持つ刀でありたいという欲も至って当然のごとく持ち合わせている。
だから、本物を見るとどうしてそれを思ってしまう。
そうして、ボクは刀の世界にどんどん深くはまっていくのだろう。
たしかにきれいなものが幾つかあった。
きれいなもの、それはボクに言わせれば「切れそうな」ものだ。
特にそれは太刀に多かったと思う。
思ったより細身で短く、そして切れそうで使いやすそうであった。
ボクは剣術に興味があるから、刀の形状を観て、どんなふうに使うかを考えていた。
しかし、いわゆる名刀というものをボクはよく理解できないので「ただ見た」ぐらいのものだ。
ただ、家に帰ると部屋の脇にある関の孫六写しの模擬刀を抜いてみて、すぐわかった。
ああ、たしかにあれは名刀だったのだ、と。
どうにも残念だった。
美術館へ出発する前にも、その三本杉の波紋を眺めていたはずだ。
これが本物と一万何千円の偽物との明らかな差というものか、今もどうしようもない気分のままである。
本物と偽物をあそこまで徹底して教え込まれたことはなかった。
正直なところを言えば、重要文化財であるあの名刀を盗み出したい。
そして、それを振り回して、適当になにかを切ってみて笑いたい。
馬鹿みたいに恐ろしい額の、第一級の美術品の刀を使ってみたくてしようがない。
たしかに貴重な体験であった。
ボクは剣術家だ。
だから、刀は使ってこそ価値のあるものという観念に囚われている。
そして、使うならば最高の仕上げを持つ刀でありたいという欲も至って当然のごとく持ち合わせている。
だから、本物を見るとどうしてそれを思ってしまう。
そうして、ボクは刀の世界にどんどん深くはまっていくのだろう。
2009年8月21日金曜日
マツリ分析の巻~現代文化における祭り~
祭りをイメージする。
鉄パイプと鉄製の足場で造られたやぐら、電気で付く提灯、工事用のライト、カセットテープから流れる音頭、町内会の分担で決めた屋台、紙コップでビール、トレーで焼き鳥、これが現代お祭り文化だ。
これをボクは「製品型祭り」と呼ぶ。
これは祭りの亜流、もっと悪く言えば、邪道である。
祭りは神事である。
葵祭りや神田祭のように有数の祭りが日本の伝統文化として保存の意味でいまも盛大に行われている。
しかし、地方の祭りとそれらとは全く異なった文化だ。
それは製品型祭りとは現代人の知る本当のお祭りであり、葵祭りや神田祭はむしろニッポンの再発見だ。
製品型祭りに直接的な神事は絡んでいない。
ただ、祭りが神社で行われていたり、音頭があったり、太鼓が響いていたりするだけだ。
それらに誰も振り向かない。
ただの風物詩程度の心持で見る。
いまやこれが祭りの王道だ。
いや昔だってそうだったはずだ。
文明化すると少しずつ娯楽の需要が高まってくる。
それはつまり、人間の欲が広がってくることだ。
ちょっとの楽しみを神事に加えてみた。
そして現代の製品型祭りにいたる。
しかし、それでも祭りは祭り。
大昔からの雰囲気は確かに残っており、現代人はそれも祭りのイメージとしている。
どれだけグローバル化してもモバイル化しても、環境問題が叫ばれても祭りは相変わらず続いており、あの特有の高揚感と怪しさを引きずっている。
「マツリ」は世界中にある。
ただ、日本ほど現代型になり、視点を変えれば「見立て」を生かしている祭りも珍しいだろう。
そこがニッポンの根本的な悪因であり、まだまだ小さいけれどもひとつの文化のはずだ。
鉄パイプと鉄製の足場で造られたやぐら、電気で付く提灯、工事用のライト、カセットテープから流れる音頭、町内会の分担で決めた屋台、紙コップでビール、トレーで焼き鳥、これが現代お祭り文化だ。
これをボクは「製品型祭り」と呼ぶ。
これは祭りの亜流、もっと悪く言えば、邪道である。
祭りは神事である。
葵祭りや神田祭のように有数の祭りが日本の伝統文化として保存の意味でいまも盛大に行われている。
しかし、地方の祭りとそれらとは全く異なった文化だ。
それは製品型祭りとは現代人の知る本当のお祭りであり、葵祭りや神田祭はむしろニッポンの再発見だ。
製品型祭りに直接的な神事は絡んでいない。
ただ、祭りが神社で行われていたり、音頭があったり、太鼓が響いていたりするだけだ。
それらに誰も振り向かない。
ただの風物詩程度の心持で見る。
いまやこれが祭りの王道だ。
いや昔だってそうだったはずだ。
文明化すると少しずつ娯楽の需要が高まってくる。
それはつまり、人間の欲が広がってくることだ。
ちょっとの楽しみを神事に加えてみた。
そして現代の製品型祭りにいたる。
しかし、それでも祭りは祭り。
大昔からの雰囲気は確かに残っており、現代人はそれも祭りのイメージとしている。
どれだけグローバル化してもモバイル化しても、環境問題が叫ばれても祭りは相変わらず続いており、あの特有の高揚感と怪しさを引きずっている。
「マツリ」は世界中にある。
ただ、日本ほど現代型になり、視点を変えれば「見立て」を生かしている祭りも珍しいだろう。
そこがニッポンの根本的な悪因であり、まだまだ小さいけれどもひとつの文化のはずだ。
2009年8月20日木曜日
終戦のせい?おかげ?
終戦記念日8月15日も過ぎ、今年で終戦64周年だとか。
確かに、太平洋戦争の被害と規模と残したものは大きかったはずだ。
あの戦争とその終戦が20世紀最大の出来事だったようにも思える。
ボクは20世紀終盤に生まれたから実際に記憶に残っていくのは21世紀からであろう。
ある意味、人生は0歳から10代から10代から死ぬまでのように思える。
ほとんど21世紀の人間だ。
それはいつか書いたように子どもと大人の区分のせいかもしれない。
そんな大人時代を21世紀から始めたボク、及びそんな10代、そしてほとんどの社会人は戦争を現実から外している。
そこは現代日本の特徴だ。
そしてそれはつまり、日本は終戦から新生したかのようにイメージされていることである。
なぜ、太平洋戦争終戦は記念されているのか?
それは終戦を記念することは新生を記念していることになるからだ。
原因はGHQの思惑だ。
終戦を記念することは、毎年毎年、戦争を反省させることだけでなく、それに加えて戦前の日本を否定させることになっている。
だから、日本はもっと戦前を再発見しなければならない。
江戸と明治が明らかに異なるように、戦前と戦後も明らかに異なっている。
ただただ首相が戦争についての反省を言明するだけ、靖国神社参拝を行うかどうかだけではなく、終戦記念日を戦前と戦後の境界と意識して戦前日本の再発見したほうがいい。
そうでなければ、相変わらずGHQにはめられて無駄に自虐的になる日本が存在してしまう。
終戦記念日を今までの自虐的路線からうまく逸らして、そして日本文化の再出発点にしようとするぐらい終戦記念日の日本は建設的でちょっと狡猾になるべきだ。
確かに、太平洋戦争の被害と規模と残したものは大きかったはずだ。
あの戦争とその終戦が20世紀最大の出来事だったようにも思える。
ボクは20世紀終盤に生まれたから実際に記憶に残っていくのは21世紀からであろう。
ある意味、人生は0歳から10代から10代から死ぬまでのように思える。
ほとんど21世紀の人間だ。
それはいつか書いたように子どもと大人の区分のせいかもしれない。
そんな大人時代を21世紀から始めたボク、及びそんな10代、そしてほとんどの社会人は戦争を現実から外している。
そこは現代日本の特徴だ。
そしてそれはつまり、日本は終戦から新生したかのようにイメージされていることである。
なぜ、太平洋戦争終戦は記念されているのか?
それは終戦を記念することは新生を記念していることになるからだ。
原因はGHQの思惑だ。
終戦を記念することは、毎年毎年、戦争を反省させることだけでなく、それに加えて戦前の日本を否定させることになっている。
だから、日本はもっと戦前を再発見しなければならない。
江戸と明治が明らかに異なるように、戦前と戦後も明らかに異なっている。
ただただ首相が戦争についての反省を言明するだけ、靖国神社参拝を行うかどうかだけではなく、終戦記念日を戦前と戦後の境界と意識して戦前日本の再発見したほうがいい。
そうでなければ、相変わらずGHQにはめられて無駄に自虐的になる日本が存在してしまう。
終戦記念日を今までの自虐的路線からうまく逸らして、そして日本文化の再出発点にしようとするぐらい終戦記念日の日本は建設的でちょっと狡猾になるべきだ。
2009年8月18日火曜日
土曜日と夏休み、感覚の緩急がある
夏休みはどうも8月から急ぎ足になるようだ。
1日から今日にいたるまで特に宿題をするでもなし、趣味に励むでもなし、ごろごろベッドの上で寝ていたら今日だ。
なぜかな?
いや、そういうものだとは知っている。
何度も経験している。
夏休みを無駄に過ごすからだと言われそうだが、ボクは決してそうとも思われないのだ。
7月は比較的ゆっくりとしていた。
前にも夏は7月のことだとここで明言していたが、その7月と8月との緩急の感覚はそれから発想したのだろう。
これは「土曜日の感覚」と名付けた。
土曜日はもっとも休日中の休日だ。
日曜日は月曜の予備日だ。
決して無理をしてはならない。
それは「土曜日の感覚」の裏打ちだ。
日曜日という月曜と土曜の間の壁があるから落ち着いて過ごせる。
馬鹿も無理もできる。
これはもちろん心理的な作用だろうが、それでも実在するに違いない。
ちょっとのことなのだが、98円販売と100円販売には明らかな差が出るようにこれも明白の事実なのだ。
この「土曜日の感覚」は人生上、ずっと付きまとってくる。
これが重要だ。
砂時計は半分を過ぎるとまるで速度を速めたかのように感じる。
しかし、これは心理的にそう感じるだけであり、実際は変化なく砂が落ちていく。
それでも、確かに感じる。
理論よりもずっと感覚の方が気持ちいい瞬間だ。
これにより心持もずっと違う。
感性の側に立ちあってこそ実践的な行動がとれるはずだ。
理論も確かに大事だ。
感性に人は色眼鏡をかけられることもある。
非常のときは理論が大いに役立ち、最悪の場合からの逆転を図れる。
ただ、それはそれだ。
平和な日本においてむしろ感性の方が大衆のウケがいいはずだ。
たとえば、大好きなiPodやiPhoneはそれで儲かっている。
一見これは見掛け倒しのようであるが、決してこれは悪徳商法ではない。
人間の真実とは感覚的なのだ。
それはむしろ王道なのだと思う。
だからこそ、ボクはApple社の製品に素晴らしさを感じる。
こういうことを職業人は応用しないと。
1日から今日にいたるまで特に宿題をするでもなし、趣味に励むでもなし、ごろごろベッドの上で寝ていたら今日だ。
なぜかな?
いや、そういうものだとは知っている。
何度も経験している。
夏休みを無駄に過ごすからだと言われそうだが、ボクは決してそうとも思われないのだ。
7月は比較的ゆっくりとしていた。
前にも夏は7月のことだとここで明言していたが、その7月と8月との緩急の感覚はそれから発想したのだろう。
これは「土曜日の感覚」と名付けた。
土曜日はもっとも休日中の休日だ。
日曜日は月曜の予備日だ。
決して無理をしてはならない。
それは「土曜日の感覚」の裏打ちだ。
日曜日という月曜と土曜の間の壁があるから落ち着いて過ごせる。
馬鹿も無理もできる。
これはもちろん心理的な作用だろうが、それでも実在するに違いない。
ちょっとのことなのだが、98円販売と100円販売には明らかな差が出るようにこれも明白の事実なのだ。
この「土曜日の感覚」は人生上、ずっと付きまとってくる。
これが重要だ。
砂時計は半分を過ぎるとまるで速度を速めたかのように感じる。
しかし、これは心理的にそう感じるだけであり、実際は変化なく砂が落ちていく。
それでも、確かに感じる。
理論よりもずっと感覚の方が気持ちいい瞬間だ。
これにより心持もずっと違う。
感性の側に立ちあってこそ実践的な行動がとれるはずだ。
理論も確かに大事だ。
感性に人は色眼鏡をかけられることもある。
非常のときは理論が大いに役立ち、最悪の場合からの逆転を図れる。
ただ、それはそれだ。
平和な日本においてむしろ感性の方が大衆のウケがいいはずだ。
たとえば、大好きなiPodやiPhoneはそれで儲かっている。
一見これは見掛け倒しのようであるが、決してこれは悪徳商法ではない。
人間の真実とは感覚的なのだ。
それはむしろ王道なのだと思う。
だからこそ、ボクはApple社の製品に素晴らしさを感じる。
こういうことを職業人は応用しないと。
「風の谷のナウシカ」は読むもの
「風の谷のナウシカ」を観た。
ナウシカは、いやジブリは1年に何度も見ているが、見るとやはり気持ちいい。
そう、ジブリアニメは「気持ちいい」のだ。
「おもしろい」とか「クオリティが」というより「気持ちいい」。
体が気持ちいいと感じるアニメ、それがジブリアニメだろう。
まるで豆腐を食べているよう。
ジブリは気持ちいい、だから何度も放送されるのだろう。
「風の谷のナウシカ」は漫画が原作である。
もちろん作家は宮崎駿だ。
1週間前ほどにコンビニにあったので立ち読みしていた。
アニメの原作はその1、2巻に当たる。
(もちろん修飾されている部分もあるが)
アニメはストーリーの始めを描いているから「環境問題についての警告」しか世間では捉えられておらず残念である。
もちろん、環境問題に焦点を当てていることは確かだ。
しかし、全ストーリーを解釈するともっとテーゼは深淵でかつ現実的だ。
環境問題というのは確かに深刻な問題なのだが、それは表面的な問題である。
世間ではエコが根付いてきたと同時に相変わらず「そのうちになんとかなる」と思われてもいる。
とくに日本では環境汚染の悪影響が比較的低いからそう環境問題を肌に感じているわけではない。
いわばブームなだけだ。
そして環境問題もそのうち去っていくであろう問題だ。
しかし、「風の谷のナウシカ」のテーゼはどんな時代にも適する。
それは「自己の選択」についてだ。
ナウシカはいたって行動的な女性だ。
危険も顧みないときも多々ある。
しかし、彼女は常に正しさを見出そうとしている。
そしてストーリーの中では全人類にかかわる選択を取る。
「選択」は「生き方」を示す。
環境問題は解決できる問題だからブームにも希望にもなる。
しかし、環境問題の奥には我々の「生き方の選択」が問われている。
環境問題とは有史以来、最大の難関かもしれない。
この問題が完全に解決したとき、我々の生活は恐ろしい変化を来しているはずだ。
ナウシカは、いやジブリは1年に何度も見ているが、見るとやはり気持ちいい。
そう、ジブリアニメは「気持ちいい」のだ。
「おもしろい」とか「クオリティが」というより「気持ちいい」。
体が気持ちいいと感じるアニメ、それがジブリアニメだろう。
まるで豆腐を食べているよう。
ジブリは気持ちいい、だから何度も放送されるのだろう。
「風の谷のナウシカ」は漫画が原作である。
もちろん作家は宮崎駿だ。
1週間前ほどにコンビニにあったので立ち読みしていた。
アニメの原作はその1、2巻に当たる。
(もちろん修飾されている部分もあるが)
アニメはストーリーの始めを描いているから「環境問題についての警告」しか世間では捉えられておらず残念である。
もちろん、環境問題に焦点を当てていることは確かだ。
しかし、全ストーリーを解釈するともっとテーゼは深淵でかつ現実的だ。
環境問題というのは確かに深刻な問題なのだが、それは表面的な問題である。
世間ではエコが根付いてきたと同時に相変わらず「そのうちになんとかなる」と思われてもいる。
とくに日本では環境汚染の悪影響が比較的低いからそう環境問題を肌に感じているわけではない。
いわばブームなだけだ。
そして環境問題もそのうち去っていくであろう問題だ。
しかし、「風の谷のナウシカ」のテーゼはどんな時代にも適する。
それは「自己の選択」についてだ。
ナウシカはいたって行動的な女性だ。
危険も顧みないときも多々ある。
しかし、彼女は常に正しさを見出そうとしている。
そしてストーリーの中では全人類にかかわる選択を取る。
「選択」は「生き方」を示す。
環境問題は解決できる問題だからブームにも希望にもなる。
しかし、環境問題の奥には我々の「生き方の選択」が問われている。
環境問題とは有史以来、最大の難関かもしれない。
この問題が完全に解決したとき、我々の生活は恐ろしい変化を来しているはずだ。
2009年8月10日月曜日
思考の仕方を回収中
大人に必要な睡眠時間は8時間といわれている。
まあ、これも世間一般じゃとても多いと思われているだろう。
子どもだって8時間は寝ないであろうに。
よくこういう言い回しがある。
「人生の3分の1は眠っている」
こういう思考をしたとき、いつも、はっとさせられる。
このような考え方があってもよいのか・・・と。
いつも横に考えていた睡眠の時間帯を縦に読み取ったのだから。
思考のパラダイムシフトだ。
ボクはよくこういうものを考えたいと考えている。
つまり、横に考えていたものを縦に考えるのだ。
または、逆に思考するとか。
千夜千冊で松岡正剛が「Q→A」ではなく「A→Q」という思考のトレーニングをしているとあった。
ボクはなによりそういう思考の方法を集めたい。
まあ、作らないのだからずるいが。
しかし、多種多様な思考法を身に付けておくことこそボクの目標だ。
そのためにも哲学や思想を中心に本を読んでいる。
その方法をもって世の中に出たい。
それを持っていれば誰も逆らえない。
死角なしの論が生まれるはずだからだ。
しかも、それは正論だ。
まさしく正論のほかにならないのだ。
それを発言することで世の中に大きく影響する。
そう、思考の方法を磨くとは全知に向かって歩むこととどう同一なのだ。
とても危険な行為である。
学問が孕む危険性だ。
学問をするとはそういうことなのだ。
学生が言うのもおかしいがもっと、学生にはそういう視点でも学問を見つめてもらいたい。
まあ、これも世間一般じゃとても多いと思われているだろう。
子どもだって8時間は寝ないであろうに。
よくこういう言い回しがある。
「人生の3分の1は眠っている」
こういう思考をしたとき、いつも、はっとさせられる。
このような考え方があってもよいのか・・・と。
いつも横に考えていた睡眠の時間帯を縦に読み取ったのだから。
思考のパラダイムシフトだ。
ボクはよくこういうものを考えたいと考えている。
つまり、横に考えていたものを縦に考えるのだ。
または、逆に思考するとか。
千夜千冊で松岡正剛が「Q→A」ではなく「A→Q」という思考のトレーニングをしているとあった。
ボクはなによりそういう思考の方法を集めたい。
まあ、作らないのだからずるいが。
しかし、多種多様な思考法を身に付けておくことこそボクの目標だ。
そのためにも哲学や思想を中心に本を読んでいる。
その方法をもって世の中に出たい。
それを持っていれば誰も逆らえない。
死角なしの論が生まれるはずだからだ。
しかも、それは正論だ。
まさしく正論のほかにならないのだ。
それを発言することで世の中に大きく影響する。
そう、思考の方法を磨くとは全知に向かって歩むこととどう同一なのだ。
とても危険な行為である。
学問が孕む危険性だ。
学問をするとはそういうことなのだ。
学生が言うのもおかしいがもっと、学生にはそういう視点でも学問を見つめてもらいたい。
2009年8月6日木曜日
甘いような甘くないような世の中で評価に追われる
ボクは武術が好きだから、武術家や武道家の本なんかも読んだりするんだけど、見事に書かれているとは思う。
きちんとした文章だ。
武の体現をうまい具合に言いまわしてもいる。
しかし、やっぱり文士が書く文章とはどこか違う。
どこか素人がある。
きっと文よりも武の方が得意だからであろうと思う。
まあ、本職でないのだから無理して文士になる必要もない。
書くのを生業にしている人の文章ばかりをボクは読んでいる。
大抵の人はそのはずだ。
初めて小説を書いた人の小説を読んでいる人なんてそういない。
いるとしたら同人ぐらいだ。
作家の中でも優劣や格の違いなんてものがあるだろうが、世に出版されている書籍の作家なんて素人、つまり一般人から見れば誰でも十分な手練れだ。
文章のプロだろう。
作家ならだれでも、ちょっとしたプリントの文章ぐらいすいすい書けるだろう。
しかし、それでも作家で生きる以上、作家内の優劣は必ず現れる。
それは書籍の出版部数だったり、批評家からの評価だったりが決めるのだろう。
評価は社会で生きていくうえでは必要であり面倒なものだ。
しかし、人間である限りこれからは逃れられない。
だが、ただ注意すべきは評価を狙った作品の評価は意外と低い。
世の中、甘くはない。
だが、甘い時もある。
好き勝手しても共感されるときもある。
でも、やっぱり裏切られる時もある。
なんだか不安だ。
いや、割り切ってしまうのも良くない。
少しぐらい個性が強いぐらいが評価としても人生的にもよろしいのかもしれない。
臆病な一般人の一般論だろう、これが。
きちんとした文章だ。
武の体現をうまい具合に言いまわしてもいる。
しかし、やっぱり文士が書く文章とはどこか違う。
どこか素人がある。
きっと文よりも武の方が得意だからであろうと思う。
まあ、本職でないのだから無理して文士になる必要もない。
書くのを生業にしている人の文章ばかりをボクは読んでいる。
大抵の人はそのはずだ。
初めて小説を書いた人の小説を読んでいる人なんてそういない。
いるとしたら同人ぐらいだ。
作家の中でも優劣や格の違いなんてものがあるだろうが、世に出版されている書籍の作家なんて素人、つまり一般人から見れば誰でも十分な手練れだ。
文章のプロだろう。
作家ならだれでも、ちょっとしたプリントの文章ぐらいすいすい書けるだろう。
しかし、それでも作家で生きる以上、作家内の優劣は必ず現れる。
それは書籍の出版部数だったり、批評家からの評価だったりが決めるのだろう。
評価は社会で生きていくうえでは必要であり面倒なものだ。
しかし、人間である限りこれからは逃れられない。
だが、ただ注意すべきは評価を狙った作品の評価は意外と低い。
世の中、甘くはない。
だが、甘い時もある。
好き勝手しても共感されるときもある。
でも、やっぱり裏切られる時もある。
なんだか不安だ。
いや、割り切ってしまうのも良くない。
少しぐらい個性が強いぐらいが評価としても人生的にもよろしいのかもしれない。
臆病な一般人の一般論だろう、これが。
2009年8月5日水曜日
2009年8月2日日曜日
奈良、それは新しい視点
「阿」かな。26日~31日まで奈良での全国高校総体に行ってきた。
さほどの暑さもなく無事に試合を楽しんできた。
奈良へは中学校での修学旅行以来である。
インターハイでの活躍はもちろん、今年は春から“仏像ブーム”だったから仏像の一体も見学しておきたかったのだが結局、橿原神宮への参詣と東大寺の南大門と鹿を楽しむだけにとどまった。
しかし、奈良は多くの文士が憧れた地である。
なかには奈良に移住した人もいるという。
奈良、その趣はまだ捉えられない。
しかし、よく考えればニッポンの中心について考えてみると、「日本の歴史は京都よりも江戸よりも奈良」そこに行きつく。
天平文化、わからない。
興福寺の統治、わからない。
奈良の仏像、わからない。
せんとくん、わからない。
奈良は懐が深すぎる。
持ちすぎている。
抱えすぎている。
奈良を探ればもっと日本が見えてくるはずだ。
奈良は旧国名を「大和」といった。
「ヤマト」、「大和」、「倭」
日本は奈良から始まった。
今回の旅行では京都と肩を並べるほどの「日本の資料館」の奈良を発見してきた。
平城遷都1300年を控えた奈良県はいま「ナラ」の文化を再提示しようとしている。
京都とはまた違う“古都”奈良の雰囲気。
奈良は分からなかったが奈良を見つけられたその感覚が残っている。
さほどの暑さもなく無事に試合を楽しんできた。
奈良へは中学校での修学旅行以来である。
インターハイでの活躍はもちろん、今年は春から“仏像ブーム”だったから仏像の一体も見学しておきたかったのだが結局、橿原神宮への参詣と東大寺の南大門と鹿を楽しむだけにとどまった。
しかし、奈良は多くの文士が憧れた地である。
なかには奈良に移住した人もいるという。
奈良、その趣はまだ捉えられない。
しかし、よく考えればニッポンの中心について考えてみると、「日本の歴史は京都よりも江戸よりも奈良」そこに行きつく。
天平文化、わからない。
興福寺の統治、わからない。
奈良の仏像、わからない。
せんとくん、わからない。
奈良は懐が深すぎる。
持ちすぎている。
抱えすぎている。
奈良を探ればもっと日本が見えてくるはずだ。
奈良は旧国名を「大和」といった。
「ヤマト」、「大和」、「倭」
日本は奈良から始まった。
今回の旅行では京都と肩を並べるほどの「日本の資料館」の奈良を発見してきた。
平城遷都1300年を控えた奈良県はいま「ナラ」の文化を再提示しようとしている。
京都とはまた違う“古都”奈良の雰囲気。
奈良は分からなかったが奈良を見つけられたその感覚が残っている。
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