2009年1月31日土曜日

中庸

古今東西、賢者の考える理想的な生活スタイル、それが中庸である。
アリストテレスも仏陀も孔子もこの中庸、すなわち行き過ぎずの人生を確立したものとしていた。
それは仏教で言うとひとつの悟りであった。
強過ぎず、弱過ぎず。
硬過ぎず、柔らかすぎず。
その価値は確かにいまも納得させられる
「適当」、「いい加減」という言葉は言うと軽率な印象を持たれがちだが、こう書いて見てみるとなんと人生の真理のようではないか。
人生の真理だからこそ、叶えがたいからこそ、軽々しく発言すると軽率な印象となるのだろうか。しかし、古い哲学者の悟りは言ってみれば「自分以外の人類」への福音であろう。
哲学者というのは論理、思考を道具とする連中だ。
論理は論理的に最後のx=まで妥協せず計算していくものだ。
つまり、行き過ぎが生業だ。
そんな彼らがなぜ中庸などという概念をつくりえたのか。
それは自身の境遇の虚しさを知っていたからだ。
自分たち、哲学者はいわば「知の愛」によって支えられている、でなければ実に無駄な行いを為す人種だということを悟ったのではないか。
そもそも学問は考えたところで「無くてもいい」のなかでしか動けない。
行き過ぎてしまう性癖の持ち主である自分たちを愚者とみなし、道楽者とみなしてから本当に幸せな生き方とはなにか。
それが中庸の徳に尽きるのだ。
悩まず、しかし、悩み、適当に生きる。
それが本当であり、健全な人間の姿なのだろう。
ボクも行き過ぎの一員としてそう思う。

以上!

2009年1月26日月曜日

メディア

メディアとは現代の日本社会(先進国社会)を構成しているものだ。
メディアの動きに合わせて世界が動くようになった。
情報によって人間の行動が決まるようになったのだ。
現在、問題になっている金融恐慌の主流はアメリカから発生している。
それをいち早く情報として知ったのは全国民全員が同時のはずだ。
無論、専門家が分析し先読みしていたではあろうが実際に起こったときの情報は全員が同時にメディアを通して知ることとなる。
放送や出版の時間差というものがあるから論理としては正確ではない。
綾としては同時だろう。

メディアを通して世界が作られる時代になったのだ。
メディアの完備が情報を全国へ伝え、ひとりの人間が持つ情報の量が多くなっている。
しかし、そうであればこそ情報操作が容易になることは目に見えている。
すなわち、メディアの責任やメディアの概念の定義が要求されることとなる。

特にボクがそう感じるのはテレビだ。
最近はテレビ番組も画一化していき閉塞的に感じる。
テレビ番組が「何でもあり」だった時代の人間ではないが少なくともかつての若い時代のテレビというものを知っている。
もちろん、今もまだ、情報やメディアに関する法整備はまだ整理されず覚束ない。
しかし、それでも昔よりはモラルにのっとて、つまらなくなってきている。
そこに情報伝達のためのテレビとしては向上しており、バラエティーとしてのテレビはつまらなくなってきているのだろう。
情報伝達は効率的に、合理的に伝達しなくてはならないのでこれは良い傾向なのだろう。
しかし、バラエティーの合理性とは情報の伝達性とは一般的に異なるものだろう。
それは文学と数学の論理性の違いにも感じる。

以上!

2009年1月18日日曜日

生活

人生に大いに悩んでいる。
ちょっと考え込むだけで頭が重くなり憂鬱になり何も考えられなくなる。
しかし、整理しなければならないだろう。
いまこそ、闘わなくては何もできない人生になるような気がする。
闘いこそ人生だ。
平穏な生き方など地獄ですべきことではないか。
平穏は苦しいだけだ。
変化こそが人生だ。

をモットーに変化を恐れず楽しもう。

気軽に。
それが良い生き方だ。
楽しみのない人生は無意味だ。
すくなくとも意味を見出したいのは人の常だ。

そこで出てくるのは変化によるストレスだ。
それが人間をだめにする毒であり薬である。
ストレスを解消するにはストレスでしかなし得ない。
具体的に言うと、勉強のストレスをスポーツのストレスで解消するということだ。
この世は苦しかない。
そう感じてしまう理屈だ。
そののなかで遊ぶ
変化することを遊ぶ。
体を筋肉質にして、しかし飽きたら太り、それにも飽きたらまた鍛える。
暴力的であり繊細であり奇怪でありたい。
もし、それが破滅となることも悪くはないが、ただ禅のこころを信じたい
信じる、それに理由があろうとなかろうと信じることが強さのもとだ。
「手放せば手に入る」
そして「己を知り、相手を知る」ことだ。
そんな人生でありたい。

以上!

2009年1月11日日曜日

「家」
家というのは住むとこだ。
それ以外に定義はない。
だから、あばら家だろうと宮殿だろうと、ダンボールだろうと家だ。
これは肉体の話。

精神論からいえば、(詩的ではあるかもしれないが)たとえば本であったり絵画であったりする。
これはつまり本そのもの、絵画そのものではなく読書や描画といった動名詞に重きを置いている
行動に生きることは観念に生きていることだ。

前者は一般的な家の概念にあたる。
大なり小なり自身の行動拠点となる建物だ。
ボクは建物としての家は好きではない。
安泰や平和の象徴とも取れる家などは不要でありたい。
家は家族とつながる場所であることは古今東西変わりないであろう。
ボクは友達もいなければ、恋人もいない。
ただ、伝統深い家族がいるだけだ。
帰る場所は執着の源となる。
家族は心地よいし、安らぐがそれがいつか心を乱す原因になる。
孤独を好むボクだからこそ。
家族は重荷でもある。
いつかはこの家も否定しなければならない。
そして自らの居場所であるこの体も。

ボクは旅人でありたい。
いつでも自分を捨てられる旅人、恐れなどはない。
唯一執着できるものさえあればよいのだ、そのためには。
それは定義の後者にあたる。
石田衣良は素晴らしい建物としての家に住んでいるが、自身は紙とペンがあれば世界の果てでも作家をできるということをPLAYBOYの書斎特集で述べていた。

本好きのボクにとっては書斎こそ家と同義なのだ。
本を置いておける場所、しかし読書の理由は本を集めるためではない。
知るためだ。
知り、考え、動き、心を満たす。
それ自体が目的であり、書斎はそのために必要だ。
だとすれば、これは矛盾。
つまり、石田衣良と同様、ボクも建物としての家はいらない。
この身一つで飛び出したい。
ただ一本道を行きたい。

一見、これは苦行のようだが、一種の逃でもあるのだ。
家族や友人を持ちたがらないのは強そうでありながら、彼らを失うことを恐れるあまりにそうできないでいるだけなのだ。
その悲しみを受け入れられないだけで閉じこもっているだけでもあるのだ。

だが、家族を持つことも逃げとも考えられる。
ただ、甘えているだけと。
どちらも逃げなのであり、苦しみなのだ。
やはり、生きることは苦行なのだ。

だとすれば、己の道は己の欲と天命に従い旅に生きたい。

以上!

2009年1月8日木曜日

国民

「国民」
国民とは国家における最大の人数の固有単位である。
ゆえに国民を考えると一個人の犠牲は不可欠となる。
それは常々、政治のなかで繰り返されている。
しかし、そのとき恐れるべき事態は一億総玉砕の再来ではなかろうか。

一億総玉砕とは全体を重んじるが為に個人を蔑にすることを肯定する思想だ。
全体主義の昇華、もしくは末期症状ともいえる。
そこまでいくと全体主義の意義そのものが破滅する。
全体一億を守るために個人一億を犠牲にするという矛盾を来してしまう。
それが戦中のスローガンであったのではないか。
戦中といっても一億総玉砕が唱えられていた時代だが、その時代の全体主義が守ろうとしたものは国民の命という全体ではない。
一億総玉砕の矛盾点はその当時からも突かれていただろう。
そのときにつくられたのは「天皇の神聖性」ではないだろうか。
民族宗教の頂点である(無論、国家神道における頂点である)天皇をより神聖化し神として奉ることで大和民族の民族性というものを再認識させようとしたのではないか。
大和民族という民族のこころ、民族性を全体と置き換え守ろうとしたのではないか。
その象徴たるものが天皇であったのだろう。
戦争には精神がつきものだ。
それはクラウゼヴィッツが「戦争論」のなかで説いているとおりである。
肉体よりも精神のほうが戦争では大事になる。

要は捉え方にあるのだ、それは認識の段階ともいえる。
一個人の集まりであると具体的に見るか、ただ全体と抽象的に捉えるでは「国民」を考えるときに大きく軌道をずれた意見に分かれるのではないだろうか。

以上!

2009年1月5日月曜日

自分創造

新年明けましておめでとうございます

新年からは風信雲書にあらたな風を入れたく新しい取り組みを行います。
小さいことながらも継続を第一にしたく、また「思索」をメインとしたサイト作りに徹するつもりです。
では・・・。

「自論」
自論を持てば自分ができる。
自分を作ればあらゆる時に戦える。
文に生きようとするものは特に。
ボクという名の眼鏡をかけてこれからを生きる。
それが幾度も変化しても、いや変化していくべきだろう。

自論を持つ方法、それは命題を通して、ものを考える、見ることだ。

それが思索の出発点だ。
命題をこのブログの主柱として改めて風信雲書と成す。