2009年4月26日日曜日

数分の思い出

昨日のことだ。
ぼくは駅のなかでまんじゅうを買った。
ちょうど、最後の二個であった。
ボクがレジに持っていくとすぐに60代後半に見える男性が「まんじゅうはないか。」と店員に問いかけた。
一瞬のことだったが、彼はまるで小林秀雄のように見えた。
外見がそうだったからか声まで小林秀雄だ。
原因はそのとき小林秀雄のことを考えていたからだろうが。
それで、地元で有名なまんじゅうだったからこれを探しに来られた、そんな空想さえ浮かんだものだ。
無論、ボクが最後の二個を買ったのだからあるはずがない。
店員が売り切れたと言うと、彼はあっさり帰ってしまったがボクは彼の希望を断ってしまった身の上だ、もちろん快いわけがない。
店員もそれを察してかわざとらしく軽い笑顔で繕っている。
一つぐらいなら譲るべきだったか、彼がもう少しまんじゅうに執着していたら少しの時間でいろいろ考えられただろうが、そのときのボクは疲れていたし、正しい選択を瞬時に取れる性でもないからもやもやした心のままでいることとなった。
正直、ボクは彼に対し、早い者勝ちの理論をぶつけていたのだ。
たしかに正しい選択を瞬時に取れない人間ではある。
いや、それでも答えはまず出てくる。
それの確認がボクの癖なのだ。
その答えが早い者勝ち、勝負の理論ではボクの最も信奉する理論であり、それを身につけていたいとも思っている。
しかし、ボクは仁義も大事とみている。
仁義なくして人と人との信頼は有り得ない。
仁義すなわち思いやりと正義の分量の割合、比率を求めることが善であると思っている。
いま、それを彼に適応させられなかったことに後悔している。

2009年4月15日水曜日

編集とはこういうことだ~太田光とゴルゴ13~

桜も花が散り葉桜になった。
だんだんと季節が変わりそれに応じて体感も変わってくる。
カゼをひきそうだ。


数年前、爆笑問題の太田光が「バク天!」でゴルゴ13の4コママンガをつくってネタにしていた。
ボクは太田光好きでもありゴルゴ13好きでもあるので今でもそれを覚えている。
ゴルゴ13というギャグ要素0の作品をお笑いと化けさせるところが太田光らしいと言える。
あのギャグセンスはネタの要素がない素材をお笑いにしてしまうところが彼のセンスだと思う。

ボクはあのネタそのものが「編集」の成功作だ。
真面目なコマをどのように繋ぎ合せれば笑いが取れるかが問題だが、そこを切り抜けるには編集工学か、それまで磨いてきたセンスと呼ばれる予習だろう。
素材は今の時代たくさん転がっている。
いやきっといつの時代にでも素材はあるはずだ。
むしろ、過去のほうが優れているケースを否定はできない。
その素材はたとえば広告や宣伝、流行している歌や芸能人などなどすべての事物を指す。
要はそれをどう組み合わせてカスタムしていくかだ。
カスタムしていくと素材とは全く異なる品物にもしくは二次素材になる。
それは用法や目的に合わせていくとより明確な結果として現れる。

素材を生み出す時代から組み合わせていく時代へ

ただし、これは時代の変化ではなく一つの時代のなか必ずで起きる循環の作用にすぎないことも忘れてはいけない。

2009年4月12日日曜日

琳派志向型

駅の中にある商店街、5つほどの店舗が入ることができるが4つが空き店舗状態。
商店街唯一の店、クレープ屋は昔からあり見た目70歳以上の無口の老婆が一人で経営している。
味も出来栄えも値段も納得のほど。
あの安っぽい店の外装もその味に釣られてかなぜか魅かれる。
何年もあり続けるような気がする店だ。
そうだといい。


「琳派」美術は必ず現代人に受け入れられるはずだ。
そして、それはよく「デザイン」だからだ、と言われるがそれで終わっては面白くない。
あの大胆な量の金箔や作品の題材はあまりに天衣無縫。
確かにデザイ性が優れていることは言うまでもない。
「雷神風神図屏風」はよくパッケージに使用されるし、「燕子花図屏風」は五千円札に印刷されている。
そんなよく見るデザインが「琳派」の一般的位置づけであることは間違いではない。
では、その位置づけが「琳派」は成金的思想の持ち主たちであったということは意味しない。
むしろ、彼らにとってはまさに「遊び」だったのだ。
生まれつき富裕層で暮らしてきた彼らにとって趣味に多額の金をかけることは数寄者としてなんら不思議なことではなかった。
むしろそれが嗜みというものだった。
より美を求めたらこうなりました、それだけの話なのである。
世界の大半の人間は金持でないからそれを否定したがる。
だが、彼らにとってはそちらの方が不思議なのだ。
価値観のずれか。
しかし、反富裕層のボクにも「琳派」たちが楽しそうに趣味に没頭する光景が目に浮かぶ。
きっと、自分の満足のいくものに金をかけて取り組む。
そこに「道」は作らない。
苦行ではなく、余裕の遊びとして笑顔の製作。
観るなら琳派がいい。

そう思う。

2009年4月7日火曜日

よりよい環境作りがよりよい捜索に繋がる

ずっと昼寝していたい、そんな陽気に伴って襲ってくる眠気をボクはあまり好かないのです。
もっと熱く生きたいな。
若いからかな。


Wordでしょっちゅう書き物をするから習慣としてまずしておくべきことを記しておきたい。
それは「フォント決め」だ。
文体や文字の大きさを決めてからクリエイトする方が読み返しやすく書き手としても楽しく書き進めることができる。

創作活動において作り手の独創性は必要不可欠だ。
それを守るためにも「周囲の環境」というのは重視すべき点であろう。
それがあってゾーンに入れるというものである。
つまり、やる気を出させる条件、それをボクは「環境」と呼ぶのである。
それはお気に入りのペンであり、専門書であり、活動場所のインテリアであり、それらをまとめた空間そのものでもある。
それには個人個人の個性が必ず働く。
それが独創性の発端なのだから。
しかし、そう考えると学校教育というのは何とも味気ないものである。
学校の制服や教室、どれも良くいえば統一感、悪く言えば息苦しさがあふれている。
特に公立はそれが目印のようなものだ。
もっと、触発的な学校があってもよいではないか。
いや、教室という単位でもよい。
クリエイトできる空間の1パターンを子供に見せてもよいであろうとボクは考えている。
もちろん、クリエイトの裏には個性があるからその空間になんら魅かれない子もいるだろう。
しかし、ボクはそれも教えるべきであると思う。

「誰かがすごく気に入る、しかしあなたはつまらない」

これが社会で暮らす最初の関門なのだということを経験させる必要がある。
「誰かがすごく気に入る、しかしあなたはつまらない、でもあなたのような人も確かにいる」
これが教育から見れば建設的な結果になるだろう。

2009年4月6日月曜日

Web活用批評 ~ただ面白いだけではなく~

暖かい日が続いている。
いまが「春」だ。
季節の典型的な日和なんてものは一年にそれぞれ2、3日といったところだ。
春らしい春、夏らしい夏そんな日は滅多にない。
春は生き物が臭う。


Webの活用もいまや日常的になってきている。
ボクもそうである人間だ。
小学校時代にネットに触れてからその視覚的簡便性や情報としての広さ、違法なほどの自由に楽しさを覚えた。
いまもその楽しさを味わうことには欠かさない。
ボクは小学校からパソコンをツールとして活用する授業は受けてきた、その一貫でインターネットの使用があった。
しかし、ボクはその頃のインターネットをただの用語辞典程度の役割として習った。
しかも、どこで調べればよいのかさえわからなく、その奥行きの可能性にたどり着けない自分のもどかしさを覚えている。
Webの進化は目を見張るものがある、それは確かだ。
しかし、それがうまく一般社会的に活用されていない。

いまだに未開の分野なのであるからか、ボクがいまだにWebに疎いからか、ボクは今でもWebの入口や正統的なコンテンツがわからない。
というか、学校の授業間においてそれを習わなかったためではないか。
これはあくまで言い逃れではなく現在のインターネットを活用した学校授業に対する警告だ。
いまだに開拓中の存在でありながら大きな役割を背負わされたネットは整理されていないにもかかわらず、そのリゾーム状の存在として世界で活躍している。
いや、ネットを「世界で」と表現するにはイマドキ少々ずれているように思われている。
そもそもいまやネットそのものが世界なのだ。
まず、この両目で玄関から外に出たところで世界全体を見渡すことなんて無理ではないか。
ネットが世界の媒体であり、一部であり、全てなのだ。

「Webには正統性がなく入り口たる入口が無く即効的活用が難しい。よってサブカルチャーの領域からでることができない。」
これがボクの主張だ。
これからは本当に簡単で子供がすぐに調べられるような百科事典の役割が必要なのであろう。
上の主張の視点から見ればWikipediaはむしろ大人の嗜みだ。
新たな進歩のためにある場がウィキなのだ。
しかし、子供のモノ調べに新たな進歩は必要ない。
必要なのは正しい知識だ。
「守」を徹底的に固めてから「破」に着く、それが進歩の原理のはずだ。

「進歩のための教育」

ウィキもそれに反しているわけではなく、ボクもWikipediaの取り組みの面白さを知っている。
ただウィキはあくまで「破」なのだから子供には必要なく、アンチWikipediaが教育ツールとしての「Web百科事典」がいま必要とされているのだ。

例としての「Web百科事典」を出したが、ネットを使用すると「正しさの不足」が感じられる。
YAHOOやGoogleのような検索エンジンも検索すべきワードをただ打ち込むだけではその調べたい意思とはうまくマッチしない場合も多い。
これには検索エンジンの工夫と検索方法の革新が必要になるだろう。
きっとこれからは「ネットの正統性を確立」して「新たな検索エンジン」が求められていく時代になるだろう。