2008年6月27日金曜日

否定のすすめ

大嫌いなものを作るべきだ。
好きなものばかり挙げるやつは自分をほかのモノに依存しようとしている。
ボクは嫌いなものをきちんと持っている。
それを持っているおかげで他人とぶつかりっぱなしだ。
しかし、それは個性があるから。
個性は嫌いなものと好きなものの両方を持っているから生まれる。
好きなものばかり集めて自分を売りに出そうとしても、他人は自慢ばかりに聞こえてつまらない。
嫌いなことは嫌いと言えばいいのだろう。
「嫌い」と言えば、他人との差が出る。
好きも通せば、嫌いが生まれるようだが、「そちらも嫌いでもない。」なんていうあいまいな表現で収めようとするのが、「好き」しか使わない人間だ。
「そんなもんは下らない。」
そう大声で張り上げたい。
他人を否定したい。
現代は日本人らしい日本人の時代、とでも言うか。
仲間内を大切にする、異を排斥する、農耕社会にも通じる「道徳」とまではいかなくとも、その集団には「空気」や「雰囲気」があるのではないだろうか。
そういうものは大事だが、それだけになろうというときには「嫌い」を叫ぶべきだ。
「否定」の大事にはそこにある。
だから、ボクはそれを自らの天職とし、生きようとしている。
忘れていたが、それがボクのなかでの哲学者としての役割と考えていたのだ。
社会全般の常識を疑う存在、懐疑する者の総称だと。
「常識を疑う」というのは「否定」の拡大、そのものだ。
常識を疑えば敵を多くつくってしまう、それでも「否定」を貫く者が偉い。
何も考えずに疎外感を恐れるあまり他人と無根拠にも同調しようとする人間が一番、頼りにならず馬鹿者だろう。
残念ながらも、それがこの世に溢れている。
まあ、それだから、我々が存在していると認知できるのだが。
「孤高」を目指せ、他人などそこには必要ない。

以上!

2008年6月20日金曜日

群れて弱さを隠すのか?

人間の多い場所は嫌いだ。
他人に流されそうになるから。
人間って言うのは不思議なもので、群れるだけで周りに同調してしまう。
自分が消えていく。
知らない間に自分がどんどん変わっていく。
そんなことは多分、常にそういう変化が起こっているのだろう。
だから、人間っていう奴はなかなかひとくくりに定義できないのか。

これは環境論のいい例だ。

以上!

2008年6月17日火曜日

偉人 立川談志

ボクは立川談志を知らずに昨日に至った。
しかし、人物像が出来上がってくるに従って、とても魅力を感じた。
よく酷評される人格はとても素晴らしいものだ。
ただし、ああいう人格だらけの日本は末期ガンのようなものだろうが。

ああいう人を認めろとは言わない。
むしろ、ああいう人は差別されながら、冷たくされながらも残っていてほしい。
アウトローな人格はなぜだか、人を魅了する。
ただ面白いからという理由で殺す殺人鬼、自分だけが助かればいいと考える自己中心な政治家。
時代の悪党にもかかわらず、そういう人がいない世界を我々は望まない。
自分もああいうテキトーな人間になってみたい。
そこから発生する差別や批判が人生を見出す素となるはずだ。

以上!

2008年6月15日日曜日

最近のこと

疲れた。
しかし、それも嬉かな。

最近は自分の変化に気づきます。
映画好きだったのに最近はその余裕もなくなったり。
すこし寂しいような。

でも、こうやって昔の自分と向き合うのもいいものです。
昔に学んだことを忘れていたら(苛立ちながらも)再確認できます。
オペラに夢中だったころから、今は絵画。
特にサルヴァドール・ダリ。
今日からだが・・・。

しかし、すべてを知るには人生は短すぎる。
我々はそんな絶望と常に戦っている。
そうじゃないですか?
だから、挑戦する意義がある。
いや、挑戦と言うのは偽善かな。
むしろ、暴走だ。
暴れまわりたい、抗いたいんだろう。
それが芸術家であり、学者である。

まあ、挑戦と言うのは偽善と書いたが、そういう言い回しというか。
そういう悪っぽく気取る事をよく日本人はします。
ボクもそうなんですがね。
これが多いと価値観の基準が分らなくなるってとこが欠点です。
悪っぽく言ってることが当然になる。

これに似たことが常にジレンマとして存在します。
オタクから哲学を見出そうとすれば、その隠れた陰湿な部分が欠如され意味がなくなる。
意味がなくなれが死んだも同然。
「発見したいが残っていても欲しい秘境」でしょうか。

これに酔うのが学者かな。

以上!

2008年6月12日木曜日

あの事件についての感想

秋葉原であれだけのことをやってくれた彼に脱帽だよ。
(まあ、秋葉原の警備がきつくなるのは勘弁だが)

いまのアキバはもう観光地だね。
一種のさ、年中お祭りのような。
オタク文化だ、なんだって売り物だよ。
ため息しか出ない。

アキバとかオタクとかはこっそりいるから意味があったんだよ。
それを流行が明るみに出しっちゃった。
みんな、賛同しちゃったんだよ。
サブカルなのにみんなやってる、なんて馬鹿げてるでしょ?

こんなことになると濫用が激しくなる。
ちょっと、テレビつけりゃオタクの流行に乗っかったタレントが出たり、アニメの話したら、「萌え」だの「腐女子」だの意味も知らないのに使いたいだけ使いやがってさ。
単にお前が使いたいからだろうが、馬鹿野郎。

本当のオタクってのは知識人に近い存在だ。
単に話題の対象がアニメやマンガ、アイドル、サバゲーなどのサブカルチャーだったからだ。

話が冒頭のあの事件についてに戻るが、彼は17人の人生を狂わせた。
この世界を否定したがそれでも自分を否定しなかったのはなぜだ。
あれほどの事件の犯人の覚悟がその程度だったことに憤慨する。
自分も死んで、悲劇の成立だ。
その時点で、この世界の否定という自己表現が完成する。
もっと徹底した美学を持ってほしかった。

立川談志に影響された文体になりました。

以上!

2008年6月10日火曜日

極めるなんてね

極めるとは何かは具体的にはわからないものの、我々の中では超人や逸脱した人間を意味するのではないか。
限界を突破し、次元を超えて別の存在になることだとボクは考える。
生まれ変わり、輪廻があるような。
レベルが上がると言うより、概念を変えてしまうわけだから。

しかし、技術には常に進歩、レベルアップがついてくる。
それはついてこないと困るわけだが。
技術の進歩とはどういうものか?
マニュアルで確認しながら行っていた動作が、いつのまにかオートとして体に染みつき、自由に動かせるものとなっていることである。
技術の取得とは、このようなものだ。
始めはいちいち確認し意識して行っていた動作が知らないうちにもう当然になっていることだ。

2008年6月6日金曜日

これから

いま、とても研究していることは、「文化」、「哲学」、「脳」だ。
どれも世界の本質を観察するのに不可欠であると常識の範囲内だが直感する。


以上!