2009年12月31日木曜日

倫理的な言葉の使用

25日の事だ。
『山椒の実』という近親相姦系のエロ同人誌を読んだ。
この内容がまた類をみないほどディープで読者に対して鬼畜なものだった。
その内容は、同人誌の鬼畜系ファイルを参照してもらいたい。

読後、どうにも消化不良なところがあり何度も頭の中で物語を追っていた。
今さっきまでそうだった。
消化不良、つまりあの物語を思い返すと、どうにもむかついてならない。
なぜだろうか、それを考えていた。
ボクは変態だからたいていのプレイに関して知識があるし、興味も並々ならないほど持ち合わせている。
だから、近親相姦だの輪姦だの羞恥プレイだのに関して、あまり抵抗がない。
むしろ、より大きな興奮を歓迎するつもりでいる。

しかし、もちろんボクなりに意識しているところがある。
それは、言いかえればボクなりのルールやポリシー、倫理にも当たると思われる。
だから、ここで一度、それを文章化して整理してみようと思う。
整理すると言っても、そんな大それたことではない。
とても簡単に済む一つ、二つのルールを提示するだけである。

ひとつに、「喜びのない行為の禁止」である。
ルールというものは少なくともそれを享受するに値する人間にのみ当てはめることができるのであって、ルールを享受することに値しない人間、もしくはそれを喜ばしく思わない人間に押しつけることはしない。
たとえば、人妻を強姦しようとする。
相手もその気ならば、ボクはそれを「あり」と判定するだろう。
しかし、彼女の良心を傷つけるものならば決して許される行為ではない、そう考える。
サッカーはサッカー好きでやればよいのだ。
これは、ボク個人はもちろん、一般的にも理解を示してもらうことのできるルールではないだろうか。

ひとつに、「輪姦の禁止」である。
これは、第一のルールとは打って変わって、ボク個人の思いが反映されている。
ボクはチームが苦手だから、たとえ女を襲おうという展開になっても、誰かと組んでやるということはしないと思う。
個人をこよなく愛するボクなら強姦のときもひとりだろう。

これぐらいだろうか。
ルールというか「趣」になったのかも。
「ボク好み」とも言い換えられる。

しかし、絶対に公表したいと思ったのは、第一のルールである。
ボクが強姦においてもあれを適用させろと言ったのは、「強姦のなかにも倫理がある」ということを知ってもらいたかったからである。
言っておくがこれは、ただのきれいごとではない。
強姦にもある程度の「縛り」、つまりルールが存在している方が粋だと思うからだ。
花魁は、遊女であり、売春宿の高級売春婦でありながら、気高いほどのルールと上流階級の教養を身にまとっていた。
それにより、並みの客では金銭的にも教養的にも決して手が出せなかった。
そして、それがその時代の常識であった。
「花魁のルール」の存在をボクは素敵だと思っている。
ルールがあるからこそ、何かどっと溢れ出んばかりの情熱をこの身に込めることができる。
なかなか表現しにくいが、きっとルールの縛りは一種のマゾヒズムに浸ることができ、高揚感に浸ることのできる手段なのだろう。

強姦のルールがもし社会的に常識と化し、一種の空気になったとしたら、世の中の質は確実に変わる。
もし、女子高生が男数人に輪姦されたとする。
輪姦している最中に、女子高生の気分はまったく高まらず、性的興奮も起きなかったら、男たちはその場で手をついて謝りだすかもしれない。
ボクはそういう場面を面白いと思うし、それ以上に素敵な社会だと思う。


ルールといっても、やはり明記できない部分もある。
ボクが『山椒の実』の読後に感じたむかつきもボク自身が消化するのに2日を要した。
裏を返せば、ルールが無意識化する、マニュアルがオートになる、それがボクの理想体である。
それには、細かなところまで指摘して、やっとボクのむかつきは収まるのだろう。
あのむかつきの根本についても言及しておこう。
つまり、その細かな指摘である。

あのとき感じたのは、哀れでもなく悲しみでもなく、むかつき、苛立ちであった。
それは、「無責任な言葉」への疳癪だった。
ボクの倫理は、特に言葉に向けられるものが多い。
それは、ボクが読書や書道、詩、歌など言葉好きだからであり、言葉に対する責任にもたいへんこだわる主義だからだ。
言葉はコミュニケーションの主柱だ。
だから、たいへん慎重に扱わなければならない。
ボクはそれを言霊信仰と同等の信仰だと考えている。
その信仰はやはり自己教育の賜物であると思う。
ボクの根幹をなす倫理思想は今も変わらず新渡戸稲造の『武士道』に依拠しており、『武士道』の「緊張」を至高の倫理にしたいぐらいに思っている。
武士は自分の言葉に命を懸けているという。
これは、言葉を扱ううえで最高の倫理ではないだろうか。
日ごろ使う言葉と滅多に持ち出さない命を同等に扱う。
これほど潔いと感じるものはない。
ボクはこれを、人生を懸けて実践しようと思っている。
そんなボクにとって、『山椒の実』のなかで結果的に悲劇的結果を生み出す安易な言葉遣いには我慢ならないところがあったのだ。
あの作品は、悲劇としてとても素晴らしい内容である。
もちろん、そういう芸術の視点もボクは持ち合わせているつもりだが、やはり染みついた倫理はあの言葉の安易な使い方に牙を立ててしまうようだ。

石鹸フェチ

最近はこまめに手を洗っている。
インフルエンザ予防のためなのだが、それがどうにも気持ち良くなってしまった。
インフルエンザウイルスというのは石鹸で対処できるというから、帰宅の際、食事の前、はもちろんのこと、少しでも手が汚れたと思ったら即、手洗いである。
石鹸を使うのは面倒だと考えていたが、今はあの固形を手のなかで転がすことが楽しくてしょうがない。
角が手のツボに当たると気持ちいい。
それに少しずつ無くなっていく様子が分かるところも観察のしがいがある。
使っていくと全体的に丸くなり、かわいい形になる。
あんなかわいいのにぬるぬるしているから手から逃げようと頑張っている、まあそう見えるのがまたかわいらしい。
ふと手を強く握りすぎたせいでツルンと逃げ出した時の感触がたまらない。

確かに手を洗うときれいになったというのが手の質感でわかる。
脂が流されているからだろうか。
水だけで洗った時にはない質感であり、あれも相当癖になる。
もともとボクは潔癖症のきらいがあったから、そういうのにははまりやすいのだ。

いまどき、世間一般では石鹸はあまり使われていないのだろう。
ボクの家にも、大量の未使用石鹸がある。
ボクにとってはそれを眺め、臭いをかぐだけでも悦に入る体験なのだ。

司馬遼太郎 歴史の共感から司馬史観

先日、3年間にわたって放送されるNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の第1章が終わった。
明治を舞台に、それも軍隊を舞台にしたドラマは珍しく、その上、豪華キャストで3年間に渡って放送する力作ともなれば歴史好きとして見ないわけにはいかない。
軍隊モノといえばどうしても終戦記念日に流れるような暗い、過去の過ちを反省するような内容に傾きがちだが、『坂の上の雲』は司馬遼太郎の司馬史観を忠実に反映させようとしているためか、「明るい明治」をコンセプトにしているようで観ていて面白い。
西欧列強の脅威が目前に迫っている明治初期の日本の国家的な奮闘が、このドラマが描きたい「明治の色」のようである。
明治から太平洋戦争終戦まで一つの波と考えれば、明治初期から日露戦争まで上り坂、そこから先が下り坂なわけで、この波が司馬史観なのである。

ボクはそもそも「史観」が好きであった。
きっかけはマルクスの唯物史観論であり、歴史好きも相成って「歴史の見方」に取りつかれてしまったようだ。
司馬遼太郎の名は、ずっと前から常識として知っていたが、ボクは小説が苦手な性分である上、国民作家の肩書がどうしても陳腐に思えた。
しかし、『坂の上の雲』での渡辺謙の原文の朗読を聴いていると、文体がとても好印象だった。
司馬遼太郎の人柄が伝わってくるようだった。
それは歴史に共感できたであろう才覚である。
明治という時代について、明治人の意識について、とても正確に共感できたであろうとボクは思う。
それはやはり司馬遼太郎の才能であり、歴史好きが追い求めるものそのものである。
司馬遼太郎の歴史への共感こそが司馬史観を生み出す原動力になっていたのであろう。

もっとスケールの小さい国へ

坂本龍一が雑誌のインタビューで言っていたのだろうか。

地球温暖化の原因が二酸化炭素であるにしろないにしろ人類は二酸化炭素や汚染廃棄物が出る産業をやめるべきである、と。

この通りに行っていなかっただろうが内容は間違い。

ボクはこれを読んで、「センスがある」、そう感じた。

ボクは田んぼに囲まれた田舎者だ。

だから、たとえ地方都市でも市内中心部に行くと人ごみの多さに圧倒され、生理的に嫌悪してしまう。

大量生産する工場にも吐き気がする。

ボクの生活というのは明らかに現代のものであるが、規模はたいして先祖と変わりはしないだろうと思っている。

人間の本質がそう何百年で変わるはずがない。

ボクがパソコンを使い、ケータイを使い、電車に乗り、飛行機で海外に数時間で行ったとしても、その感覚というのは、いたって一般的で穏やかなものに留まり、江戸時代の先祖の感覚の規模とそう変わりはしないであろう。

ややこしくなってしまった。

つまり、江戸時代の先祖が滅多に行けない隣町へ出かけることが叶ったことと、ボクが東京へ遊びに行けるようになったことは常識的に考えても同じスケールの感覚で測ることができ大した驚きはない。

人間の暮らしと言うのは慣れが常に伴う。

慣れないのはむしろ技術力が急激に膨らむように進歩していったことである。 

技術力はまるで落ち着くことがないように走り続けている。

人間は必ず落ち着くようになるものだが、技術力はそうではない。

ただ、走り続けている。

それをたまに感じると驚き、圧倒され、気持ちが悪くなるのだ。

誰も永遠に肥大化していくものを見たことはない。

技術力だっていつかはストップが来るはずだ。

もしくは破滅が。

ボクは技術力を人の発明だとは思っていない。

人が発明し、人の力になりえたとは決して思えない。

あれはどこかにあったのだ。

化石は人が作るのではなく、地中から掘り出すものだ。

技術力も化石と同じように、どこかにあるものなのである。

ボクはその眠れる獅子のような技術力が恐ろしくてたまらない。

アインシュタインは原爆の製作に手を貸してしまったことを戦後悔いていたというが、ボクは、きっとアインシュタインは発明家としてではなく、発掘者として悔いていたのだと思う。

あれは人が持つべきものではなかった、そう思ったのではないか。

技術力の進歩は一般的に善だ。

人口の増加も善だ。

少子化だからではなく、人が生まれるという意味で善だ。

しかし、日本は少々膨らみすぎたのではないだろうか。

日本の平地は少ない。

もともと、島国の上山脈が通っており、山と海の間も狭い。

そんな国に1億数千万人の人口は多すぎではないだろうか。

もうちょっと少ない方がもしかしたら便利なのではないだろか。

人ごみ嫌いを当てつけに言っているのではない。

山と日本人

旅と言っても、部活動の遠征や全国大会で行ったことだが、ボクにとっては見聞を広めるための重要な旅になった。
そこで気付いたことは、日本の山の多さである。
ボクは山に囲まれた田舎者だから都会というのはきっと山とは無縁の場所なのだろうと勝手に決め付けていた。
しかし、2008年に東京へ行った際も少し高いところからなら遠くの山が見えるし、今年行った長野県も奈良県も山に囲まれていた内陸である。
そこで感じ取ったのは、きっと日本が成り立つ上で「山」と言うのは決して無視できないだろうということだった。
それは思想史とか宗教史からそう考えたのではなく、特急や新幹線に乗ると必ず山を通る。
そのときにいくら都会生まれの都会人でも車窓から見る山の風景には何か思わずにはいられないだろう、ということに気付いたからである。

山と都会が決して切り離されたものではないことには旅の途中に気がついたが、今気付いたのは山と都市の距離である。
江戸時代は平城の時代であり、平野に街があり、街の真ん中に城があり、街というのがどこに行っても文化、政治の中心となった。
となると、行けないわけではないが山というのは遠く、都市とはまた別の世界であるという意識が生まれても不思議ではない。
そういう意識というのはいまでも十分、日本の成り立ちを支えているのではないだろうか。

本-Part2-

本について、と言うとどうしても、「その内容の事だろう」と身構えるのが普通である。
しかし、今書こうとしているのはそういうことではない。
「装いとしての本」のことである。
こういうことはあまり語られない。
雑誌や新聞なら必ず書評が載っているが、「内容を抜きにした本」について伝えようとしたり、語ろうとしたりすることは一般的なことではない。

あいかわらず、本がおかたいと思われているのは、そこに関係していると思う。
おしゃれするように本を読む、デートのように本を読む、スポーツみたいに本を読む。
そういうのはまるで読書の邪道のように思われがちだが、ボクはこういうだらしない読書が大好きである。
本を寝ながら読んだり、物を食べながら読んだり、線を引きながら読んだりすることは読書を修行のように考えている人たちには想像がつかないほど楽しいことである。
ここまでだらしなく、言い換えれば、ずっと自由な運動として読書を捉えた場合、読書はきっと「歩く」と同じレベルで行われる「動作」になるだろう。
読書という行為はそれだけ広くて深いのだ。

道がそれた。
「内容を抜きにした本」とは、いわば本のデザインの事であったり、外装の事であったり、挿絵の事であったり、配色の事であったり、フォントの事であったり、文字の大きさの事であったり、文字の間隔の事であったりとほんとうに枚挙に暇がない。
フォントは明朝体が好みだが人名はゴシックの方が好きである、とかそういうところまでいって本当に本好きなのではないのか、最近はそう思う。
本は、ボクにとってツールに留まらない存在だ。
本はただ単に速読して内容を理解し頭に知識として納めておけばよい、といういわゆるビジネスマン的読み方を好きにはなれない。

本という趣味がある、そう表現してもよい。
本は作者の分身だ、よって読書とは間接的に作者と会話することだ。
先ほどのビジネスマン的読み方は知識の収集だが、僕にとっての「本」とは人との会話、それも雑談のようにとりとめもない話を延々と続けるようなものである。
宮本武蔵や柳生石舟斎のような武芸者は剣によってのみ生きる己の人生を「剣」と表した。
剣を究める、というような感じだ。
ボクもそれに則って、読書から本のデザイン、本という存在を隅々まで味わいつくす人生を「本」と言いたい。

2009年では、杉浦康平の装頓に感動したことから「本」への興味が始まった。
面白い本というと内容だけを指すようだが、もっともっと広い意味で面白いことがあることに気がついた。
今は、よさげな本を手に取ると外装や本の重さ、紙の質、匂いにまで注意するようになった。
そういうところまで来ると、一般的な読書好きから見ると変態扱いされそうである。
しかし、そういう道楽者の変態であることは本好きの勲章である、そう思う。

音楽

音楽はまだ書くのが楽で助かる。
そんなに手を出していないからだ。
もし、これが本だったらまずこんな気分にはならない。

まず、マキシマムザホルモンからだ。
マキホルは2008年の8月に知った。
彼らの音楽はロックでもえげつないものに含まれるのだろうか。
そもそもボク自身、音楽界全体を見渡せていないから自信のある意見を持つことができない。
しかし、マキホルのよいところぐらいわかっている。
それは、どの曲も「さわやか」であることだ。
詩もメロディーも汚らしいが、全体を通して聴いてみると心のなかをすっと透き通ったものが通り過ぎる。
「青春」というに文字が似合う。

次に、RADWINPS。
ラッドはそんなに曲を知らないが、「おしゃかさま」から聞いた。
彼らの曲もマキホル同様、特有のメロディーを持ち、付け加えて「生の肯定」をメインとしたメッセージ性の強い歌詞があるので10代のなかでは広い人気を博しているとか。
やはり、ラッドにしろマキホルにしろミクスチャーロックの分野にも入っているから、次の曲は全然ちがう感じの曲かもしれないと期待してしまう。
これがボクの音楽に関する嗜好である。
ラッドはボーカルの声のゆるさとその声が放つ歌詞が見どころだ。

次は、坂本龍一。
NHK番組「爆笑問題の日本の教養」で登場してからボクは彼のファンになった。
まず、そのヴィジュアルのよさに惹かれた。
白髪で渋みのある顔つきなのに声は少々甘い。
その音楽への追及の姿勢や思想には日本で言うところの「ミュージシャン」より「アーティスト」の方が似合う。
前々からYMOには興味があったが、坂本龍一のピアノ演奏や作曲には彼の才能を確実に表しているものがあると見える。
特にボクが夢中になったのは、映画『ラストエンペラー』の『THEME』である。
中国楽器を用いたあの曲には映画を観る前から心を奪われ、きらびやかで麗しい中国王朝、具体的に言えば紫禁城を思い浮かべた。
勝手な妄想であるが、朱色に包まれた宮殿内部、無駄に光を帯びている金細工、厚い刺繍が施されている着物。
この曲を聴いていると、王朝文化や雅のこころに触れることができるのかもしれない。

坂本龍一があの番組でいろいろ音楽を紹介してくれたおかげで放送した9月から聴く音楽の幅がどっと広がった。
ひとつに相対性理論がある。
あのリズムにはどこか拍子抜けさせるところがある。
良くも悪くもない意味で期待外れなのだ。
歌詞もメロディーもバンド名もバンドの存在自体も非常にサブカルの色を帯びている。

またひとつにボブ・マリーである。
高名なボブ・マリーのことはもちろん前から知っていたがなかなか聴くのに踏み出すきっかけがなく困っていたところだった。
こういう行動に踏み出すきっかけというのは、どんなにくだらないことに関しても、大事なことである。
ボブ・マリーからボクはレゲエに入門した。
レゲエを始め南米発の音楽はやはりリズムが命。
そして、そのリズムを生み出すのには即興が一番である。
本番こそ創作なのだ。

今最近のお気に入りは東京事変だ。
これも詩とメロディーを買って聴いているのだが、椎名林檎の歌唱力には驚かされる。
ミクスチャーロックバンドはしっかりとした基本的な力を保持していながあら、挑戦するから必ずあたりの曲がある。

他に例をあげれば、まだまだボクに影響を与えた音楽はあるのだが、まとめるとざっとこのようなものだろうか。

剣術、というより剣についてだ。
剣術の技を新たに覚えることはなかった。
効果的な「剣の振り」のみを研究してきた。
何度も繰り返して柄を握るだけの行為だが、意識して握るだけで振りのきれも断然に変わる。
握らない握りを意識したおかげで早く滑らかに振ることができた。
効果的な支点を押さえておけば、強く握る必要はない。
また、納刀や抜きを繰り返したおかげで刀が一層手になじむようになったうえ、刀が軽く、短く感じるようになった。
やっと、「剣のひと段落」を着くことができた。

これらの実績の裏には、ボクのモチベーションと発想を支えた本がある。
ひとつは、2月あたりから読みだした、『範馬刃牙』である。
こういう筋肉系バトル漫画には疎かった上、少し嘲っていたので手に取った時は大した期待はなかった。
しかし、読んでみるとキャラクターの確立やストーリー、画、セリフに夢中になった。
全体にリアリティと非リアリティが交差しており、読み応えのある漫画だった。

また、ひとつは、甲野善紀だ。
2年前から気にはしていた甲野善紀の書籍を再読、文庫本を2冊中古で手に入れ読んだ。
彼のやろうとしていることは非常に自由な研究だから少し憧れを抱いたものだ。
彼は、効率的な体の使い方を追究しているわけだからボクと重なるところがある。
彼は禅や科学にも造詣が深い。
そのおかげか彼の本の言葉から発想が生まれることもしばしばあった。

そしてまた、ひとつは『バガボンド』だ。
佐々木小次郎編から伊藤一刀斎のキャラクターにほれ込んだ。
『バガボンド』は画がきれいなうえ、毛筆をつかうからか読んでいると剣を振りたくなる。
「ゆるい」剣を『バガボンド』から学んだ。

本以外では、アニメ『BLEACH』のMADムービーをYou Tubeで見てインスピレーションを受けた。
内容は、更木剣八の活躍を洋楽に合わせただけのMADだが、更木の思想がよりあぶり出されるようなところに惹かれた。
更木の闘いは、バガボンドの求道性とは真っ向から対立し、粗野な切り合いというものに固執しており、2009年はバガボンドの求道的な剣と更木の粗野な剣を交互に、もしくはデュアルに、もしくは同一視していた。

「インスピレーションの源」をテーマにまとめてみた。

芸術

2009年は、やはり「日本数寄」に触れた一年であったと言える。
昨年は、どちらかというと西洋絵画にばかり近づこうとしていた。
ダリのシュルレアリスムから始まり、ボッティチェリから始まるルネサンス、バロック、ロココ、ロマンなどどんどん西洋絵画史を追っていくようなところがあり、それはそれで「全体を観る」という歴史を考える上で不可欠なポイントをさらって行けたような気がする。

やはり、歴史好きが高じてか一つでは満足できないところがボクにはある。
どうしても少し高いところから全体を見降ろし、全体と言う一つを観察したくなる。
いわば、オーケストラの指揮者のように部分と部分を繋ぎとめ、かつそれを単体として、単体同士の調和を図る。
ボクは何事においてもそれを得意としてしまう。
やはり日本の数寄文化を研究し言及する際も、それを始点として、また色眼鏡として用いてしまう。

日本数寄、やはり影響を与えているのは松岡正剛。
たしかに彼の日本文化論には定評がある。
しかし、そんなこと以上に、彼は、ボクに日本文化の楽しさを教えてくれた人生の師とも言うべき存在だ。
そもそも、ボクは中学校のころから本からとても興味を持っていた宗教に関する知識を集めていたから、どうしても学ぶ上で文化に関する造詣も深めていく必要があり、その途中現れた松岡正剛の協力もあって「文化の面白さ」というものにすっかりはまってしまったのだ。

数寄といえば、まず琳派。
そうボクのなかでは理解している。
琳派の心、精神こそが日本の数寄そのものなのだ。
BRUTUSを初めて買ったのも琳派の特集号だった。
琳派のこう一見何の変哲のなさ、あまりにわかりやす過ぎて反応しずらいところに返って考えさせられる。
特に、本阿弥光悦は『バガボンド』のなかで憧れを抱いた存在であり、彼から、研ぎや刀についての興味を与えられた。
また、光悦の茶碗や書にも共感した。

また、城や数寄屋など好きな建築物、文様や色など数寄な和の色についても興味を持つようになった。
それはやはり扇子にこだわっているせいだろうか。
前々から護身用に鉄扇を買ったり、人にプレゼントで扇子を送ったりしている。
扇子を開いたり閉じたりの運動を繰り返すとどうもいい感じに手の力の入れ具合が理解できる。
また、扇子の骨、竹細工にも興味を持っている。
茶さじや茶筅などの茶道具も骨董の一種として手を出したくなっているものだ。
ボクは竹が周辺から簡単に手に入るため、自分なりの作品を竹細工で造ってみたいと考えてもいる。

数寄というのは、一種の美意識を持ちこだわること、そう理解している。
そう考えると、ボクはシンプルなものが好きだから、負の作用を使った数寄というものが性に合うらしい。

現代アートにも数寄は大きく取り入れられている。
それを知ってから、現代アートにも興味を持てた。
村上隆や会田誠の絵には、やはり日本数寄がある。
また、日本の再発見を特集にしたBRUTUSUからは、ブルーノ・タウトや岡本太郎などメジャーながら、とつきにくかった人たちについても近づこうできた。
彼らは芸術について言及しているうえ、近代の芸術を語る上で大きなキーマンとなっている。
大きなキーマンに触れられれば、どんどん新たなキーを引き寄せることが可能となる。
それは何をしていてもけっしてないがしろにはできないことなのだ。
それが、芸術を考える種になるのだから。

性についてである。

彼女もなにもいないくせに性に関することにいろいろと調べたがる。
これについては異常かもしれない。
そもそも性について、ボクは、相当な人間だからSMもソドミーも死姦もけしてやぶさかではない。
そう、あぶないのだ。
それを2009年に再認識した。
ボクは好戦的な人間でもあるから相手を行為の最中に殺さないか自分のことながら心配である。

男色については2009年上半期から11月に至るまではとても盛んであった。
BL雑誌も買ったし、『美少年』のエロティシズムの耽美には胸を打たれた。
そもそも、男色というは異常であり、短い人生においてすら短い寿命を持つ行いであるようで、成立すら極めて珍しい。
それに気づいたとき、耽美について学びそれがエロティシズムととても深いかかわりがあるのだと理解した。
美しくかつ短命なものには誰しもが興奮と性倒錯を感じ得ない、そう考えるようになった。

今はむしろ女色のみしか受け付けない。
それも強いのはアナル嗜好だ。
アナルに関するものを観ると、居ても立っても居られない。
あの行いに何の意味があるのか、もしくはその格好、まるで串刺しである、それを探りたくてたまらない。
羞恥の対象であるアナルをいじられれば何かしらの興奮が起こらないであろうか。
これは至って原始的に感じる。
アナルは膣よりずっと強く穴の印象がある。
肛門の見た目、腸内部、拡張された様子はまさに穴そのものである。
あれに何かを差し込みたいと考えるのはボクだけだろうか。
浣腸、脱糞、ドジョウ、ウナギ。
一般的には異常ながらもボクが興奮する対象たちだ。
ボクならそれ以上の妄想を起こす。
肉付き始めたきれいな人妻のアナルに沸騰した油を注ぎこみたい。
狂った顔、異常をきたす人体、焼けただれたような肛門、そのすべてに性的興奮を覚える。
また、ボクは脱肛の写真を観て、その醜さにとても妄想を掻き立てられた。
清楚で、それでいて大人びた体を持つ美少女、しかしパンツを脱がせれば脱肛。
これほど素晴らしい景色はない。
まさかこの美少女が決して人に見られてはいけない場所に怪物を潜ませていたとは、そう思うだけで鳥肌が立ち。
彼女のはみ出た腸を踏みつけたくなるような気になる。
彼女はどんな顔を見せてくれるだろうか。
きっと痛くて、もしくはその痛みに匹敵するほどの羞恥を感じ、殺し欲しいと言うだろうか。
どうやら話が妄想にずれてしまったようだ。
とにかく、ボクは異常性癖を持ち合わせているわけだ。

異常性癖から派生したのかもしれない。
2009年は、エログロの世界にも興味を持ち始めてきた。
たとえば、村上隆や会田誠のアート、江戸川乱歩や三島由紀夫の古めかしくも確かに感じられる妖艶で気色悪い官能である。
エログロなのは、ボクの性癖としてもこれらを受容していくのも芸術の一つなのではないだろうか。
そう考え始め、「性欲に身を任せた芸術」というものを構想している。
ボク自身が作ってみたいのだが、とりあえずそういう作品を探している。
とくに写真集、『妄撮』のような遊びとエロティシズムを両立できるような作品を探している。
あいにく高価だからポンポン買えるわけではなく、いまも書店で表紙を眺めているだけだ。
または、見捨てられがちなAVやストリップにももっと芸術の余地があると確信している。
<抜けるだけではいけません>をキャッチコピーにしたい。

体の部分で言うと、ボクは断然「巨尻派」なわけだが、最近は「巨乳」にも目覚めてきた。
アニメの影響からツルペタが性に合うと自分なりに確信していたのだが、どうやら同人誌を毎月数百冊観ていることにより巨乳のおおらかさというものに当てられたらしい。
最近は、「女性の胸」という思春期男子には確定的なテーマについていけるようになった。
そのせいか、女性の体全体に興味がもててきた。
きれいな女性像とは何なのか。
もちろん、見た目だけに限る話だが、ボクも好みというものを見出しておくべきかもしれない。
それも面白そうなことだと思っている。

「性文化」や「商業と性」というのも面白いテーマだ。
最近、資本主義の進歩と性について本で読んだから、歴史の裏で走り回る性欲についても調べていきたい。
どんな国にも性欲はあり、それらとずっと昔から向き合ってきた。
向き合い方には滑稽なものから猟奇的なもの、カルト的なものまである。
やはり、調べるには歴史と民俗学、文化人類学が必要になる。
まあ、できるならルポに出向きたいほどなのだが。
古代の神殿、売春地帯、売春宿、農村、神社、ラブホテル、出会い系サイトがそのフィールドになるだろうか。
そういうのを知的好奇心と性欲をハイブリッドした、もしくは並行した心持ちで挑みたい。



そもそも、ボクは小学生の時、猟奇的な性癖のイラストを載せているサイトから性欲を覚えた。
最初が、そのように始まったせいか性欲の質というものが真っ黒で、そして量も並々ならぬもののようだ。
前述の通り、これを芸術に転嫁させられれば最良だろう。

「本」についてである。

1月からe-honを利用するようになった。
理由は、これを利用すれば購入時のポイントが2倍になるから、それだけだった。
ボクはケータイで注文しているから、いつでも「本について調べられる」ようになった。これが楽しみにもなった。
本というのは比較的安価でありながらオリジナル色の強い工芸だとボクは考えているので、本を買うという行為も立派な趣味になりえるのだと今年のはじめに実感した。
また、e-honのおかげで読む本の分野も広がった。
ボク自身あまり偏食しないように努めている方だし、それが癖でもある。
そもそも10代の読書範囲というのは、まだ確立されていないから、すこし生意気な意見かもしれない。
それでも様々な本と出合えたことは純粋に嬉しいことだ。
本を知るということは人を知るということだから、ボクは2009年ほんとうに様々な人たちと出会ってきたと言ってもいい。

たとえば、小林秀雄である。
小林秀雄は批評家として、まず名前を知ったから批評についても興味を持ちだしたが、それ以上に彼の思想家としての広い視点と鋭い洞察力には閉口した。
こういう人間が数十年前にはいたのかと昭和初期の日本に興味を持ったし、思想についても学問についても読書についても彼を中心に考えると面白くなった。
ちょうど、You Tubeで小林秀雄の講演が流れていたので、それを聴いて、より彼の思想と人となりを深めていった。
小林秀雄のような、いわゆる「知の巨人」、知識人というものがどの時代も必要になるはずだろう、と思った。
彼からはまた、古物、骨董についても学んだ。
骨董の世界にずっぷりはまっているわけではないが、半分足をとられているようで、茶入が欲しいと思っている。

本を読むとどうしても本同士の縁によって次読む本というものが定まってくるものだ。
小林秀雄を読むと、どうしても白洲正子や青山次郎の本に出会ってしまう。
そして、彼らがどんな人間かを知ろうとしてしまう。
彼らは青山次郎率いる青山学院のメンバーであり、その逸話はひと昔前の作家たちの間では常識だったらしく。
けして今の作家たちにはないであろう臭いが漂っているように思う。
それはやはり昭和という気難しい時代を反映しているようで、キラキラした部分からどす黒い部分まであり、平成生まれのボクから見れば非常に野性的で生きている心地のある者のように見える。

2009年は哲学関係にはあまり手を出さず、デザインや美というものに近づいていったように思える。
それは先ほどの骨董だったり、明治以前の日本建築だったり庭だったり、そこに一貫している「数奇」の思想を感じたくてたまらなかったと言ってもいい。
バガボンドの本阿弥光悦に憧れ、また琳派に関してとても興味を持っていたから県で行われた国宝展にも足を運んだ。
国宝というのはやはり美しさをどうしても感じてしまう。
それが権力がらみの錯覚かもしれないが、きれいだと思うことがあることはよかったと思う。
デザインでいえば、まだ本にはちょっぴりしかふれていないが原研哉、もしくは動画で考えを拾っている佐藤可士和にはこれから歩み寄っていきたい。
デザインや美に興味を持ったからか、何かを製作しようという気が高まった。
今も年賀状を書いているが、今年はパソコンで作ったものにも一工夫をいれ、配置や文字のフォントにも気を付けている。

あいかわらず小説には近づこうとしなかったようだが、とらドラ!を機にライトノベルも捨てたものではないのだと気付いた。
シェイクスピアや石田衣良、桜庭一樹の小説は100円で手に入れたものがあるから積読してあるが読む気はまだ起きない。
それでも前よりは読んだ方がいいと思えるようになってきた。

ボクが買うというと、新書と文庫本がほとんどだが、それも相変わらず方法だとか人生だとかを視点にしてしまう。
というのも、今年もやはりキーマンは松岡正剛。
彼の動画もいくつかのサイトで拾い、いろいろ教わった。
彼についてはいつも書いているから省略するが、2009年はより一層彼の働きが世の中の表面にも表れたのではないかと思う。

2009年は昨年から買い始めた雑誌をより広く読み、広く買うようになった。
BRUTUSは面白い刊のみを買うようにしている。
雑誌というのは早く読んでも内容が理解できかつ面白いのだから立ち読みで10冊以上はいつも読んでいる。
経済系の雑誌を図書館で借り、数十ページもコンビニでコピーした。
雑誌は雑に取り扱い、ガンガン読み砕き、破り読みしていくのが一番だ。
まあ、それでも大事な刊はとっとくけれど。
とにもかくにも、書自体が動かない者の象徴でありながら、雑誌は明らかに「流」な存在だ。
「雑」な本、雑誌、遊びの本だとわかった。

漫画に関しては、淡白だ。
コマと絵と文字の書、この面白さにやっと気が付いてきたが、相変わらずあまり買わない。
集めるのはバガボンドとBAKUMANぐらいのものだ。
ジャンプは立ち読みで済ましている。
しかし、いまから漫画に使ってみようと企んでいる。
「さよなら絶望先生」を読んで、漫画でも「社会」を扱えるのだとわかった。
漫画は育児からBLまで分野が多種多様だ。
もっと読んでおきたい。
面白さというものはやはり漫画が一番伝えてくれるメディアだ。

来年はバイトをして旅やレジャーにも挑戦と考えているが、本の方にもいくらか回そうと考えている。
特に、画集集めをしたい。
いまはとても高く、手を出すのは無理だが、バイトをすれば不可能ではない。
琳派の画集、特に骨太なやつを一つ持っておきたい。



なんだか久しぶりに長い文章を書いたから、読んでみてホントに不細工な仕上がりだと感じた。
ショックだが、いい経験だ。

隣の書棚を除きながら、本文を書いた。
2009年には書棚の本の並びも一度変えて遊んでみた。
本とはもっともっと深く広く付き合いたい。素朴だが純粋にそう思う。

2・0・0・9

また、かなりブログを休んでしまったが年末も近いので「2009年を思い起こす」というテーマの下、何かそれなりのものを書き残しておきたいと思った。

ゼロ年代も終わる。
ボクは18歳だから、ゼロ年代が青春であったと言えるだろう。
21世紀の初めの10年が終わり、歴史もそれなりに築かれたのだろうか。
ボクはどのような時代に生きたのかさっぱりわからない。
とにかく、これから起きることの下積みはいくらかできただろう。
それを少しでも感じたくて、これを書くのだ。

2009年11月26日木曜日

秋から冬へ

季節は秋から冬に移りつつある。
この過渡期がもっとも秋を感じることができる。
いや、正しく言えば後期の秋を楽しめる季節になったと言った方がいいだろう。
ボクは、秋には2シーズンあると思う。

前期は、スポーツの秋。
涼しいなかで伸び伸びと過ごせる。
服装もシャツ一枚で過ごしてちょうどいい気温だ。
こういう季節は、仕事でもプライベートでも動きまわるに限る。
体と季節がマッチしているのだ。

後期は、読書の秋だ。
シャツとジャケットで必須のワンセット。
靴下も欠かせない。
やはり窓越しで枯れゆく庭と本を行ったり来たり。
ココワがおいしくなってくるはずだ。
また、外で作業できる最後の季節だから、庭の整備や家の修理を忘れてはいけない。

秋は長い。
夏が、あれほど長い休みであるにもかかわらず、いつの間にか終わっているのと逆でゆっくり進んでいく。
楽しみも多い。
汗っかきで冷え症のボクにとっては、最高の季節だ。
残り少ない秋を楽しみたい。

キャラクターとその魅力のあり方

魅力的な人格とはどんなものだろうか?

キャラクター、人物像、ポリシー、性格、信念、人をかたちづくるものの話だ。
小説は人物像をすくい上げるところがまず読み進める第一歩のはずだ。
ボクはつまらない人物を嫌うから、どんなキャラクターでも、たとえ悪人でも、「魅力」が必要になると考えている。
少年漫画を読んでいると、よく思う。
こいつは敵だけど好きなキャラに入る、キャラとしての魅力がある、と。
人生を生きる上で大切なことは、人を好きになることだろう。
こいつを好きになろう。
それが平和な生活に導いてくれる行いだ。
隣人を愛せよ、この精神は確実に平和につながる。
もちろん、隣人を愛する人間が現代日本にどれほどいるのかは不明だが、それでもあらゆる人間を好きになるというのは世界中に通用する理想だろう。
ボクは規模が小さすぎるくらいだから、実践できる範囲のはずだ。

漫画を読むとき、どのキャラクターも肯定してあげるべきである。
親の気持ちになり、長所を挙げ、キャラクターと友達になるべきである
これがボクの習慣、というより癖である。

漫画でいうと少年漫画を描く漫画家はそこに気をつけるべきである。
やはり少年から読む漫画なのだから、キャラクターひとりひとりの魅力、好きになれるところをきちんとわかりやすく描く必要がある。
青年漫画からはもっと深みのある人生を背負うようなキャラクターを描き求めるべきだ。
一筋縄ではいかない人生だからこそ、深みとコクのあるキャラクターでなくては。

なぜ、キャラクターに「魅力」が必要なのか?に流れて行ってしまった。
最初の問いに戻り、魅力的な人格とはどんなものか?を書こう。
ボクがこうありたい、こんな人と友達になりたいと思うキャラクターは「どこかに欠陥がある」ことだ。
ボクの言う「欠陥」とは、そのキャラクターには似合わない性質のことで、キャラクター上の穴の事だ。
例えば、マッドサイエンティストなのに恐妻家だったり、No.1ホストなのに童貞だったり、パン屋なのに小麦アレルギーだったりと肩透かしを食らうような欠陥の事だ。
ボクは上記の例に一貫して持ち合わせている一種の「愛らしさ」が、ただ完全無欠のキャラクターではなく、欠陥のあるキャラクターの方が「落ち着く」のである。
ほんとうに良い人生には、完全無欠の機械人間はお呼びでない。
どこかに欠陥があり、少し口元がゆるんでしまうようなキャラクターが人生の舞台で舞い踊れるのだ。

ボクは悲しみをアニメで覚えた

ボクは悲しみをアニメで覚えた。
どんな駄作でも最終回にはなにか胸に残るものがある。
たいていのアニメはハッピーエンドだ。
それでも観ていると悲しくなるのはなぜだろうか。
それはやはり終わりゆくストーリーに対して干渉できないからだろう。
アニメでも小説でも映画でもストーリーや物語のあるものを観る者には、必ず傍観者としての責任が義務となる。
傍観者はストーリーの世界とはある程度の距離があるおかげで、怪我も失恋もしない。
ただ、自分が見てきた、あるいは間接的であっても存在してきた世界とは同じ運命を辿ることはできない。
それが悲しい原因だ。
悲劇のヒロインは、悲しみを背負い死ねるからいいが、傍観者は別の意味の悲しみを背負いながらも明日を生き続けなければならない。
今生の別れを押しつけられるような気分だ。
ボクはアニメを一気に全話ダウンロードしてみるから数時間で大好きなキャラ達と別れなくてはならない。
だから、ボクは傍観者の役がもっとも辛く、耐えがたいものだと思っている。
しかし、そうであっても、それがストーリーや物語に付き合う醍醐味なのだ。
井伏鱒二いわく、「さよならだけが人生だ」

2009年11月18日水曜日

「悲しい」ということが世の中あるようでない。
「世知辛い」に違いないのだろうが、それは悲しみとは違う。
悲しいはもっと純粋で幼稚なものだ。
幼いころはみんな悲しさを知っていた。
それがいつからか「駄目なもの」、「恥じるべきもの」として抑え込むようになった。
ボクは結構、悲しみを理解しているつもりだ。
ちょっとしたことで泣きたくなる。
もともとが泣き虫だから悲しいことがあると涙がたまる。

もっとも、ボクがよく感じるのは哀れなことで、悲しいこととも少し違う。
客観的なのだ。
たとえば、交通事故で路上に横たわっている猫の死骸をみると、哀れだと思ってならない。
なんの因果か、車と衝突するなんてことは、まるで木の葉が大河の流れに連れ去られるように避けがたい天命というものを感じる。
人間も猫も走る自動車の前ではそう変わらないだろう。
あっと思ったが最期だ。
まあ、よく「猫の死体を見て悲しいと思ったら呪われる」というが、あれこそ「悲しい」ではなく「哀れ」と表現するべきところだろう。

悲しいはもっと自分に寄り添った表現だ。
ボクは、悲しみはなかなか説明できない。
悲しいとしか言いようがないからだ。

悲しみと哀れの説明になってしまった。
しかし、ボクは案外、悲しみだとか哀れみだとかに対しては好印象だ。
ボクが耽美を好む理由と同じように、さらりとした優美さを感じるからだ。
げらげら大笑いする10代に囲まれていると、それがどうしても野暮ったく思えてならず、そのせいか悲しみや哀れみに近づきたくなる。
元気なハッピーエンドもいいが、悲劇もやっぱり欲しくなるものなのだ。

2009年10月24日土曜日

もっとも注目する人 ’松岡正剛’について

松岡正剛のことは何度も書いてきた。
彼の著書も買い集めている。
これからも買い続けているだろう。
誰かの本を買い集めるなんてことはいままでなかった。
第一、ボクは飽きっぽいし、面倒くさがり屋だからだ。
集めている作家といえば、まあシェークスピアが4冊ほど、芥川と太宰が2冊ほど。
5冊さえ超えない。
その点、松岡正剛の著書は6冊だ。その上、彼の「千夜千冊」での感想を参考に本を買うから、そういう意味では本の購入のマエストロと言う重きもボクのなかでは担っている。
だから、松岡正剛は特別な存在だ。
存在と言ったのは、彼が特に何か専門的な肩書を持っているわけではないからだ。

しかし、松岡正剛は何でもやる。
明らかに「行動の人」だ。
行動の人こそ学問を好きになる人だとボクは確信している。いままでも、これからも、きっとそうだろう。
年内、何度もシンポジウムを開き、雑誌にも多くの記事を載せており、ISIS編集学校の創設者・学長であり、千夜千冊というただの「読書感想文」というにはもったいないほどの思索の大原稿をネットで公表しており、新書ランキングにも入選するほどの作家でもある。
彼は、今でもその時でも有名な作家やアーティスト、思想家、学者など多くの人々に会いに行っている。
先日も「セイゴウちゃんねる」で編集工学研究所に中田英寿が訪問し、プライベートな対談を行ったと書いてあった。
写真にはヒデとセイゴウが。
セイゴウは大のサッカーファンである。
また、松岡正剛の日本文化についての見解は新聞のコラムにも取り上げられている。
そんな松岡正剛を知ったのは、昨年の4月だったかな、たまたま見ていたテレビ番組に「松岡正剛というマルチ的な学問をする人が出る」というので観ていた。
そのとき、マルチ的な学問、全般的な学問に興味があったので強く惹かれた。番組を観たとき、番組の編集もよかった上、その彼の学問的センスとその声とその風貌に一目惚れしてしまい今に至る。
きっと、これからどんどんメディアにも登場するのであろう

ボクは、身勝手ながらそういうボクだけのサブカル的存在が日の当る場所に出ていくのにいい気分はしない。
アニメにしろ、漫画にしろ、いわゆるオタク文化にしろ、「理解されたい」なんていう気はない。
むしろ、こそこそやっている方がいい。
ただ、松岡正剛の存在はボクが思っているほど小さくはない。
鳩山首相が、首相になる数か月前に松岡正剛と会っている写真をセイゴウちゃんねるで見ている。
このままじゃ、絶対に世の中がほっとかない。
松岡正剛は、もっと影の人であってほしい。ブームにならないでほしい。早く会ってみたい。
いまも彼をムービーで観ている。

まず「前提」あり

なににでも「前提」がある。


今回のテーマは「前提」である。
ボクは小林秀雄の講演(1960年)を聴いたとき、この言葉の重きに触れられた。
それ以来、なにかものを考えるときには、まず「前提」から考える。
特に古い問題、歴史関係の問題について考えるときには必ず前提を踏まえて考えないと、空想と化してしまう。
例えば、BLが市民権を獲得しようとしている現在と「おかま」や「ゲイ」だと非難を避けるため人目をはばかる必要があった数十年前との同性愛を取り巻く環境の相違を考えると、そこには歴史的な前提があるではないか。
同性愛というものがある程度社会において寛容に扱われるようになった、これが現在の前提にあるではないか。
日本古来の同性愛の文化が廃れていった近代以降、同性愛はすべて切り捨てられてきた。
それが数十年前までの一般社会における常識であったはずだ。
しかし、それが今は「王様のブランチ」のコミックランキング10位以内にも入ってしまい、本屋ではそのコミックが平積みされ店頭に並ぶほど、「ボーイズラブ」と呼ばれる同性愛文化が認知され迎え入れられてきているではないか。
ひとつの問題をひとつで放っておかないことだ。

前提から考えなおせば、きっとヒントが見えてくるはず。
ものを知る為には「前提」や「原因」を読み取り、構図にして咀嚼する、これが自分のなかで理解したということではないのか。

”村”という政治体系

今日、ボクの住む町内(班と呼ばれているが)で、バーベキューが行われた。まあ、バーベキューといっても日本のバーベキュー。
作法も精神もないバーベキューだったから、もはや野外の宴会、それも町内でやっているのだから、むろん寄り合いにもなった。
これはただの馬鹿騒ぎではないのだ。いわゆる政治である。
ここでは陰口が飛び交い、冗談と本音が共に出る。「なあなあ」な感じはあるが、そこには了見と建前がいるものなのだ。
これは一種のパワーゲームであり、ミクロの社会であり、「いま」を語り合う場である。
けして失われてはいけない「村」の政治の在り方。
村というのは市町村の村ではない、一種の地域の在り方である。
村はいつの時代も百姓の統べる自治体でなければならないと思う。
「百姓」とは農民だけではない、むしろ農業をベースに敷き、副業を必ず行う者たちのことだ。
百姓とは、その中で政治が行える集団なのである。だから、どんな社会でも構成員は、全員百姓とも言い切れる。
「もと」は百姓なのだ。貴族も武士も最初は百姓だった。
これは起源説ではない、むしろ、その生活システムのベースとして百姓の働きは絶対に必要だからである。
無論、貴族も武士も起源は百姓である。
ただ、その「百姓」という社会の階層のなかで上位についた者が貴族になり、武装することで上位についた者が武士になったのだ。
百姓とはその字のごとく、社会(姓)全ての人々のことである。
社会を知るには百姓を知るほか道はない、と言い切れる。

耽美を知る~名作たる同性愛コミックの読後~

ボクは漫画好きだが全ての漫画を知っているわけではない。
だから、漫画をひとくくりに話すことはできない。
ただ、かすかな経験から言わせれば漫画に「悲劇」はないということである。
悲劇的な結末は、もともとは「幼稚」な文化である漫画にはあってはいけないように思う。
しかし、先日それに出会ったのだ。
だから、いま、体と頭が重い。本当に尾を引いている。
精神的な攻撃がとても激しかったのだ。
読書及び文化の攻撃というのは精神を狙ってくるから質が悪い。
『美少年』(原作:団鬼六 絵:小野塚カホリ)を19日買って20日のAM0:00から読んだ。結末がとても悲劇的で、ボク個人としては正直なところ性に合わなかった。
ストーリーに凌辱シーンがあってもボクはいいと思っている。ただあの主人公には腹が立ってならなかった
ああいうタイプは一生ボクとは関わることがないだろう。
中途半端だよ、優柔不断だよ。背負いこめていない。
「覚悟」、最近この言葉について考えている。

人生において最も重宝すべき言葉ではないか。
人は人と付き合うことこそ人生と言えよう、ならば他人との付き合いの心構えとしての「覚悟」を片時も離してはいけない。
半端なら死んでも半端だという覚悟だよ、これは。
ボクは人生を懸けて人生を生きていたいから、軽率な行動や浅はかな行為にかんしては憤りを感じずにはいれない。
「非情」も嫌いだ。他人の弱みにつけ込んで欲を貪るなんてことはエロスとしても品に欠ける。
上品なエロスこそ上方文化の専売特許だ。
あの作品はそのミスマッチを利用したようでもある。
上品な女性に育てられてきた美少年を荒々しく犯す、そのナンセンス。それは実に面白いことなのだが、ボクは性分からやはり好めない。
小野塚カホリの絵の妖艶さはたいへんよかった。

この作品がBLなのかどうかは否定されて良いだろう、しかし「艶」はBLにも同性愛という広いジャンルにおいても欠かせない絵の要素だ。
ここから彼女の作品を読んでいきたい。
また、本の装丁もとても良い。
菊雄がカラーできれいに描かれており、背景は黒、題字は赤、裏には女形の菊雄、そこの文字の縦書きもよかった。
官能小説家・団鬼六を意識してのことだろう。
紙の質もよかった。
本の大きさもボク好みだった。
中も外も美しさにこだわりを感じた。
久々の「官能」でもあった。
エロ漫画なんてものは夏から秋までで400冊近くを読んでいるのだろうが、“官能”は本当に久しぶりの感覚であった。
そのおかげもあり1日経ってもくらくらしている。
「耽美」なんて言葉はすぐに人を陶酔の世界に陥れるから使うのもはばかりたいものだ。

しかし、正直なところあれは耽美だった、そうとしか言えない。

最近は茶器を中心とした骨董に興味が出てきたから「耽美」だとか「詫び寂び」だとかいう美意識をどうしても他の趣味にも用いたくなる。
幸田露伴の「骨董」、中島誠之助がラジオで喋っていた「古物」、小林秀雄や青山次郎の「目利き」、どれも艶と耽美を知っている。
骨董の目をもって『美少年』を読んでいた。
好きなものはそうやって読んでいきたい。

2009年10月17日土曜日

貴族性と武士性~素人歴史考察~

さっき考えていた。
貴族と武士のことである。

貴族と武士の生活の制度や様式こそ違え、起源は同じではないか。
貴族だって戦っていた者ではないか。
武士が歴史上に登場するまで軍を率いていた者はだれか、武官である。
立派な貴族の役職である。
貴族のイメージはどうも源氏物語のような国風文化が確立する平安時代中期から後期に由来するようだ。
どうもなよなよして甲高い声でしゃべる顔の白い弱腰の男、草食系男子の性質に近いだろう。
もしくは「女ばかりにうつつを抜かす」など光源氏を誤解したイメージもあるかもしれない。
また、愛憎渦巻く宮中、嫉妬と欲望のドラマというイメージも確かにある。
しかし、貴族だって兵がいただろうし、武に打ち込む質実剛健な者もいただろう。

ただ、武士が出現したからには「武」は武士のものとなったのではないか。
いやしかし、武士が出現しただけでは、「武」が貴族の下から去るということに直結しない。
貴族がいくさの指揮を執るかもしれない。
武士の出現ではなく、武士の台頭にこそ「武」の移動があったとみえる。
武士がいるからには貴族が武装する必要はない、「武」に関わる必要はない。

ただ、貴族性は必ず階級社会では現れる。
武士も上位の者になればなるほど貴族性が現れ、特に太平の世の中では貴族型の生活を送った。
特に江戸時代は、武士から戦国時代のような荒々しさを取り除くことから始まっているから貴族性が現れた官僚型の高級武士がよく見られる。
それも太平の世の中のおかげであろう。
武士を「武」張らせないようにしたのだから、貴族になるのも当たり前である。
もちろん、これは高級武士の場合であるから、下位の武士は「武」張ったものが残っている。
だから、幕末の英雄たちは剣の腕があった。
唯一、残っている「武」張ったもの、武術を継承していったのは、下位の武士、貧しい武士たちであった。

話は、貴族性と武士性が歴史的な社会のなかで人間の型として存在し連動していたという歴史スペクタルな部分に到達した。

2009年10月16日金曜日

共感されない前提が人生にはある、だからこそ

言ってみれば、このブログで書くということもそうだ。
テーマこそ覚えているが、それに対する情熱だとか思いだとか、そういう感覚を忘れてしまうことがある。
原因はボクの文章の拙さだろう。
ボクは「完全な共感」という完全な気持ちの共有こそ表現の頂点であると考えている。
すると、思いを文字に変換する際、緊張が走る。
適語であるか。
いや、一般的には適していなくとも、より共感してもらえる書き方があるのではないか。
それは方法論として文字文明が積み上げてきたものの一つだ。
例えば、それは倒置法なり体言止めである。
正攻法でしか伝わらないもの、奇策で伝わるもの、人間が持つ共感の能力をどう掘り起こすか。
大きなテーマだ。
文字を一つの大きな基盤にした社会で生きる我々にとって、表現の方法を適材適所に使い分けることは社会の人間すべてが目指すべきである。
その意味では社会の人間、つまり「全人類みな表現者」なわけだ。
文士や絵描き、クリエイター、編集者などと職種にない表現者にも素晴らしい表現を持つ人は多くいる。
例えば、銭湯のおやじさんは銭湯をきれいに掃除し、銭湯を運営し、その上、客に気さくに話しかけてもくれる。
十分な表現ではないか。
そういう目を持ち、共感の触手を広げ続けなければならない。

2009年10月15日木曜日

「燃やす」ということ

日曜日に庭の大きな梅の木を燃やした。
腐っているわけでもなかったが、木にもう生気がなく、水さえ欲しがっていなかった。
いわゆる立ち枯れである。
切る前から枯れているわけだから、秋晴れの今日ならばボウボウ燃える。
最初こそくすぶっているわけだが、そこに少しずつ薪を積んでやるとたくましいものになる。

やはり燃やすなら木だ。
草を燃やすのは害虫駆除のためだし、プラスチックを燃やすのは臭いから嫌だ。
木は燃やしてもいい大きさの火にしかならない、いい香りもする。

「木を燃やす」
それだけでも色々な方法もある。
いや方法と言うより趣の種類がある。
小枝を燃やす、丸太を燃やす、切って燃やす、折って燃やす、組んで燃やす、積んで燃やす。
火の顔と言うのは燃やし手が誘ってやっと出てくるものである。
ひと昔前、台所にまだお釜があったころ、これは火の面倒をみるということは庶民の女性として常識であった。
IHができて、すでに書いた台所での火との付き合いというのはなくなったわけだが、火と人間の関係は離れられないものになっている。
火は必ずやこれからも人間に使われることになろう。火を操るのは人間の象徴でもあるわけだから、火と付き合ってみるのは危険だが必要な上、楽しい。
いや、危険なものには必ず関わる必要性がある。
そこが面白いわけである、なぜか面白いわけだ。
ただの火遊びずきの助平では終わらない「火の学」。

2009年10月14日水曜日

小説と思想~「小説家」というコンセプト~

懸賞を狙って小説でも書こうとしている。
さきほどから、小説のあらすじを頭の中で思いついてはボツ・・・、「あっ・・」と思い付いては即ボツの繰り返しである。
やはり小説家というのはセンスが必要なのだろう。
三島由紀夫は書き直すことがなかったというぐらいだから三島は本当の小説家であり、本当に何かを書きたかったのだと思った。
第一、三島は「行動の人」である。
「楯の会」を組織し、東大全共闘とシンポジウムを開き、切腹で死ぬような人である。
いや、そもそも文章書いて食べていこうという人である。
激しい人である。

近代から日本の小説家と思想家が重なり合ったと言われている。
(いや、日本は「小説」という言葉自体が近代に誕生したのだから、「小説家という思想家が生まれた」、そう言い換えた方が適切である。)
しかし、なにも思想家が小説家、いわゆる物書きになったわけではない。
小説家が思想家になったとしても、書く前から自身の作を思想でまとめようなどという趣は読者としてまったく受けてとれない。
書こうとしたのは思想ではない、むしろ、「感想の変化球」とでも言えばよいか、あくまで小説とは「相手からの質問」である。
漱石も鴎外も「たとえ話」にすぎないのだ。
「で、どう?」というのが本の主旨であって、決して思想的な主題の提示などではない。
相手が投げつけるのは「こういう人生」、「こういう人」、「こういう事件」なのであり、そして「返答を待つ」の姿勢を取っている。
ボクはあくまで思想というのは自分のなかで組み立てるものではないかと思っている。
つまり、小説には思想はないが小説から思想を組み立てることができる。
小説にあるのは人生であり、大きな枠組みでいえば「物語」である。
もし、思想書と小説を同一視しているのであれば、それは大きな勘違いである。

2009年10月13日火曜日

自由な授業

秋も深まり10月13日。
最近やっと涼しい秋らしい気温になったと思う。
こういう時期は少ない。
いまと春先ぐらいだ。
いまが一番ボク好み。



ボクは高校生だから、当然、授業で黒板をノートに写す。
そして、ノートを見直すと、ノートごとに個性がある。
つまり、黒板ごとに個性が、教師ごとに教え方の個性がある。
その個性を比較するのは面白い。
まとめ方が下手な教師、やたらと色を使いたがる教師など人間性が現れ、彼らの編集能力がわかる。
高校教師程度ならみな似たようなものだろうが、大学なら教え方にもっと個性が出ているはず。
スクリーンに映し出したり、黒板に書きだしたり、配布したプリントとトークとジェスチャー、それを考えると今から楽しくなる。

ボクだったら、少女漫画で教えるだろう。
特に少女漫画が描けるわけではないが、きっと受けがいいはずだ。
まあ、毎日やるとしたら普通に不可能なのだが、月一で「まとめのプリント」として作成するのはどうだろうか。
教師の文字が美しいことは喜ばしいことだが、絵も描けることもだいじだ。
それが漫画絵だったらなおよし。
教科書の文字を、わかってもらうためにどう調理するのか、そこが腕の見せ所。
教えるということにもっと自由を持たせないと、生徒も「家で勉強した方がまし」だろう。

2009年10月12日月曜日

獅子を夢見る仔獅子

実は幼稚園の思い出アルバムに、ボクは将来なりたいものを「ライオン」と書き、絵を添えて、「ライオンになったら岩場で寝そべりたい」などという文章を残している。
それは、小学生、中学生のころには耐えがたいことで、同じく卒園していった子の全てのアルバムを燃やしたいと思っていた。
しかし、先日ふとそのことを思い出していた。
そしたら、「あの時、本当に夢を描いていたのはボクだけだった」そんな気がしてきた。
そんなに子どもの数は多くなかったから他の子のも少しは覚えているが、たいていの子は女の子ならケーキ屋さんやペットショップ、男の子なら自動車屋さんや野球選手、おもちゃ屋さんと書いていた。
しかし、彼らは本当にそれになりたかったのか。
ただ、書くべきことと割り切っていたのではないか、ボクは本気でライオンになりたかった。
ボクは正直、現時点でなりたいものなど特になく、ただこの田舎でのんびり過ごしたいぐらいに考えている。
その意味ではあの時と変わらない。
別にライオンだからといって何かを殺したいなどという恐ろしい考えはなかった。
ただ、雄々しき獣がのんびりと余裕の表情で過ごしている様子にはいつも憧れがあった。
社会から決別したいわけではなかった。
かといって、社会にどっぷり浸かりたいわけでもなかった。
力も欲しかった。
力はあるが力を出さない、そんな余裕が欲しかったのだろう。
そもそもそういう夢はのんびり屋のボクには合っていた。
しかしまた、激しい気性を隠していたボクにも合っていた。
そして、それはいまカントリージェントルマンの形で憧れとなっている。

2009年10月10日土曜日

アナルという人類最後の秘境を求めて

告白します。
ボクはアナル嗜好の人間です。
アナルを掘りたくてたまらない。
アナルファックなんてものは今の流行でもあるわけだが、ボクは最初からそうだった。
生まれついてのアナルマニア。
また、アナルに付き添う形でスカトロにも大いに興味がある。
それに関する書籍もビデオも持っている。

なんとも言えない、割り切れないアナルへの想いがボクにはある。
その上、ボクはBL好きだ。
しかし、調べてみるとボクだけがそうではないらしい。
ショタ同人ではアナルセックスが必ず登場する。
稲垣足穂は『少年愛の美学』を出している。
いや、そもそも同性愛の文化は世界中にある。
それはプラトンであったり、戦国武将であったり、ゲイ・カルチャーであったりしている。
当然のごとく、深いテーマだ。
「男性」も「女性」もない人間の根本にかかわるテーマだろう。
そもそも男性と女性というセクシュアルやジェンダーはもっと繊細な区分のはずだ。

いや、何もアナル嗜好は少年愛がらみだけではない。
女性に対してもアナル嗜好を持ち合わせている。
女性は豊満なヒップを持っているから艶がある。
特にアナル大国・アメリカの女性はアナルが似合う。

あまりこの手の話を持ち出さないが、下ネタなどと放り出さないでこのテーマにアプローチしていくことは大切であるはずだ。
ただのエロ話では終われせてはいけないはずだ。

2009年10月9日金曜日

あの頃のボクを守る

いまとなってはどんなものだったか、また誰が誰のかさえ覚えてはいない。
ただ、恥ずかしいことだけが残っている。

ボクが幼稚園児であったころ、幼稚園では一人ひとりクイズを出す日があった。
幼稚園児だから答えのすぐ出るようなクイズを出しては他の子に当てられていた。
ある日の担当がボクで簡単なクイズを出した。

「カブトムシの足は何本か?」

もちろん、座って聞いている子の一人が「6本。」とすぐに答える。
しかし、あのときなぜそんな解答を用意していたのかは忘れてしまったが、ボクは、

「3本だよ。」

という答えを、簡単すぎる問題に下を向いたり、横の子にちょっかいを出したりしている子たちに返したのだ。
ボクは即刻、「違うよ。」と否定され、泣きそうだった。
何も言い返せずにボクのクイズの幕は下りた。
そのあとのことはよほど惨めだったからか覚えていない。
しかし、あのとき確かになにか正解としての確かな手ごたえはあった。
それだけはずっといままで残っている。

つい、先日、そんな昔話を思い出していた。
いや、それが初めてではない。
今に至るまで何度も何度も思い返していた。
ただ、先日までは恥ずかしさだけが掘り起こされて、すぐにフタを閉じるだけだった。
先日にあのときの手ごたえがわかった。
あれは、屁理屈だった
カブトムシは6本足だが、3本足でもある。
つまり、「最大6本足という一般的な正答も正答ではあるが、3本も1本も0<X<6のなかに入っているので間違いではないはずだ」という幼稚園児ながらの可愛げのない屁理屈だったのだ。
それを理解したとき、あのとき自分に非がなかったことに、十数年という時間をまたいで安堵した。
または、小さい頃から虫好きだったから、野性のカブトムシには事故か喧嘩で足の欠けた個体をよく見ていたからそれを基にしてしまったのかもしれない。

また、ボクはあのときに世間というものの恐ろしさも経験したのだ。
自信のあっても、それが正しくとも、それを潰してしまう世間というものが小さいながらもあの場にあったことは書き漏らしてはいけない。
それが人間として生きる上で大きく関わるキーワード:世間への第一歩であるからだ。

風邪はいつもここから

風邪をひいている。
喉がつらい。
鼻もやられてきている。
体がぼろぼろに痛い。
目の周りが張っている。
顔が熱い。
体全体が熱い。
頭もボーっとしている。
熱は7度7分といつも低熱だ。

自分の風邪のパターンはよく理解している。
たいてい鼻から入って喉がやられる。
まあ、今回は反対だったが。
しかし、今日がちょうど峠だろう。
もしくは明日か。

風邪の原因はわからないが、多分、体の免疫の低下だろう。
いや、ほとんどの病気の原因はそこか。
免疫の低下が病原菌の増加を促してしまうのだろう。
ボクはちょっとぞっとした。
周りは敵だらけだ。
生きるってことは周りの無数の敵に勝っていかないといけないようだ。
ボクはいま、ちょうど決戦に入っているのだろう。
ガン細胞が一日ものすごい数で生まれているのを知ったとき、常に戦わなければならないのだと自覚した。

はっきり言って絶望した。
闘いしかないのか・・・。
はい、そうです。
鱒二いわく、「さよならだけが人生だ」。

2009年10月7日水曜日

『ロストイントランスレーション』、いい映画。

今年の秋は映画の秋のようだ。
映画といってもレンタルDVDや途中までしか見ていない家庭用DVDを見ていただけなのだが。
まあ、特におもしろかったのは『ロストイントランスレーション』。
これは2年ほど前にタイトルを知ったが、その長いタイトルのせいか探しもしなかった。
恋愛ものを観慣れていなかったせいかもしれない。

たまたまレンタルビデオショップで見かけたので借りてみた。
これがとても面白い。
何が面白いかと言うと、大人の淡い恋がテーマだが、舞台となっている「Tokyoのおかしさ」である。
如実に日本人を映し出した映画なのだ、この作品は。
アメリカ人から見れば、ズレっぱなしの日本人、ナンセンスな日本人、ジョルジュ・ビゴーの風刺画を観ているようだ。
そこも映画製作のミソのようで、あれは製作側から言わせればコメディーらしいが、笑えるようで笑えない。
そこを含めてもいい映画だったし、音楽や画質、ストーリー、ファッションなど諸々においてきれいな映画だった。

2009年10月4日日曜日

鶴下絵和歌巻を読む、見る。~宗達と光悦、自由な人たち~

「鶴下絵和歌巻」を見てきた。
地元の美術館に国宝展があった。

高校生は無料。
大学生は700円。
すごい差だ。
高校生が無料だということを知ったのはふた月ほど前。
正直、もっと利用すべきだったと後悔している。
部活で近くをよく通っていたから余計にだ。

国宝展だから層々たる作品の数々、空海も応挙も雪舟もいた。
しかし、ボクはそれらを見ても何がすごいのかわからない。
周りの人たちは、皆「すごい、素晴らしい」と言っていたが、「大したもんだ」と感心していた。
ボクは「ああ・・・、思っていたよりでかい。」
それぐらいだ。

応挙は確かに面白かった。
写実した鹿と金箔がマッチしていた。
金箔の光が鹿の体毛一本一本を際立たせていたように感じる。

とりあえず、本来の目的は「鶴下絵和歌巻」だから話を戻そう。
ボクはあれをずっと色紙サイズの作品だと勘違いしていた。
初めてみたのは雑誌でだから、そのぐらいだろうと思ってしまった。
「鶴下絵和歌巻」なんだから絵巻で当然なのだが、題は確認していなかった。
でも、たしかにあれは琳派の自由を感じる。
宗達の鶴もきれいだ。
光悦の書もまとまっているようで滑らか。
ゆるいのだ。
「鶴下絵和歌巻」が欲しくなった。

飲み物ボク好み

さきほど、知人から頂いたお手製のブドウジュースを飲んだ。
一週間だけしか保存できないから早く飲むようにラベルにペンで書いてあった。
赤紫色でワインと同じように熟成されていないせいであろう。

味はとても酸っぱい。
甘さはほんの少し感じられる程度だった。
ただ、発行しているせいか炭酸を感じた。
一般的にはまあまあだろうが、まだ熟成されていない味がボク好みだった。
飲むのはボクぐらいだから、夜中にちびちび飲んでいる。
また、手書きのラベルとワインボトルが気に入っている。
先日観た『ハンニバル』の影響かもしれない。

ただ、ワインもどきのジュースを自室で、音楽を聴きながら、本を読みながら、ラジオを聴きながら、減り具合を見ながら飲むのは酔狂かもしれないが、確かに悦に入ってしまう。
ブドウの香りというより「臭い」に近い本物の香りを楽しむ。
少しの渋と粒になった果肉のザラッとした口当たりはかえって心地よい。
ボクが本物嗜好だからだろうか。
いや、「本物の発見」を趣味にしているからだろう。

2009年10月2日金曜日

自律の始まり

「ネットから離れられない」
この癖をどうにかするためにいま周辺環境から変えている。
つまり、ボクはノートパソコンを使っているから、コードを抜いて使っているのだ。
そうすると、パソコンを使える時間は1時間程。
こういう環境から変えていく方が実用的だ。
北風政策よりも太陽政策の方が方法論として理に合っている。
政治にしても自己管理にしても常々そうだと感じている。

2009年10月1日木曜日

考えることは、言葉。

一日だ。
日ごろ思うのは、一日目があって本当に救われるのだ。
人間どこかできりをつけないと気持ちが悪い。
一日のおかげで「今日から始めるぞ。」と思える。
仕事の目途も立つ。
だから、1か月単位で一日が来るのはありがたい。
10月はブログでどんどん頭の運動。



言葉が社会の根幹に据えられたまさしく「ソース」であることは間違いない。
ボクたちは滅多にそういうことを考えないから、言葉と社会のかかわりを言語学に託してしまっている。
しかし、ふと考えてしまうはずだ、それを。
難しいようだが、メールやブログが「氾濫」と言われるまでに社会のなかで市民権を得ているのだから、言葉の工夫は誰でも考えてしまう。
言葉がどれほどの力を秘めているのか。
漢字が象形文字から発達しているということにも大きく関わると思っている。

また、社会学と絡めると、東京に印刷業・出版業が多いのも、これに関わるからだと思っている。
首都で、つまり、政治の中心で言葉を生産することは権力につながっているのだ。
元々、言葉を扱えるのは、上流社会の人間のみであったことは、文字が社会を形成する上で大きな意味を持っていたからだろう。

「言葉と政治と権力」

これが現代においても感じられる「言葉の呪性」だろう。
言葉そのものが呪文である。

2009年9月12日土曜日

書きたくないから、書けない。

自己満足に罪悪を感じていない。

だから、平気で書かないのをつづけられてしまう....。

(いまは他人のブログに読み手としてはまっているし)

もしかしたら、9月はもう書かないかも。

2009年9月4日金曜日

もう、嫌だ。

体育大会はつまらんので、あほくさいので、とにかく苦痛。

2009年9月1日火曜日

表現者としてイヤになるな。

ボクは表現者でありたいと願っている。
だから、表現者である人、その道を深めている人にはとても興味があるから、彼らの表現にはいつも食いついている。
ボクも彼らのように創造的な表現を生み出したい。
しかし、ボクはボクの書いた文章や詩を読み返す度に後悔する。
どこかで見たような、聞いたような。
そんなものばかりを作っている。
つまり、模造やコピーを繰り返しているのだ。
もちろん、模造やコピーが表現をふくむ人間の営みの原点にあり、それが歴史を積み上げてきたことは間違いない。
ただ、ちっとも挑戦していない作品については本当に嫌悪してしまう。
本当に自分色を出すためには、先人に挑戦し、彼らを否定しなければならないときが必ずある。
そう常にありたい。

2009年8月31日月曜日

終わる夏へのさようなら

夏が終わる。
 
終わりの合図は台風だった。

今年もまた残念、無念、また来週。

どうしてまともな夏を送れないのか。

2009年8月29日土曜日

小言ジジイ、侮ることなかれ。

うちの祖父は小言ばかり言っている。
先日もヘキサゴンを観ていると、こんなもんもわからんのか、などと嘲っていた。

ボクは以前、年の功についてよく考え、それについてはここにもしょっちゅう書いていた。
ボクはいまも年の功は存在するし、それが健全な人間の老いだろうと思っている。
それでは、うちの祖父は年の功を積んでこなかった堕落した人間ということになるのだろうか。
ボクの祖父は、たしかに聖人君主にはならなかったわけではある。
ボクは祖父について特に庇いだてするわけでもないが、ボクは祖父のような小言を言う老人は健全に老いていないわけではないと考えている。
それは、たとえば少年が、もし老人のような小言を呟いていたならば、それはいじけているだけ、不満があるだけであり彼の心は苦しくなっているはずだ。
しかしだ、老人の小言というのは決して苦しみはない。
それは一見、罵倒のようであるが、老人の心に悪はない。
むしろ、馬鹿にする者への愛情や親心があり、年長者としてのゆとりがある。
ボクの考えるに、小言老人なんてものはむしろ正道を歩んでいる。
まあ、目指すは聖人君主だろうが、人類がみな聖人や君主になれるとは思えない。
しかし、小言老人は聖人君主への境地のひとつであろうとは思う。
心のゆとりなくして、人間、大器を抱くことなどないであろう。
だから、人間まず目指すは小言老人なのだ。

巨人のはなし

「風の谷のナウシカ」には巨神兵という巨人が存在する。
巨神兵はアニメでは悪の兵器であったが漫画では明らかなキーマンである。

巨神兵は大きく人に近い形をとり、ビームとその体躯で戦う。
これは巨人のシンボルなのだ。
ビームにしろその圧倒的な体力にしろ彼らの武器はその単純な自身の力だ。
巨人は世界中に神話や伝説でその存在を残し、今でも小説や映画に登場する。
彼らに共通するのは彼らは恐ろしく見た目は人間だが人間とは異質の存在であることだ。
巨人は人間とは違い非文明的な格好でその圧倒的な体力で戦う。
彼らは「自然」の化身なのだ。
それは自然環境ではない。
「純粋さ」そのものだ。
「純粋さ」非文明、無知識のことであり、果実を口にする前のアダムとイブだ。
人類のように文明をもったからこそ手に入れた知識はいっさい巨人に見当たらない。
彼らはもっと単純に破壊し純粋な心を持ち質素な生活を送る。
馬鹿のように大きく、馬鹿力なのだ。

巨人文化はあらゆるところにある。
ゴジラやエヴァンゲリオン、デイダラボッチにタイタン。
絵画で言えば、フォーヴィズムも巨人的絵画であろう。

野性的であるものには巨人性が見受けられる。
巨人性ともいえるものは巨岩信仰だったり大木信仰だったりする。
自然災害も巨人を意味する。
家々を飲み込む洪水、津波、地面を平気でえぐる地震、一瞬で焼き尽くす雷、山火事。
あれらはときどき生物のように見えてくる。
そして、現段階では人類は自然災害を避けることも防ぐこともできない、逃げるのみである。

自然災害の力は単純である。
真っ向から強大な力を押し込むだけ。
それこそ巨人性だ。
人間の蓄積してきた技や知恵などまるでない。
現在、人類は一向に巨人性の圧倒的な力に屈している。

睡眠も運動

最近、どうも疲れが抜けずにたまらない。
でも、暑いから外にも出ていない。
スポーツなんて私的にする人間でもないので、筋肉痛ではない。
妙な好みだが、筋肉痛は建設的であるから痛みもうれしくなってくる。
今ボクがもっている疲れはどうもダルさに近いように感じる。
とりあえずは寝ようとしているのだが、夏休みは義務的に夜更かしをしたくなる。
ボクみたいな一見、健全な男子高校生はそういう地味に悪びれたいところがあってたちが悪い。
この疲れもその気疲れか。

睡眠についてはよく考える。
最近、夜更かししなくとも安眠ができない。
そして、成長するにつれてしっかり寝られなくなってきているようにも感じる。
いまも「安眠」と書いていて、安眠への渇望が湧いてきた。
どうしてこうも眠れないのだろうか。
よく電気をつけっぱなしで眠ることはよくある。
これは確かに体に悪そうだ。
落ち着かない。
よくノートパソコンをロック状態にしているときの明かりの点滅やDVDプレイヤーの時刻表示の明かりは不快になる。
これは気をつけておくべきだな。
無駄な電力の消費も避けられる。

でも、もっと気をつけるべきは寝る前に何をするかだ。
今日、読んだ英語の参考書には睡眠について書かれており、寝る前に体が刺激の強い行動によって興奮状態にあると寝つきが悪くなるとか。
確かにボクはネットで夜中、何時間でも遊んでいるし、テレビを観ている。
目が休まるはずがない。
また、夜中の時間帯は成長期に欠かせないホルモンの働く時間帯であり、それはいわゆる夜更かしの時間帯と重なる。
やはり、体と時間の連携した働きというのは覚えておくべきだろう。
体は太陽を基にした時間によって働いている。
体は自然環境に合わせて作られている。
こういった体のシステムの方が人間の無茶な行動よりずっと理に適っている。
体のつくりはエコロジーや老荘思想のシステムだ。
睡眠もそのうちの重要な働きで、無駄に動かないわけではない。
睡眠という運動なのだ。
この間にも体は、特に脳は夜型の働きをしている。

体のためにも早めに寝ておくことが健全なのだろう。
むしろ、4時くらいから起きていた方が楽かもしれない。
涼しいし、静かだし、一日が長く感じられる。
グローバルスタンダードが唱えられ、情報化社会が根付いても21世紀は早寝早起きへ帰着するのだろう。
太陽とともにある限りはそうだ。
そうあってほしい。

日本人とニッポン論

日本とは何か?
いまの日本論とは何なのか?

日本人は自国をアメリカと同じ視点でしか見られていない、と思う。
その視点とはたとえば、「サムライ」だとか「スシ」だとか。
自国の文化にも関わらず、そんな売り文句のニッポンしか知っていないのだ。
それはなぜか?
きっと、日本社会全体が画一化されていったためであろう。
よくある商店街、よくある街並み、コンビニのような全国チェーンは社会そのもののことだ。
そして、日本は自分の姿を見失っていった。

サムライだとか、スシだとかはあくまで外国人向けの置物ぐらいのはずだ。
たしかにあれも日本だと認めるべき概念だ。
ただ、それは日本人が認めるべき日本ではない、とはっきり言いたい。
それは日本を一つの視点でしか見ることができない日本の姿だ。
日本はもっと多文化で多くの視点を持ち、奥ゆかしくい面倒な構造をしているはずだ。

例の一つに「地方」を挙げることができる。
「地方」とは何だ?
「地方」、「田舎」、「故郷」、「ふるさと」、それらは日本という全体の観念の縮小版だ。
日本には地方しか存在していないのだ。

「地方国日本」

田舎ばかりが日本の真の姿だ。
原因は東京のような狭い街を首都以上の存在にしてしまったからだろう。
(まだ、考えあぐねている途中だが、東京論こそ日本論のカギのはずだ。)
そしてまた、日本はあまりに山が多すぎるからだろう。
つまり、比較的に極端な自然が身近にありすぎるのだ。
どんな大都会からでも山々が見えるはずだ。
日本の場合、山地がほとんどの面積を占めているから当然なのだが、それでも街と山々の関連性も日本論のカギのはずだ。

2009年8月24日月曜日

世の中、表現だらけなのだ。

たとえば、ボクが警察官になったとしても人生は表現することだという考えは失いたくない。
表現とは芸術家や作家、映画監督など文化に携わる人だけの作業ではない。
全人類の目的は「表現」であるとボクは思う。
つまり、人間である限り表現者を目指さなければならない、というところまで言い切れる。
表現すること、たとえば、冗談を言うこと、握手すること、デートすること、その後の事である。
つまり、表現することとは、他人と大いに親しく付き合うことだ。
まあ、その意味では、妊娠はその究極だ。
自分以外の同種を体に宿すことは愛の表現を究めてはいないだろうか。
母性が尊ばれるのはその滅私の表現が要因であろう。
言葉ではとどめられない愛情表現、生かしてくれる、それを感じることが母への愛情につながる。

ちょっと表現の色眼鏡をかけてみればよい。
いろんなところに表現が隠れ、表現者が潜んでいる。
人間の歴史は表現の歴史でもある。
これからはそう考えてみたい。
その色眼鏡をかけて、その表現の矢印を見つける。
どの方向に表現が向いているのか。
どれだけの表現の矢印が伸びているのか。
その状況と表現の整合性はあるのか。
きっと伝えるということに、大げさに言うと人間の生きる目的に近づけるかもしれない。
そしてまた、「表現」、それがビジネスや文化、学問の新天地かもしれない。

真贋の差―刀を観る―

昨日、地元の美術館で刀の展示をしていたので観に行ってきた。
たしかにきれいなものが幾つかあった。
きれいなもの、それはボクに言わせれば「切れそうな」ものだ。
特にそれは太刀に多かったと思う。
思ったより細身で短く、そして切れそうで使いやすそうであった。

ボクは剣術に興味があるから、刀の形状を観て、どんなふうに使うかを考えていた。
しかし、いわゆる名刀というものをボクはよく理解できないので「ただ
見た」ぐらいのものだ。
ただ、家に帰ると部屋の脇にある関の孫六写しの模擬刀を抜いてみて、すぐわかった。
ああ、たしかにあれは名刀だったのだ、と。
どうにも残念だった。
美術館へ出発する前にも、その三本杉の波紋を眺めていたはずだ。
これが本物と一万何千円の偽物との明らかな差というものか、今もどうしようもない気分のままである。
本物と偽物をあそこまで徹底して教え込まれたことはなかった。
正直なところを言えば、重要文化財であるあの名刀を盗み出したい。
そして、それを振り回して、適当になにかを切ってみて笑いたい。
馬鹿みたいに恐ろしい額の、第一級の美術品の刀を使ってみたくてしようがない。

たしかに貴重な体験であった。
ボクは剣術家だ。
だから、刀は使ってこそ価値のあるものという観念に囚われている。
そして、使うならば最高の仕上げを持つ刀でありたいという欲も至って当然のごとく持ち合わせている。
だから、本物を見るとどうしてそれを思ってしまう。
そうして、ボクは刀の世界にどんどん深くはまっていくのだろう。

2009年8月21日金曜日

マツリ分析の巻~現代文化における祭り~

祭りをイメージする。
鉄パイプと鉄製の足場で造られたやぐら、電気で付く提灯、工事用のライト、カセットテープから流れる音頭、町内会の分担で決めた屋台、紙コップでビール、トレーで焼き鳥、これが現代お祭り文化だ。
これをボクは「製品型祭り」と呼ぶ。

これは祭りの亜流、もっと悪く言えば、邪道である。
祭りは神事である。
葵祭りや神田祭のように有数の祭りが日本の伝統文化として保存の意味でいまも盛大に行われている。
しかし、地方の祭りとそれらとは全く異なった文化だ。
それは製品型祭りとは現代人の知る本当のお祭りであり、葵祭りや神田祭はむしろニッポンの再発見だ。
製品型祭りに直接的な神事は絡んでいない。
ただ、祭りが神社で行われていたり、音頭があったり、太鼓が響いていたりするだけだ。
それらに誰も振り向かない。
ただの風物詩程度の心持で見る。
いまやこれが祭りの王道だ。
いや昔だってそうだったはずだ。
文明化すると少しずつ娯楽の需要が高まってくる。
それはつまり、人間の欲が広がってくることだ。
ちょっとの楽しみを神事に加えてみた。
そして現代の製品型祭りにいたる。
しかし、それでも祭りは祭り。
大昔からの雰囲気は確かに残っており、現代人はそれも祭りのイメージとしている。
どれだけグローバル化してもモバイル化しても、環境問題が叫ばれても祭りは相変わらず続いており、あの特有の高揚感と怪しさを引きずっている。

「マツリ」は世界中にある。
ただ、日本ほど現代型になり、視点を変えれば「見立て」を生かしている祭りも珍しいだろう。
そこがニッポンの根本的な悪因であり、まだまだ小さいけれどもひとつの文化のはずだ。

2009年8月20日木曜日

終戦のせい?おかげ?

終戦記念日8月15日も過ぎ、今年で終戦64周年だとか。
確かに、太平洋戦争の被害と規模と残したものは大きかったはずだ。
あの戦争とその終戦が20世紀最大の出来事だったようにも思える。
ボクは20世紀終盤に生まれたから実際に記憶に残っていくのは21世紀からであろう。
ある意味、人生は0歳から10代から10代から死ぬまでのように思える。

ほとんど21世紀の人間だ。
それはいつか書いたように子どもと大人の区分のせいかもしれない。
そんな大人時代を21世紀から始めたボク、及びそんな10代、そしてほとんどの社会人は戦争を現実から外している。
そこは現代日本の特徴だ。
そしてそれはつまり、日本は終戦から新生したかのようにイメージされていることである。

なぜ、太平洋戦争終戦は記念されているのか?
それは終戦を記念することは新生を記念していることになるからだ。
原因はGHQの思惑だ。
終戦を記念することは、毎年毎年、戦争を反省させることだけでなく、それに加えて戦前の日本を否定させることになっている。
だから、日本はもっと戦前を再発見しなければならない。
江戸と明治が明らかに異なるように、戦前と戦後も明らかに異なっている。
ただただ首相が戦争についての反省を言明するだけ、靖国神社参拝を行うかどうかだけではなく、終戦記念日を戦前と戦後の境界と意識して戦前日本の再発見したほうがいい。
そうでなければ、相変わらずGHQにはめられて無駄に自虐的になる日本が存在してしまう。
終戦記念日を今までの自虐的路線からうまく逸らして、そして日本文化の再出発点にしようとするぐらい終戦記念日の日本は建設的でちょっと狡猾になるべきだ。

2009年8月18日火曜日

土曜日と夏休み、感覚の緩急がある

夏休みはどうも8月から急ぎ足になるようだ。
1日から今日にいたるまで特に宿題をするでもなし、趣味に励むでもなし、ごろごろベッドの上で寝ていたら今日だ。
なぜかな?
いや、そういうものだとは知っている。
何度も経験している。
夏休みを無駄に過ごすからだと言われそうだが、ボクは決してそうとも思われないのだ。
7月は比較的ゆっくりとしていた。
前にも夏は7月のことだとここで明言していたが、その7月と8月との緩急の感覚はそれから発想したのだろう。

これは「土曜日の感覚」と名付けた。
土曜日はもっとも休日中の休日だ。
日曜日は月曜の予備日だ。
決して無理をしてはならない。
それは「土曜日の感覚」の裏打ちだ。
日曜日という月曜と土曜の間の壁があるから落ち着いて過ごせる。
馬鹿も無理もできる。
これはもちろん心理的な作用だろうが、それでも実在するに違いない。
ちょっとのことなのだが、98円販売と100円販売には明らかな差が出るようにこれも明白の事実なのだ。

この「土曜日の感覚」は人生上、ずっと付きまとってくる。
これが重要だ。
砂時計は半分を過ぎるとまるで速度を速めたかのように感じる。
しかし、これは心理的にそう感じるだけであり、実際は変化なく砂が落ちていく。
それでも、確かに感じる。
理論よりもずっと感覚の方が気持ちいい瞬間だ。
これにより心持もずっと違う。
感性の側に立ちあってこそ実践的な行動がとれるはずだ。
理論も確かに大事だ。
感性に人は色眼鏡をかけられることもある。
非常のときは理論が大いに役立ち、最悪の場合からの逆転を図れる。
ただ、それはそれだ。
平和な日本においてむしろ感性の方が大衆のウケがいいはずだ。
たとえば、大好きなiPodやiPhoneはそれで儲かっている。
一見これは見掛け倒しのようであるが、決してこれは悪徳商法ではない。
人間の真実とは感覚的なのだ。
それはむしろ王道なのだと思う。
だからこそ、ボクはApple社の製品に素晴らしさを感じる。
こういうことを職業人は応用しないと。

「風の谷のナウシカ」は読むもの

「風の谷のナウシカ」を観た。
ナウシカは、いやジブリは1年に何度も見ているが、見るとやはり気持ちいい。
そう、ジブリアニメは「気持ちいい」のだ。
「おもしろい」とか「クオリティが」というより「気持ちいい」。
体が気持ちいいと感じるアニメ、それがジブリアニメだろう。
まるで豆腐を食べているよう。
ジブリは気持ちいい、だから何度も放送されるのだろう。


「風の谷のナウシカ」は漫画が原作である。
もちろん作家は宮崎駿だ。
1週間前ほどにコンビニにあったので立ち読みしていた。
アニメの原作はその1、2巻に当たる。
(もちろん修飾されている部分もあるが)
アニメはストーリーの始めを描いているから「環境問題についての警告」しか世間では捉えられておらず残念である。
もちろん、環境問題に焦点を当てていることは確かだ。
しかし、全ストーリーを解釈するともっとテーゼは深淵でかつ現実的だ。
環境問題というのは確かに深刻な問題なのだが、それは表面的な問題である。
世間ではエコが根付いてきたと同時に相変わらず「そのうちになんとかなる」と思われてもいる。
とくに日本では環境汚染の悪影響が比較的低いからそう環境問題を肌に感じているわけではない。
いわばブームなだけだ。
そして環境問題もそのうち去っていくであろう問題だ。
しかし、「風の谷のナウシカ」のテーゼはどんな時代にも適する。
それは「自己の選択」についてだ。
ナウシカはいたって行動的な女性だ。
危険も顧みないときも多々ある。
しかし、彼女は常に正しさを見出そうとしている。
そしてストーリーの中では全人類にかかわる選択を取る。
「選択」は「生き方」を示す。
環境問題は解決できる問題だからブームにも希望にもなる。
しかし、環境問題の奥には我々の「生き方の選択」が問われている。
環境問題とは有史以来、最大の難関かもしれない。
この問題が完全に解決したとき、我々の生活は恐ろしい変化を来しているはずだ。

2009年8月10日月曜日

思考の仕方を回収中

大人に必要な睡眠時間は8時間といわれている。
まあ、これも世間一般じゃとても多いと思われているだろう。
子どもだって8時間は寝ないであろうに。

よくこういう言い回しがある。
「人生の3分の1は眠っている」
こういう思考をしたとき、いつも、はっとさせられる。
このような考え方があってもよいのか・・・と。

いつも横に考えていた睡眠の時間帯を縦に読み取ったのだから。
思考のパラダイムシフトだ。
ボクはよくこういうものを考えたいと考えている。
つまり、横に考えていたものを縦に考えるのだ。
または、逆に思考するとか。
千夜千冊で松岡正剛が「Q→A」ではなく「A→Q」という思考のトレーニングをしているとあった。
ボクはなによりそういう思考の方法を集めたい。
まあ、作らないのだからずるいが。
しかし、多種多様な思考法を身に付けておくことこそボクの目標だ。
そのためにも哲学や思想を中心に本を読んでいる。
その方法をもって世の中に出たい。
それを持っていれば誰も逆らえない。
死角なしの論が生まれるはずだからだ。
しかも、それは正論だ。
まさしく正論のほかにならないのだ。
それを発言することで世の中に大きく影響する。
そう、思考の方法を磨くとは全知に向かって歩むこととどう同一なのだ。
とても危険な行為である。
学問が孕む危険性だ。
学問をするとはそういうことなのだ。

学生が言うのもおかしいがもっと、学生にはそういう視点でも学問を見つめてもらいたい。

2009年8月6日木曜日

甘いような甘くないような世の中で評価に追われる

ボクは武術が好きだから、武術家や武道家の本なんかも読んだりするんだけど、見事に書かれているとは思う。
きちんとした文章だ。
武の体現をうまい具合に言いまわしてもいる。

しかし、やっぱり文士が書く文章とはどこか違う。
どこか素人がある。
きっと文よりも武の方が得意だからであろうと思う。
まあ、本職でないのだから無理して文士になる必要もない。

書くのを生業にしている人の文章ばかりをボクは読んでいる。
大抵の人はそのはずだ。
初めて小説を書いた人の小説を読んでいる人なんてそういない。
いるとしたら同人ぐらいだ。
作家の中でも優劣や格の違いなんてものがあるだろうが、世に出版されている書籍の作家なんて素人、つまり一般人から見れば誰でも十分な手練れだ。
文章のプロだろう。
作家ならだれでも、ちょっとしたプリントの文章ぐらいすいすい書けるだろう。
しかし、それでも作家で生きる以上、作家内の優劣は必ず現れる。
それは書籍の出版部数だったり、批評家からの評価だったりが決めるのだろう。
評価は社会で生きていくうえでは必要であり面倒なものだ。
しかし、人間である限りこれからは逃れられない。
だが、ただ注意すべきは評価を狙った作品の評価は意外と低い。

世の中、甘くはない。
だが、甘い時もある。
好き勝手しても共感されるときもある。
でも、やっぱり裏切られる時もある。
なんだか不安だ。
いや、割り切ってしまうのも良くない。
少しぐらい個性が強いぐらいが評価としても人生的にもよろしいのかもしれない。
臆病な一般人の一般論だろう、これが。

2009年8月5日水曜日

永遠のテーマ



夏休みをつかって積読を撃破することを宿題にしています。
まあ、無理でしょうね。
宿題ですから。

2009年8月2日日曜日

奈良、それは新しい視点

「阿」かな。
南大門下において、鹿。南大門のつくり、こういうのによく惹かれる。

26日~31日まで奈良での全国高校総体に行ってきた。
さほどの暑さもなく無事に試合を楽しんできた。
奈良へは中学校での修学旅行以来である。
インターハイでの活躍はもちろん、今年は春から“仏像ブーム”だったから仏像の一体も見学しておきたかったのだが結局、橿原神宮への参詣と東大寺の南大門と鹿を楽しむだけにとどまった。
しかし、奈良は多くの文士が憧れた地である。
なかには奈良に移住した人もいるという。

奈良、その趣はまだ捉えられない。
しかし、よく考えればニッポンの中心について考えてみると、「日本の歴史は京都よりも江戸よりも奈良」そこに行きつく。

天平文化、わからない。
興福寺の統治、わからない。
奈良の仏像、わからない。
せんとくん、わからない。
奈良は懐が深すぎる。
持ちすぎている。
抱えすぎている。
奈良を探ればもっと日本が見えてくるはずだ。
奈良は旧国名を「大和」といった。
「ヤマト」、「大和」、「倭」
日本は奈良から始まった。

今回の旅行では京都と肩を並べるほどの「日本の資料館」の奈良を発見してきた。
平城遷都1300年を控えた奈良県はいま「ナラ」の文化を再提示しようとしている。
京都とはまた違う“古都”奈良の雰囲気。
奈良は分からなかったが奈良を見つけられたその感覚が残っている。

2009年7月24日金曜日

買い物男子ってとこだろう

最近、ひっきりなしにスーパーマーケットに行く。
また、ホームセンターや文房具店にも行く。
無論、買い物のためなのだが、野菜やくぎや消しゴムは見ているだけ面白い。
ボクは2日に一回は書店に行き書店で遊んでいる人間なので本の価格の相場は大体心得ているつもりだ。
しかし、スーパーに行くとその相場が他の製品の相場とは大きく異なることに気がつき本の高価に驚いた。

「文庫本一冊分の代金があれば定食が食える。」

そう考えたとき、本だけじゃだめだなと素直に思った。
いろんなものに手をつけてみることが大事なのか。
そのとき、ちょうど所ジョージにはまっていたから彼の異常なまでのモノ作り精神やモノへの愛し方に影響されてそんな風に感じたのかもしれない。
しかし、確かに本以外のモノを見て触れて買って遊んでみると本についてもよくわかった。
本と本以外のモノの違いは、本は情報の媒体であり本以外のモノはそれ自体に価値があることだ。
そういう意味では本は本当に魅力がある。
「情報」というここ数年流行りの概念は確かに価値があったようだ。
その代表格が本だ。
ただの紙の重なり、それに付着したインクで象られた文字。
それだけの製品が知らず知らずに好きになっていたことを改めて知った。

2009年7月22日水曜日

大人になるこども




16歳と18歳の年齢はなんとなくボクのなかでは区切りの歳に感じる。
それはきっと、中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」にあるように確実に大人になっていく年頃だからだ。
その飛躍は人生のなかでもっとも大きいように感じる。
彼氏、彼女ができたかどうか、キスをしたかどうか、それ以上にまで到達したかどうか。
思春期の下世話でやらしいと思っていた友人らとの会話はそれ自体が大人になるための儀式のひとつなのだ。
そして、16歳と18歳はやはり人生の大きな節目にあたるだろう。

ボクは18歳になった。
18歳がもっとも10代を代表するように感じる。
そして、19歳ではなく18歳が10代最後の歳に感じる。
なぜだろうか?
それはやはり18歳は「大人の始まり」を意味していると社会的に思われており、同じく「子供の終わり」を意味していると思われているからだろう。
この常識は法律にも明記されている。
さまざまな権利や義務は18歳から始まり、この権利と義務に乗っ取り子供は大人になる。

では16歳はどうなのだろうか?
16歳に法律的に権利が与えられるのは「女性の結婚」ぐらいだ。
これは18歳とは違いきっとボク個人の感じ方だろう。
16歳で人生が初めて決定の義務を負わされるように感じる。
人生を決めなければならないという大人には当然の人生選択が16歳に端を発しているのだ。

そう思う。
ボクがそうだった。
ボクが16歳を特別視しているのも16歳に何かを起こさなければ人生を勝ち取ることはできないように感じていたからだ。
それでも結局、大したことは何もしていなかった。
高校に慣れることで精いっぱいだった。
16歳が終わる頃、ボクは何もできなかったように感じた16歳を後悔した。
だが、今から思えばあの時のボクは頑張っていたように感じる。
それが今のボクに大きく影響していると思われるからだ。
例えば、「和して同ぜず」の精神を貫こうとしたのもあの歳だったし、読書を本格的に始めたのもあの歳だった。
今、自分が思っている正しさを貫けているのもあのときの自分のおかげだ。
その時々にとりあえず頑張ってみること。
その結果は思ったよりずっと後に現われるものだと悟った。

2009年7月21日火曜日

乗り物のなかが気持ちいい。

雨が続いている。
去年が空梅雨であったからかどうも毎日、雨に困っている。
自転車によく乗るから不便極まりない。
まあ、屋内から見る雨や雨音はむしろ好きな方である。
雨が生む心地よいノイズは屋内での作業にはもってこいである。
本にあったが意外にある程度のノイズがあった方が集中できるとか。
そういえば、ボクも電車好きである。
電車そのものにはあまり興味がないがあの不特定多数の人間が乗るせまいガタンゴトンの車内は心地よいストレスがあり読書には最適である。
ボクは電車通いではないのでよりそれを実感している。

あの居心地の良い空間は何なのだろうか。
あの電車やバス、飛行機の特有の感覚は誰もが感じているはずだ。
確かにあそこはせまく身動きが取れず疲れる場所だ。
それでもそこを好むのはなぜか。
あの空間をよく旅のロマンの一つとして挙げるのはなぜなのか。
きっと、「群れ」の感覚と「安全」の感覚、双方があそこにはあるからだろう。
きっと知らない者であれ旅は道連れで場を共有するものとしての連帯感が生まれるのではないか。
それはもともと社会的生物であり、群れをなす霊長類には群れとして居心地の良さとして感じるはずだ。
そして、あの狭い空間、座席は人間一人分の広さ、あのエコノミーの背中や腰回りがすっぽり入る空間は安心感がある。
そして車内、機内全体の空間も視界に入りうる程度で外敵の脅威もない。
あの空間には本能的な安全がある。


生物学はとくにそうだが、科学的視点から人間の生物としての性質=本能を日常生活から改めて思考し実感することは面白い。
柔軟な思考や発想はここから出発する。
これは忘れたくない。

2009年7月20日月曜日

恥ずかしがらずに「美」って何だ?

美とは何なのか?
なぜ、美がなくてはならないのか?
美と現実主義は矛盾するのか?

美について考えたのはデザインについて長期間に渡りずいぶんと考えているからだ。
ここで何度も挙げたテーマだ。
ただ、今回は美(美性ともいえる)とその存在意義についてだ。
なぜ、そんなものがあるのか?
それがテーマである。
「美とはね・・・。」なんて青山次郎のごとく美について考えることはたいていしない。
それどころか「美」なんて言葉を普通の会話で口に出すことすらない。
美なんてものは美術家、芸術家、目利き、世捨て人のための言葉だ、そんな風にも思われているのかもしれない。
しかし、確かに誰でも美が好きだし、美があるかどうかで選択することも多い。
美がこもった製品はやはり売れるし、美のある生き方には魅かれ、美人には誰もが弱い。
「だが、美のみを追い続ければ世の中で生きていくことはできない」、「世の中、妥協することも大事だ」
そんな一見大人な考え方、本当にそうだろうか。
もし、それが挫折したときに苦しまぎれに吐いた言葉なら、少し考え直してほしい。
ボクは何事も美になりえる、「美へ転化」することができると考える。
それはたとえば、喜劇のみに美が通うわけではなく悲劇にも美を感じられることのように誰しもが感じ、それを共感しているはずだ。
そして、その転化は「自身が美としての認識をすること」によって起こりえる。
芸術家の仕事はそこにある。
世の中から見たら、センセーショナルで狂っていて下らなくてもそれでも偉人となった過去の新進気鋭な芸術家たちはそれを美と言い続けていた。
それはそこに美を見出したからであり、言い換えればちょっと心を広くしたり視点を変えてみたりしたからだ。
心を変える、これは古典的でかつ現代から見れば画期的でとても実用的な考え方だ。
心を乱すこと、これをストレスという。
ストレス社会なんて言われているからストレスを嫌う人がいるが、ストレスに敵うものはストレスにほかならない。
例えば、勉強のストレスをスポーツのストレスで解消するように。
心にかかる力をちょっと変えてみるだけで世界は大きく変わるはずだ。
そこに美の存在意義が、教養としての意味が、価値がある。

2009年7月16日木曜日

哲学を捨てよう!!

最近はこう考えている。
「哲学からの脱却」こそが人生の目標なのではないか、と。
つまり、哲学的懐疑を見逃すことこそ健全な人生であり、そのためにも哲学を必死で勉強すべきなのではないか。
(ここでの哲学とは特に形而上学のことである。)
無論、哲学を無視することも逃げることも不可能である。
ただ、考えないという解釈でもって考えれば、ある種の哲学病から解き放たれるのではなかろうか、という主張である。
ボクは形而上学に対しては永遠のテーマではあるだろうが、それは不可知であるという立場にある。
そして、それを考えるよりも別の視点に立つ方がよりその解答に近づけるような気もしている。

最近の思想のなかで最も思想らしいものができて素直に嬉しい。
結果を常に出していくこと、それを認識していくことがボクが考える建設的な人生論である。

2009年7月11日土曜日

スカイクロラ後のボク

さきほど「スカイクロラ」をDVDで観てきた。
あまりに淋しかったので今もテンションが上がらない。

押井守のテーマは原作とそれからくる結末の印象こそ違え、「うる星☆やつら2 ビューティフルワールド」のときとあまり変わらず、それを表現しようとしているところも変わっていない様子だ。
むろん深いテーマであるからだろうが。

もっとも、このテーマは解決はできるのだ。
誰しもが解決できる。
ただ、その解決方法はあまりに淋しいものなのだ。
だから、だれしもあのテーマにぶつかると辛くなり、本当のことがわかる。
人生の一面は確かに淋しい。

2009年7月9日木曜日

こんな時代とテレビ番組

安っぽいテレビ番組が増えているようだ。
セットの安っぽさ、出演タレントの安っぽさ、テレビの制作の安っぽさが透けて見える。
もちろん、それは製作コストが割けないためであろう。
それでも大衆文化の、メディアの中心にはいまだにテレビがあり、社会におけるテレビの影響力は絶大だ。
安っぽくとも人気が絶えない存在であり続けているテレビ、それはなぜか。
それはやはりあの膨大な情報量のおかげであろう。
そして、それを補足する程度ではあるが制作側の安い中での工夫、苦闘のすえの解決のおかげのはずだ。
テレビ批判はよくあるが、もっと建設的に行こう。
テレビを受け入れない限り、新たな文化は生まれない。

2009年7月5日日曜日

年の哲学~わが師、小林秀雄に感謝~

最近は書きたいことがない。
だから、それしかネタがないがとりあえずは書いている。
やりたいことも書きたいこともない、まるで涅槃につく直前だ。
老人ならばともかく青年がこうあっては体面が汚く見えないだろうか。
数か月ぶりに小林秀雄の講演をきちんと聴いてから「年の功」にボクは惚れこんでいる。
ぐっと来るというか、あれは数ある人生論のなかでも特にお気に入りだ。

きっと、青年ならば誰しも、ちょっとは大人のよう振る舞いで気取ってみたり、もしくは子供じみた真似をしてみたりしてしまうものであろう。
実際、ボクも一人前に凝った文体や難しい言葉を使ってみたりしてしまう。
そういうのは、やはり恥ずかしいことである。
後からになって気付いてしまう、1年後だったり、1週間後だったり、早くして5分後だったり。
「あんな余計なことしなきゃ・・・。」なんてことはしょっちゅうだ。
確かに青年は無理してお高くとまらなくとも、やんちゃにならなくともよい、青年は青年らしく普通にしていればよろしい。
それさえ、心に留めておかれれば、むしろ多くの失敗をしてほしいと思う。
そこが話の要である。
青年の理想になってもらわなくともよい、「あんな余計なことしなきゃ・・・。」の気恥ずかしささえ覚えていれば身体の老熟の作用も加わって中庸に生きられるようになってくる。
もちろん青年のみならず大人も年相応な振る舞いから外れてしまうことはよくあるだろう。
それでも、青年よりはずっと少ない。
それは青年時にそれを嫌ってほど経験したからであり、彼らの熟した人格はそれから来るのであろう。
つまり、失敗の連続の青年時代が大人になる手引となるのだ。
これを思ったとき、ボクはこれが「徳を積む」ということを実感し、「年の功」に納得できた。

まあ、それでも大人嫌いのパンクな中年はたくさんいる。
青年を気取っている中年はいる。
それが見識ある大人像ではないという意見もあるが、ボクは大人になった結果など正直どうでもよいと思っている。
すべての大人が理想の大人であることなど考えられない。
大切なのは確かに彼らが老熟していることだ。
年老いてゆく身体と共に精神が変化していく、それを老熟というのであろう。
何も「良い大人」にならなくとも、そこを踏まえた大人になってしまうのだ。
プラトンは老人を哲人の鏡としたがアリストテレスは頑固者と評した。
人間、端から見れば両極端の人間性に突き動かされる。
それでも年と共に老熟する身体と精神、その相互関係が人間の生き方に現れるところが面白いのだ。
別に人生を説かない、人生を言っているのだ。
小林秀雄の考えからも少々ずれてしまったか。
どうか、つたない文章ゆえ共感してイメージしてもらいたい。

2009年7月3日金曜日

宗教は嫌いじゃない、宗教団体が好かないんだ。

ボクの周りに宗教者がいる。
彼は宗教団体に所属し、団体の教義に従い、団体と行動を共にしている。
ボクは彼のような人間をあまり好かない。
ボクが群れるのが苦手で嫌いな人間だからかもしれないが、ボクは宗教とは自立のためのものだと捉えている。
それを他人と群れて行うのはボクにはできそうにない。
人間はどこまでいっても所詮は独りである。
そこを逃げて生きることはできない。
もちろん、群れていながらも自立し、自らの人生を悟った人もいるのかもしれない。
しかし、群れると全体がどうしても統制のために試行錯誤し、第一にすべきことを形骸化し、その真意を見損なってしまう恐れもある。
そして、それに気づかずにいることもある。
それが恐ろしい。
その状態はもはや宗教とは言い難い。
そのおそれは現在、某団体で起こっていると思う。
宗教を群れて行う宗教団体が根本的に間違っているようにボクが感じるのもそれが原因だろう。
ひとり宗教者の警告だ。

2009年7月1日水曜日

今日から夏だ!

先ほど今月第1号のブログを製作しながら先月の反省をしていた。
6月はいたって多忙な日々であったからブログの更新もままならなかった。
たくさんのスケジュールをこなし、それなりの成果を手にし、同時に見出してきたつもりではあった。
だが、そもそもネットすらできなかった程であったのでブログにそれを載せられなかったのは残念である。
今日からの7月。
夏らしい月が始まる。
ボクのなかでは6月も8月も夏とは言い難い。
さわやかで思い出に残る夏のイメージとは7月をおいてほかにない。
入道雲が山や海にかぶさる絵図は幼い夏であり、真の夏だ。

かき氷、スイカ、水しぶき、プール、海、山、カブトムシ、川、サンダル、陽炎、マウンテンバイク、挑戦。
日陰、クーラー、扇風機、団扇、浴衣、祭り、花火、恋、日焼け、10代。
アニメ祭、漫画、ごろ寝、タオルケット、アイス、読書、宿題、31日。
夏は欲望の季節だからか言葉が次々に湧いて出る。
そして、きっとこれはそれらを一年中憧れ続けているからであろう。
それはすなわち、ボクがそれらを本当の意味で楽しめてきていないからで今までの夏を無駄にしてきたからである。
というより、夏には夏の過ごし方をダメにする効果があるようだ。
それは皆がうなずくのであろう常識というかいわゆるデフォルメである。
ボクは上記の夏のイメージの情景はすべて小説や歌詞、アニメ、漫画などで収集したステレオタイプなのだ。
夏は絶対に無駄になるだろう。
そして後悔するのが夏である。
一年の中腹にあたるこの季節は一年の盛りである。
それは一生の中腹ともいえる。
であれば、「夏を無駄にはしたくない」が常識だ。
ものの本には必ず乗っているような言葉ではあるが、それは人生において大切で素敵なことのようだ。

デザインと美

24日に地元で活躍する広告デザイナーがボクの学科に講演に来た。
ボクは「デザイン」について最近考えるところがあったから真剣に聴いていたが、周りには念願のエアコンとデザイナーの語り口調があまりに静かでゆっくりであったためか堂々と居眠りするクラスメイトもいた。
彼は3時間ほどの講演であったが彼の作品の数々をディスプレイで見せながら、デザインとはなにかを大雑把であったが主要な部分を切り取って講じていた。

「デザインとはなにか?」いざ考えてみるとこれに安易に答えることは難しい。
近いところはあるが美術とは言えない。
美術性、美学があることは間違いなさそうだが。

デザインに興味を持ち始めたときもそこまで考えていた。
テレビに出ていた川崎和男はそれについて的を射た考えを導いている。
デザインとは「効用・効能・・などでできている」と。(確かな部分はここだけ)
それを聞いた時、ボクは彼に意見におおいに頷けた。

ああ、デザインの美とは「実用の美」か。

デザインのあるものは確かに美しい。
デザインという外来語に惑わされがちだが、確かに美しさとデザイン性というものの間には繋がりがある。
そのうえ、日常、デザインと言えばインテリア、家具、ファッションなど実用品についての用語であり、自然にそれらとデザインとがイメージされる。
そして、もっと深く考え思想の域まで達すると実用性と美性というものは確かに同一であるという考えに辿りつく。

使えるものは美しい、醜いものは使えない。
そんな単純で一見、Noと抗いたくなる美と実用についての考えこそが人間の本能としてなんとも納得させられてしまう。

2009年6月30日火曜日

読書サボったら

2週間ほど読書を休んでいる。
窓際に積読が起こっており一気に片付けられることでもないのでそれを前に呆然としている。
まあ、学校で忙しいことが主だった理由なのだが。
文章家としては恥ずかしいことだが、こうも読書をしないと別の視点を得たのか、前まで見えなかったことが見えてきた。
それは写真や絵画、はたまた映画などのヴィジュアルについての造詣が深まった。
改めて考えてみたが、文字とは明らかに仲介者である。
ヴィジュアルがあり、そこからの感覚がある、それを整理しアウトプットの可能な意識による表現伝達ツールが文字である。
ゆえに文字はヴィジュアルから起こさなければならない。

この読書のサボり時間を弁護するわけでも、読書をなめてかかるわけでもないが、やはり読書のみではいけないだろう。
要は、実際に会ってみること、歩いてみること、食べてみること、見てみることが大事なのだ。
「晴耕雨読」、呑気だが馬鹿に出来ないところが確かにある。
そんなおサボり一週間に考えた。

「晴耕雨読」という、「知行合一」という四字熟語がある。
よく考えてみるとこういう理想的な知の在り方というものは平和に感じながら、絶対的な極地に到っているようだ。
晴耕と雨読の両方が相互に補足する作用を秘めている。
知と行は合わさってこそ一本の道になりえる。
文武両道を掲げている我が校だが、ここまで考え実感した人はなかなかいないであろう。
文武両道は多用されている割には深く思われないところがあり、真意をもってこれを校風とした昔の人は遺したにもかかわらず共感されていない現状には残念であろう。
そういうところを無視するのは一番良くないとボクは思う。
つまり、もう一度掘り下げて考えてみたり、昔からの諺なんかを考え直してみたりすることは本当に知的であり、学問の修得とはそれを言うのではなかろうかと思う。

2009年6月27日土曜日

長野で気づいたこと、見つけたこと


19日から21日まで長野にいた。
長野市と松代のみであったがはじめての長野旅行とあって楽しかった。
県外へ行くのも久しぶりのことだ。
周りよりはしゃいでしまっただろう。

気が付いたことをメモしておきたい。
日本の7割は山地であると知ってはいたが、やはり、旅のなかで実際見てみると「ああ」と心に沈むものがある。
長野は山だらけであった。
内陸の県はそうであろうが四方を見渡しても山だらけである。
どこか海が懐かしかった。
山に囲まれているとどこか安心する反面、刑務所にでもいるような、自由を奪われたような心持になってしまった。

<
山の思想>

日本人は海に思想を求めたのかは知らないが(これはとても興味がある)、山には確実に思想を求めた。
我が家の周りも、というより我が家が山である。
であるからして言えるのだが、隆起した地面に暮らすものはすべて自然環境のサイクルの上に成り立っており、山の下り坂、上り坂には逆らえない。
もし、そこを都会人に共感させられたとき山の思想をほぼ全て伝えられそうなのだが。
山は登るが易し。

じつは今度は奈良に旅行がある。
ひと月ほど先の話だが、長野よりは長くいられるそうだ。
古都への旅は俗と聖が混じり合って旅愁になりそうだ。
旅らしい旅への楽しみが感じられる。
そして、奈良の山の感想を持ち帰りたい。

2009年6月15日月曜日

叢の詩~大好きクサムラ~


叢には必ず何かが潜んでいる。

だから、ずっと、みつめていたくなる。

何気ない所にでも探せば必ず期待以上の生物はいるものなのだ。

だから、ちょっとした冒険を望む。

旅で誰もが変わり出す

6月に入ってもう3週目に入った。
ブログの更新をサボることになり何とも心苦しい。
というのも、やはり自分の創作活動がストップしているのは寂しい。

実は部活関係で奈良と長野に行くことが決定し、最近これをとても待ち遠しく思っている。
昨年12月のマレーシア旅行から「旅」について考える機会が多くなった。
昔から「旅」というコンテンツは魅力を秘めている。
歴史上の著名な旅人たちが「遊」の意義を実行に移していたのはなんとも羨ましい限りだ。
では、まず旅行が決定したならば早速楽しむべきことは「計画」からだろう。
つまり、何を持っていくのか、どんな成果を求めるのか、そこを考えてみることだ。
旅の楽しみはこの待ち時間に大いにある。
そこのモデルを想像する時間がきっとリアルの旅並みの収穫があるはずだ。
旅のモデルを考えるだけで体が軽くなる。
危険と未知が大事な経験となって体に浸透するはずだ。
よい旅がボクの望みである「人生哲学」を築くのであろう。
もっと、楽しみをめぐらしたい。

2009年5月26日火曜日

~本との付き合い方~

「積読」、一般的には少しだらしなさを感じる行いだろうが、読書家ならば積読はむしろステータスといったところじゃなかろうか。
最近では平積み用の書棚も販売されているようだから積読もひとつの知的なインテリアになるのではないだろうか。
本は平積みにしても、一般的な背表紙が見えるように立てても、平に立ててもどれも味わい深い。
その本の装丁やそのなかのフォント、そのなかの配色またはそのなかのイラストの魅力も本の価値の要素であることは本好きとして公言しておきたい。
本も一つのインテリアだ。
文字文化の結果たる本には人間の意識化におけるすべての魅力が詰まっていると思う。
それはやはり人間の意識というものが言語をベースとしているからだろう。
言語で整理され、それがまた言語に起こされる。
つまり、その言語同士の相互関係が人間の意識そのもののように感じるのだ。
そうなると、やはり文字文化は人間の文化そのものでもあるのだ。
そして、それは自然と本の素晴らしさや魅力を導き出すことになる。
だが、本をツールとして利用する人もいる。
むしろ、そうした認識の方が一般的かもしれない。
読書が衰退中の日本では人が一生のうちでも最も手にする本は参考書かもしれない。
そうすると、日本人の本に対するイメージも暗いものだろう。
そうして、みんな本から離れていくのは少し寂しい。
もちろん、本をツールとして建設的に役立てようとして利用する人は本の中身に重きにおいて装丁などつくりなど見向きもしない。
だが、本当のツールというのはデザイン性も一つの価値だ。
それが、デザインがないと、美的価値が伴っていないと本を読むのも苦痛になり、読み取る効率も落ちる。
本当に「読む」のならばもっと本を好きになる、これが最善の本との付き合い方なのではないか。

2009年5月20日水曜日

環境変化の利用法 虎の巻

日々の暮らしのなかでクリエイティブな発想を捻出するためには工夫が欠かせない。
たとえば、これはそのひとつの例である。

それは「変化」の利用だ。
まず変化とはどのような変化か。
ずばり「環境」の変化だろう。
この「環境」もボクのお得意なコンセプトである。
では、環境を変えるとは具体的にどのようなものか。
例えば、部屋の衣替えを挙げる。
それはつまり、机の位置や書棚の位置を変え、壁紙を変え、カーテンを変え、カーペットを変えることだ。
もっと、簡単なことでは窓を開けることでもいい。
少々、自己啓発本の決まり文句のようにもなってきたが、周囲の環境を変えることで感覚が変化し、そしてそれに応じて自身の体質も変化するはずだ。
ここで押さえておきたいポイントは「目的に応じて変化を利用すること」である。
例えば、ボクが論文を書いていたとする。
そして、まとめにはいるところで行き詰った。
よいまとめ方が考え付かない。
発想の閉塞に至ったのである。
そうなったら、まずボクは「環境の変化」を方法として利用する。
ここからがボクが言いたい部分である。
そこでボクが環境としてファッションを使ったとする。
フォトT-シャツにデニムのパンツだ。
その時のボクの感覚はロックだ。
ではまた、Yシャツにスラックスだったとする。
その時のボクの感覚はサラリーマンだ。
ロックの感覚とサラリーマンの感覚は大きく異なり、その時同じぐらい脳がリフレッシュしたからといって同じまとめ方はしないはずである。
そこがポイントなのである。
自らの客観的評価からのイメージの差異が感覚の違いを生み出し、それが発想に大きく影響する。
そこをコントロールできなければ滅茶苦茶になるだけであり、利用法とは到底呼べない。
環境の変化は今まで何度も講じてきたが、今回はそれに利用法としての価値を高めるべくそのコントロールの重要性とその必要性を考えてみた。

なにかで行き詰ったら、ちょっと変えてみればいいのだ。
スポーツ雑誌を経済雑誌に「変」えてみる。
いつもの弁当を外食に「変」えてみる。
コーヒーを紅茶に「変」えてみる。
帰り道を「変」えてみる。
寄り道を「変」えてみる。
そうしてみよう。

2009年5月19日火曜日

遊び女考察

「遊び女」の印象は時代によって異なるとボクは考える。
室町時代ならば旅する売春婦で、江戸時代ならばかの有名な吉原の花魁だろう。
遊び女といっても前者と後者ではその在り方、その影響力、そこから見える時代背景というものが全く異なる。

旅をしていたころの遊び女はその売春行為だけが売りではなく、彼女らの存在自体がいわばサーカスのような異国の雰囲気に包まれていたことだろう。
旅行文化に乏しい日本では彼女たちはむしろ自由人に属し、その自由人という身分と各地で仕入れてきた情報が多くの日本人には日本人離れしているように感じられたのかもしれない。
彼女たちは情報の媒体だったのだ。

そしてまた、ある意味彼女たちの存在はバーチャルに近いのではないか。
彼女たちにとっては商売でもある一晩の営みは客にしてみればなかなか味わえないバーチャル体験だろう。
きっと、いつも同じようなことを繰り返す生活のうちに現れたマンネリを解消するには丁度良い刺激体験になったろう、それが「遊び女を買う」ことなのだ。

まさに「お楽しみ」であろう。


2009年5月18日月曜日

”鯉”

鯉を撮った。
とある公園でのことだ。

水面をのぞけばすぐに鯉が群れをなして寄ってくる。
餌をくれることだろうと勘くぐってのことだろうが。
あいにくボクはなにも持っていなかったので彼らの機嫌を損ねさせて終わった。
鯉のあのマグロなんかに比べたら断然のろまな動きは見ているだけで時を忘れさせてくれる。
一日見ていても面白い。
そうじゃないか。

ほんとうの読み方

いくら論文を読んでも、小説を読んでも、書評を読んでもその作者の折々の気持ちを共感できない限りはただの自己欺瞞が残るだけである。
ボクは読書中、いつもそこに注意している。
随筆でも専門書でもメモでも書いているのは生身の人間だ。
つまり、感情の波が常に打っている人間が読書の相手方なのだ。
そうすれば彼の感情を共感できないといくら彼の論理を頭で理解しても真にその価値や彼の視点というものを理解したとは言い難い。
そこをもっと共感すれば現代の子供たちももう少し頭のできる大人の言い分が見えてくるというものだ。
相互理解とは理性というよりは論理を感性でつかまなくては話にならない。

2009年5月16日土曜日

スリッパ嫌いから我が家の悩みへ

ボクはスリッパを好まない。
靴下さえ履きたくない。
家のなかでの話だが。

第一、ボクの家は7人家族と大勢なのだが皆、屋外の仕事ばかりであり家のなかのことにまで手をまわしていられないのだ。
兼業農家だから余計に家のなかは汚くもなるのだがそれを掃除する人手がないというのは困ったものである。
皆、貧しい暮らしを良くするために働いていることに変わりはない。
まあ、端から見れば滑稽な話だ。
自己実現できるはずの幸福を逃しているのだから。
一日仕事に休みを取って、みんなで家を掃除すればどんなに幸福を感じられることか。
まるで故事に引用されそうな話である。
それでも確かに当人らは苦しいのだ。
なんのために働いているのかがわからず苦しいのだ。
こんな哀れな例は国中にあるだろう。

2009年5月11日月曜日

いまのところはこれ二つ

歴史を見ると百年という時間はわずかなものに感じてしまう。
百年間という膨大な時間でさえ世界的な大事件はあまり起こらない。
しかし、その百年間の中には小さいながらも多くの出来事があるはずだ。
ただ全人類がかかわるような事件、発明はたしかに一瞬では起きないのだ。
積み重なった一日一日の実績の集大成が未来から眺めてみれば前代未聞の大発明が何の前触れもなく起こったかのように見え、軍人を、学者を天才と崇め理念化してしまうのだ。
それがわれわれの持つ偏見ともいえる愚劣した歴史観というものであろう。

しかし、きちんと紐解いて歴史に対し感覚をもっと研ぎ澄ませてみれば論理的で確実性のある考え方はいくらでもできるはずだとボクは思っている。
学説というのはどのような分野でも歴史を参照しているはずだ。
過去をたどり、かつ過去から予見できる範囲内の未来のことを思わなければ学説も実践性のない幻想となる。
もちろん、実用主義に囚われれば実践性が失われるように感じることは確かだ。
ボクが避けたい学説というのは確実な参照なしに取り組もうとする危うい学説だ。
学説が言葉である限りは他人を衝動的に突き動かすプロパガンダの一面があることは間違いない。
下手すればその学説が他人の死にも直結する危険があるのだ。
だから、ボクは誠実な学説を取り組むべきであろうとしていつも思考、思索している。
つまり、学者のように、いや全人類と同じようにボクも正しい思考の方法を求めているのだ。
そのなかで成立したものが以下の二つとなっている。


1:浮いた言葉と固まった言葉

2:短縮化していく世代間

2009年4月26日日曜日

数分の思い出

昨日のことだ。
ぼくは駅のなかでまんじゅうを買った。
ちょうど、最後の二個であった。
ボクがレジに持っていくとすぐに60代後半に見える男性が「まんじゅうはないか。」と店員に問いかけた。
一瞬のことだったが、彼はまるで小林秀雄のように見えた。
外見がそうだったからか声まで小林秀雄だ。
原因はそのとき小林秀雄のことを考えていたからだろうが。
それで、地元で有名なまんじゅうだったからこれを探しに来られた、そんな空想さえ浮かんだものだ。
無論、ボクが最後の二個を買ったのだからあるはずがない。
店員が売り切れたと言うと、彼はあっさり帰ってしまったがボクは彼の希望を断ってしまった身の上だ、もちろん快いわけがない。
店員もそれを察してかわざとらしく軽い笑顔で繕っている。
一つぐらいなら譲るべきだったか、彼がもう少しまんじゅうに執着していたら少しの時間でいろいろ考えられただろうが、そのときのボクは疲れていたし、正しい選択を瞬時に取れる性でもないからもやもやした心のままでいることとなった。
正直、ボクは彼に対し、早い者勝ちの理論をぶつけていたのだ。
たしかに正しい選択を瞬時に取れない人間ではある。
いや、それでも答えはまず出てくる。
それの確認がボクの癖なのだ。
その答えが早い者勝ち、勝負の理論ではボクの最も信奉する理論であり、それを身につけていたいとも思っている。
しかし、ボクは仁義も大事とみている。
仁義なくして人と人との信頼は有り得ない。
仁義すなわち思いやりと正義の分量の割合、比率を求めることが善であると思っている。
いま、それを彼に適応させられなかったことに後悔している。

2009年4月15日水曜日

編集とはこういうことだ~太田光とゴルゴ13~

桜も花が散り葉桜になった。
だんだんと季節が変わりそれに応じて体感も変わってくる。
カゼをひきそうだ。


数年前、爆笑問題の太田光が「バク天!」でゴルゴ13の4コママンガをつくってネタにしていた。
ボクは太田光好きでもありゴルゴ13好きでもあるので今でもそれを覚えている。
ゴルゴ13というギャグ要素0の作品をお笑いと化けさせるところが太田光らしいと言える。
あのギャグセンスはネタの要素がない素材をお笑いにしてしまうところが彼のセンスだと思う。

ボクはあのネタそのものが「編集」の成功作だ。
真面目なコマをどのように繋ぎ合せれば笑いが取れるかが問題だが、そこを切り抜けるには編集工学か、それまで磨いてきたセンスと呼ばれる予習だろう。
素材は今の時代たくさん転がっている。
いやきっといつの時代にでも素材はあるはずだ。
むしろ、過去のほうが優れているケースを否定はできない。
その素材はたとえば広告や宣伝、流行している歌や芸能人などなどすべての事物を指す。
要はそれをどう組み合わせてカスタムしていくかだ。
カスタムしていくと素材とは全く異なる品物にもしくは二次素材になる。
それは用法や目的に合わせていくとより明確な結果として現れる。

素材を生み出す時代から組み合わせていく時代へ

ただし、これは時代の変化ではなく一つの時代のなか必ずで起きる循環の作用にすぎないことも忘れてはいけない。