自分が何かに熱中するとそれを好きになっていくものですね。
ですが、好きになって批評ができないようになっていくのも考えものです。
つまり、それを善とみなしてしまうことが危うい行動であると思うのです。
ボクには自分の信念というものがあります。
それは『四諦と方法的懐疑、遊び、傲慢』であることです。
ですが、この信念もときには折れてしまいます。
それは「酔い」です。
酔いは人を元気づけることもあります。
もしかしたら今のボクも評論家な雰囲気に酔っているだけなのかもしれません。
ですが、酔いはなにかに依存することです。
それは思考の堕落につながります。
「生=思考」が人生と考えているボクには堪えかねません。
酔っている人はなにかの道に生きています。
出来上がった道を歩く者です。
ボクが目指しているものは道を疑い、道で遊ぶことです。
こうすることが真理なんて考えている人はあまりに怠惰な人間です。
自分からはなにも考えていない、創造出来ていない。
生き方が受動的です。
恐れているからか保守的になっています。
人生は走り回るものです。
遊ぶものです。
命に価値を求めず、道具として扱うべきものなのです。
上記の信念は孤独にさせます。
ですが、あの信念を持つには自然と孤独を求めているはずなのです。
群れて馬鹿になるより孤高を目指すほうが崇高であることもボクたちは知っているのではないでしょうか。
以上!
2008年12月25日木曜日
「合理的」の濫用の歴史
「合理的」という言葉が巷では頻繁に使われるが、この言葉ほど使用にやっかいなものはない。
合理とは何かをまず整理する必要があるからだ。
理に合う、手段として最も都合のよいルートに使用する。
問題はその判断が難しいところだ。
その理の証明に歴史的に数々の思想や哲学が生まれ、使用されてきた。
現在の立場から見れば、使用ではなく実験だろう。
例えば、環境破壊。
かつてのキリスト教社会、キリスト教の教えが社会の根本に根強くあった時代では自然というのは人間のためにあった。
神がご自身を写してつくられたという生物、それが人間。
その人間の資源として存在する自然環境。
その関係は現在から見れば、あまりに非合理的だ。
木を過剰に伐採すれば、自然のバランスを崩し、人間は結局その地から締め出される。
もしくは全滅する。
産業革命、いや、それ以前からわかっていたことだ。
エジプト、メソポタミア、インダス、黄河どの文明発祥の地を見ても、いまは砂漠と化している。
文明発祥の頃、各地の自然環境は豊かであっただろう。
資源が無ければ何も生み出すことができないのが人間だ。
しかし、エコなんてしらないものだからやりたい放題、文明発達し放題。
文明をもち始めて人類も若かったと言えば、それまでだが。
産業革命、いや、それ以前からわかっていたことなのだ。
あくまで現在からみればだが。
かつての合理的もいまでは愚の骨頂だ。
そこが難しいのだよ。
私的な話だが、安く売っている本をまとめ買いしてもあまり勉強にはならない。
それは安く売っている分、特に読みたくもない本も買ってしまう可能性があるから。
また、たくさん買うので結局、積読化する。
そんなところでさえ合理的な正解をみつけることは難しい。
そこではやはり、帰納法が重視され、実験や経験がカギとなる。
しかし、そうするとやってみないとわからないということなので、失敗の覚悟は常に必要だ。
帰納法的生活とはこういうことだろう。
とりあえず、とびこまなきゃ。
事実を積み重ね、正しい知とするには時間が大事となる。
だから、若いころになんでもさせたがるのね。
この生き方はさ。
以上!
合理とは何かをまず整理する必要があるからだ。
理に合う、手段として最も都合のよいルートに使用する。
問題はその判断が難しいところだ。
その理の証明に歴史的に数々の思想や哲学が生まれ、使用されてきた。
現在の立場から見れば、使用ではなく実験だろう。
例えば、環境破壊。
かつてのキリスト教社会、キリスト教の教えが社会の根本に根強くあった時代では自然というのは人間のためにあった。
神がご自身を写してつくられたという生物、それが人間。
その人間の資源として存在する自然環境。
その関係は現在から見れば、あまりに非合理的だ。
木を過剰に伐採すれば、自然のバランスを崩し、人間は結局その地から締め出される。
もしくは全滅する。
産業革命、いや、それ以前からわかっていたことだ。
エジプト、メソポタミア、インダス、黄河どの文明発祥の地を見ても、いまは砂漠と化している。
文明発祥の頃、各地の自然環境は豊かであっただろう。
資源が無ければ何も生み出すことができないのが人間だ。
しかし、エコなんてしらないものだからやりたい放題、文明発達し放題。
文明をもち始めて人類も若かったと言えば、それまでだが。
産業革命、いや、それ以前からわかっていたことなのだ。
あくまで現在からみればだが。
かつての合理的もいまでは愚の骨頂だ。
そこが難しいのだよ。
私的な話だが、安く売っている本をまとめ買いしてもあまり勉強にはならない。
それは安く売っている分、特に読みたくもない本も買ってしまう可能性があるから。
また、たくさん買うので結局、積読化する。
そんなところでさえ合理的な正解をみつけることは難しい。
そこではやはり、帰納法が重視され、実験や経験がカギとなる。
しかし、そうするとやってみないとわからないということなので、失敗の覚悟は常に必要だ。
帰納法的生活とはこういうことだろう。
とりあえず、とびこまなきゃ。
事実を積み重ね、正しい知とするには時間が大事となる。
だから、若いころになんでもさせたがるのね。
この生き方はさ。
以上!
2008年12月22日月曜日
よろこびとつらさの狭間
やはり、いやらしいが人間の性というのは「両方欲しい」というものだろう。
いま、部屋の模様替えをした。
窓向きだった机を逆に部屋向きにした。
視界が全く違うわけだから気分が違う。
ボクとしては「勉強部屋」から「オフィス」になったなと思った。
いや欺瞞として感じたわけだが。
しかし、人間は幸せや欺瞞でも喜びや自己満足を得ても、不幸な話で不満なときや苦しいとき、悩んでいるときの方が多いのではないだろうか。
模様替えをしてみたが、前の雰囲気も惜しまれる。
豪邸に住みたいが、家なしで旅人としても生きてみたい。
隠者として過ごしたいが、世界中を飛び回るビジネスも捨てがたい。
この世に固執しているのは人間の証とまでは言わなくても、皆が思っていることぐらいのものだろう。
欲の塊、この世の可能性、みずからの可能性に気づけば気づくほど、欲は出る。
なにもできなければいいのに。
ボクはもっと小さい存在だと思っていた。
しかし、何か出来る。
そのひとつが読書であったりするわけだけど。
知識が得られる、それを発揮することもできる。
それを昇華することも付け加えられることもできる。
それに自己満足する日々、時間に悦楽する。
まるでパスカルのように書いてしまった。
ただ、喜びを得ることは次に必ず来る苦悩を得ることになるのだろう。
これだけは小生の少ない限りの真の知恵になっている。
真の知恵とは生きる知恵だ。
読書で先人の知恵を得たとしても、それが生きているとは言えない。
生きているかどうかは証がいる。
脈を測ってみなければならない。
つまり、経験しなければならない。
ボクたちは悦楽と苦悩の狭間で生きている。
それから仏教に入っていくのもいいが、やはり、そんな世の中でも、つまりこんな理から遠いところであったとしても生きていこうと思うことにも美学があるのだろう。
泥の中にも美がある。
汚いのか、そうでないのか、富岡鉄斎的な問題だ。
そんな中に生きているのか・・・それこそ心の安息だ。
いますこし気分が良くなった。
以上!
いま、部屋の模様替えをした。
窓向きだった机を逆に部屋向きにした。
視界が全く違うわけだから気分が違う。
ボクとしては「勉強部屋」から「オフィス」になったなと思った。
いや欺瞞として感じたわけだが。
しかし、人間は幸せや欺瞞でも喜びや自己満足を得ても、不幸な話で不満なときや苦しいとき、悩んでいるときの方が多いのではないだろうか。
模様替えをしてみたが、前の雰囲気も惜しまれる。
豪邸に住みたいが、家なしで旅人としても生きてみたい。
隠者として過ごしたいが、世界中を飛び回るビジネスも捨てがたい。
この世に固執しているのは人間の証とまでは言わなくても、皆が思っていることぐらいのものだろう。
欲の塊、この世の可能性、みずからの可能性に気づけば気づくほど、欲は出る。
なにもできなければいいのに。
ボクはもっと小さい存在だと思っていた。
しかし、何か出来る。
そのひとつが読書であったりするわけだけど。
知識が得られる、それを発揮することもできる。
それを昇華することも付け加えられることもできる。
それに自己満足する日々、時間に悦楽する。
まるでパスカルのように書いてしまった。
ただ、喜びを得ることは次に必ず来る苦悩を得ることになるのだろう。
これだけは小生の少ない限りの真の知恵になっている。
真の知恵とは生きる知恵だ。
読書で先人の知恵を得たとしても、それが生きているとは言えない。
生きているかどうかは証がいる。
脈を測ってみなければならない。
つまり、経験しなければならない。
ボクたちは悦楽と苦悩の狭間で生きている。
それから仏教に入っていくのもいいが、やはり、そんな世の中でも、つまりこんな理から遠いところであったとしても生きていこうと思うことにも美学があるのだろう。
泥の中にも美がある。
汚いのか、そうでないのか、富岡鉄斎的な問題だ。
そんな中に生きているのか・・・それこそ心の安息だ。
いますこし気分が良くなった。
以上!
2008年12月19日金曜日
マレー旅行
マレーシアへ行ってきた。
あちらは気温30℃ほどの日が続き、湿度も高く、ミストサウナのなかのような感じだった。
雨季だったが、雨には遭わず天気が続いた。
記録の詳細は別の文章に起こしてある
初の海外旅行となったわけではあるが、旅に疎いものだから見つけられるものも見つけられなかったような気がする。
電車や飛行機の乗り方でさえ滅多なものだから無駄に興奮してしまった。
もっと旅行、いや「外」に出ないと。
頭の中でもなかなかクリエイトは起こらなかった。
思考が止まっていたような気がする。
いま覚えていることは、ただ、スティーブ・ジョブズについてを新書で読んだだけか。
以上!
あちらは気温30℃ほどの日が続き、湿度も高く、ミストサウナのなかのような感じだった。
雨季だったが、雨には遭わず天気が続いた。
記録の詳細は別の文章に起こしてある
初の海外旅行となったわけではあるが、旅に疎いものだから見つけられるものも見つけられなかったような気がする。
電車や飛行機の乗り方でさえ滅多なものだから無駄に興奮してしまった。
もっと旅行、いや「外」に出ないと。
頭の中でもなかなかクリエイトは起こらなかった。
思考が止まっていたような気がする。
いま覚えていることは、ただ、スティーブ・ジョブズについてを新書で読んだだけか。
以上!
2008年12月12日金曜日
常識と世代間の哲学
人生五十年だった時代と百歳もざらにみる現代とでは命のあり方、人生の目的意識も異なっていたであろう。
そういう所謂、意識の違いが判断力や思考力を変化させ、独特の思想や哲学を築いていった。
それには環境という概念は非常に大切なポイントとなる。
すべて環境による決定とは言い難いが、それでも自己よりも環境の方が判断の分が多いのではないか。
そう考えると我々がいま、悩んでいる「空気」についてはまさにそれであろう。
全体が支配し、かつ各々の中に住むものの仕業だ。
全体を築くためには、社会と言い換えてもいいが、それには共通する感覚、一般意思がないと築くことはできない。
それには多少のずれこそあれ常識として荘厳に世の中に君臨する。
しかし、その常識がどれほど現代という時代において使用するには脆く、性質も変化しやすいか。
それは近頃、考えた「世代間の哲学」がまさしく答えとなろう。
世代が違えば考えることも違い、自ずと常識とするものも異なってくる。
ケータイが常識の世代、好景気体験が常識の世代、戦争体験が常識の世代、生まれたばかりの世代、死に逝く世代。
変化の激しい現代であるからして、このような世代間のズレが生じる。
江戸時代の農村ならば、50年前の人間が未来に行ったとしても、さほどの障害は起こらないだろうが、現代ならばもはやその人間の常識など何の役にも立たないであろう。
それは我々が望み、かつ望まなかったことだ。
「最速」という言葉が電子機器においてポジティブに聞こえ、「スローライフ」という言葉が生活様式においてはポジティブに聞こえる。
しかし、両方を望み、両方で幸福を得ることは不可能である。
真に生きるということは何かを捨てなければならない。
以上!
そういう所謂、意識の違いが判断力や思考力を変化させ、独特の思想や哲学を築いていった。
それには環境という概念は非常に大切なポイントとなる。
すべて環境による決定とは言い難いが、それでも自己よりも環境の方が判断の分が多いのではないか。
そう考えると我々がいま、悩んでいる「空気」についてはまさにそれであろう。
全体が支配し、かつ各々の中に住むものの仕業だ。
全体を築くためには、社会と言い換えてもいいが、それには共通する感覚、一般意思がないと築くことはできない。
それには多少のずれこそあれ常識として荘厳に世の中に君臨する。
しかし、その常識がどれほど現代という時代において使用するには脆く、性質も変化しやすいか。
それは近頃、考えた「世代間の哲学」がまさしく答えとなろう。
世代が違えば考えることも違い、自ずと常識とするものも異なってくる。
ケータイが常識の世代、好景気体験が常識の世代、戦争体験が常識の世代、生まれたばかりの世代、死に逝く世代。
変化の激しい現代であるからして、このような世代間のズレが生じる。
江戸時代の農村ならば、50年前の人間が未来に行ったとしても、さほどの障害は起こらないだろうが、現代ならばもはやその人間の常識など何の役にも立たないであろう。
それは我々が望み、かつ望まなかったことだ。
「最速」という言葉が電子機器においてポジティブに聞こえ、「スローライフ」という言葉が生活様式においてはポジティブに聞こえる。
しかし、両方を望み、両方で幸福を得ることは不可能である。
真に生きるということは何かを捨てなければならない。
以上!
2008年12月4日木曜日
たまにはリアルタイムの小言
年末も近づき、一年間を思い返す日々ですが、特に何をするでもなく平凡な毎日です。
そんな毎日の積み重ねではありますが、ちりも積もれば山となる。
少しづつの変化を感じることがあります。
それが偶然か、それとも実力からの必然か。
どちらも因果関係上、あると思います。
実力を持っているから周囲も変化し、他人の意思をも変えてしまうことはあるでしょう。
読書ぐらいしか趣味のない人間ですが、それでも積み重ねたことに、読み重ねたことになると思います。
まだまだ、至らなさを感じますが、それが向上心の糧になると思い精進しています。
以上!
そんな毎日の積み重ねではありますが、ちりも積もれば山となる。
少しづつの変化を感じることがあります。
それが偶然か、それとも実力からの必然か。
どちらも因果関係上、あると思います。
実力を持っているから周囲も変化し、他人の意思をも変えてしまうことはあるでしょう。
読書ぐらいしか趣味のない人間ですが、それでも積み重ねたことに、読み重ねたことになると思います。
まだまだ、至らなさを感じますが、それが向上心の糧になると思い精進しています。
以上!
2008年12月2日火曜日
風土というテーマ
秋の涼しさというのはなんとも言えぬ穏やかさがある。
自然の美、芸術の美、知の美と、過ごすのに充実感がある。
四季は日本の風土を表す場合に第一となるのだろうが、その四季は何に例えるか。
四季というのは変化だ。
モンスーン風土の象徴、四季のなかで諸行無常が生まれたのも頷ける。
諸行無常が真理の一つであることはまちがいない。
四季に比べれば、四季のないヨーロッパの気候は瞬間の連続にすぎない。
季節をくりぬいたにすぎないとナショナリズム的にも感じてしまう。
もっとも、四季は生と死の連続が連なることで無変化を生みだす。
変化のうちにある永遠、四季はそれを感じられる。
変化のない永遠を思い浮かべるのはいつ行っても変わらないヨーロッパの風土だ。
永遠という概念をどうとらえるかで、宗教にはもちろん、文化、芸術に大きく影響する。
それは人生観にもつながり哲学につながる。
和辻哲郎の「風土」という概念は世界を抽象化して観察するにとても実践的な論拠となる。
風土、それは文化や芸術の根本とされる以上、ボクの分野の鍵となることが予測される。
では、風土の研究はボクの絶対に必要なことになるだろう。
海外での研修はその絶好の機会である。
それを意識することを忘れずに臨みたいものである。
以上!
自然の美、芸術の美、知の美と、過ごすのに充実感がある。
四季は日本の風土を表す場合に第一となるのだろうが、その四季は何に例えるか。
四季というのは変化だ。
モンスーン風土の象徴、四季のなかで諸行無常が生まれたのも頷ける。
諸行無常が真理の一つであることはまちがいない。
四季に比べれば、四季のないヨーロッパの気候は瞬間の連続にすぎない。
季節をくりぬいたにすぎないとナショナリズム的にも感じてしまう。
もっとも、四季は生と死の連続が連なることで無変化を生みだす。
変化のうちにある永遠、四季はそれを感じられる。
変化のない永遠を思い浮かべるのはいつ行っても変わらないヨーロッパの風土だ。
永遠という概念をどうとらえるかで、宗教にはもちろん、文化、芸術に大きく影響する。
それは人生観にもつながり哲学につながる。
和辻哲郎の「風土」という概念は世界を抽象化して観察するにとても実践的な論拠となる。
風土、それは文化や芸術の根本とされる以上、ボクの分野の鍵となることが予測される。
では、風土の研究はボクの絶対に必要なことになるだろう。
海外での研修はその絶好の機会である。
それを意識することを忘れずに臨みたいものである。
以上!
2008年12月1日月曜日
読書から得ることと注意すること
よく考えてみれば自分の行いが損であることに気づくことなどしょっちゅうだ。
そのひとつが『バカの壁』(養老猛司・新潮新書)にあった。
ボクは自分というものを知りたく、もがいていた。
いや、それ自体は今もかもしれない。
自分とは、つまり個性とはなにか。
それを知りたくて、そして作っていきたくて、ここを作ったともいえるのだ。
だが、自分の体が日々、変化していくのにその度に自分の個性を整理していくのは間が抜けている。
そう思い、やめたわけではない、ただ楽になった。
自分をわざわざ知ろうとする行為がただの足掻きであったことを知って、なんだか正解を見つけられたような気がしたのだ。
だが、ボクの信条やモットーのようなものに「抗い」というものがある。
人間はなぜスムーズに生きられないのか。
なぜ面倒にも悩まなければならないのか。
なぜ苦しみがあるのか。
それは、それに役割があるからだ。
苦しむことも悩むことも、嘆くことも一見、不器用で無為自然とは逆の道と思われるだろうが、それがあるのはそれに役割があるからに違いない。
すくなくとも、ボクは生きていく上で役割を与えられていないものを見たことがない。
(これはある意味、低迷し、学問としての体系が危ぶまれる哲学への救いとでも言い換えられる。)
ボクは正しさを否定する「抗い」がより正しい結果を生んでくれることを確信し、生き方として、それを据えている。
上記は、少々、ヘーゲルの弁証法に近い考え方かもしれないが。
世の中において可能性が0になることはない。
その可能性に向けて「抗い」続けよう。
読書する際に気をつけていることがある。
それは本の内容を「鵜呑みにしないこと」だ。
鵜呑みにし、その内容を信じ込むことはとても危うい行為であるし、それは読書としてボクは一次の読み方だと思う。
一次は文字を拾っていき、表面だけをすくっていく行為である。
そこには記憶力しかいらない。
たいてい、読書というとこれでもっとも楽な読み方だ。
二次になると、すこし深くなり、著者と会話している気分になる。
綾や文書の構成、書き方のかたさからなにを言いたいのかわかる。
三次は感情を感じ取る方法だ。
内容より感情を優先させる。
二次と同じように思えるが、二次はあくまで文章で理解しなければならず、三次は感覚だ。
もはや、理屈抜き。
親友と話しているくらいに文章を把握していないと著者とのシンクロはできない。
著者が実際、どう思っているのか。
相手は物書きであり、文字で隠されている気持ちや感情を嗅ぎ分けていく力が必要だ。
これはインスピレーションの問題かもしれない。
今回はとくに散漫なものになった。
なにをすればわからない。
アニメか。
陶芸か。
ファッションか。
さあな。
以上!
そのひとつが『バカの壁』(養老猛司・新潮新書)にあった。
ボクは自分というものを知りたく、もがいていた。
いや、それ自体は今もかもしれない。
自分とは、つまり個性とはなにか。
それを知りたくて、そして作っていきたくて、ここを作ったともいえるのだ。
だが、自分の体が日々、変化していくのにその度に自分の個性を整理していくのは間が抜けている。
そう思い、やめたわけではない、ただ楽になった。
自分をわざわざ知ろうとする行為がただの足掻きであったことを知って、なんだか正解を見つけられたような気がしたのだ。
だが、ボクの信条やモットーのようなものに「抗い」というものがある。
人間はなぜスムーズに生きられないのか。
なぜ面倒にも悩まなければならないのか。
なぜ苦しみがあるのか。
それは、それに役割があるからだ。
苦しむことも悩むことも、嘆くことも一見、不器用で無為自然とは逆の道と思われるだろうが、それがあるのはそれに役割があるからに違いない。
すくなくとも、ボクは生きていく上で役割を与えられていないものを見たことがない。
(これはある意味、低迷し、学問としての体系が危ぶまれる哲学への救いとでも言い換えられる。)
ボクは正しさを否定する「抗い」がより正しい結果を生んでくれることを確信し、生き方として、それを据えている。
上記は、少々、ヘーゲルの弁証法に近い考え方かもしれないが。
世の中において可能性が0になることはない。
その可能性に向けて「抗い」続けよう。
読書する際に気をつけていることがある。
それは本の内容を「鵜呑みにしないこと」だ。
鵜呑みにし、その内容を信じ込むことはとても危うい行為であるし、それは読書としてボクは一次の読み方だと思う。
一次は文字を拾っていき、表面だけをすくっていく行為である。
そこには記憶力しかいらない。
たいてい、読書というとこれでもっとも楽な読み方だ。
二次になると、すこし深くなり、著者と会話している気分になる。
綾や文書の構成、書き方のかたさからなにを言いたいのかわかる。
三次は感情を感じ取る方法だ。
内容より感情を優先させる。
二次と同じように思えるが、二次はあくまで文章で理解しなければならず、三次は感覚だ。
もはや、理屈抜き。
親友と話しているくらいに文章を把握していないと著者とのシンクロはできない。
著者が実際、どう思っているのか。
相手は物書きであり、文字で隠されている気持ちや感情を嗅ぎ分けていく力が必要だ。
これはインスピレーションの問題かもしれない。
今回はとくに散漫なものになった。
なにをすればわからない。
アニメか。
陶芸か。
ファッションか。
さあな。
以上!
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