2009年6月30日火曜日

読書サボったら

2週間ほど読書を休んでいる。
窓際に積読が起こっており一気に片付けられることでもないのでそれを前に呆然としている。
まあ、学校で忙しいことが主だった理由なのだが。
文章家としては恥ずかしいことだが、こうも読書をしないと別の視点を得たのか、前まで見えなかったことが見えてきた。
それは写真や絵画、はたまた映画などのヴィジュアルについての造詣が深まった。
改めて考えてみたが、文字とは明らかに仲介者である。
ヴィジュアルがあり、そこからの感覚がある、それを整理しアウトプットの可能な意識による表現伝達ツールが文字である。
ゆえに文字はヴィジュアルから起こさなければならない。

この読書のサボり時間を弁護するわけでも、読書をなめてかかるわけでもないが、やはり読書のみではいけないだろう。
要は、実際に会ってみること、歩いてみること、食べてみること、見てみることが大事なのだ。
「晴耕雨読」、呑気だが馬鹿に出来ないところが確かにある。
そんなおサボり一週間に考えた。

「晴耕雨読」という、「知行合一」という四字熟語がある。
よく考えてみるとこういう理想的な知の在り方というものは平和に感じながら、絶対的な極地に到っているようだ。
晴耕と雨読の両方が相互に補足する作用を秘めている。
知と行は合わさってこそ一本の道になりえる。
文武両道を掲げている我が校だが、ここまで考え実感した人はなかなかいないであろう。
文武両道は多用されている割には深く思われないところがあり、真意をもってこれを校風とした昔の人は遺したにもかかわらず共感されていない現状には残念であろう。
そういうところを無視するのは一番良くないとボクは思う。
つまり、もう一度掘り下げて考えてみたり、昔からの諺なんかを考え直してみたりすることは本当に知的であり、学問の修得とはそれを言うのではなかろうかと思う。

2009年6月27日土曜日

長野で気づいたこと、見つけたこと


19日から21日まで長野にいた。
長野市と松代のみであったがはじめての長野旅行とあって楽しかった。
県外へ行くのも久しぶりのことだ。
周りよりはしゃいでしまっただろう。

気が付いたことをメモしておきたい。
日本の7割は山地であると知ってはいたが、やはり、旅のなかで実際見てみると「ああ」と心に沈むものがある。
長野は山だらけであった。
内陸の県はそうであろうが四方を見渡しても山だらけである。
どこか海が懐かしかった。
山に囲まれているとどこか安心する反面、刑務所にでもいるような、自由を奪われたような心持になってしまった。

<
山の思想>

日本人は海に思想を求めたのかは知らないが(これはとても興味がある)、山には確実に思想を求めた。
我が家の周りも、というより我が家が山である。
であるからして言えるのだが、隆起した地面に暮らすものはすべて自然環境のサイクルの上に成り立っており、山の下り坂、上り坂には逆らえない。
もし、そこを都会人に共感させられたとき山の思想をほぼ全て伝えられそうなのだが。
山は登るが易し。

じつは今度は奈良に旅行がある。
ひと月ほど先の話だが、長野よりは長くいられるそうだ。
古都への旅は俗と聖が混じり合って旅愁になりそうだ。
旅らしい旅への楽しみが感じられる。
そして、奈良の山の感想を持ち帰りたい。

2009年6月15日月曜日

叢の詩~大好きクサムラ~


叢には必ず何かが潜んでいる。

だから、ずっと、みつめていたくなる。

何気ない所にでも探せば必ず期待以上の生物はいるものなのだ。

だから、ちょっとした冒険を望む。

旅で誰もが変わり出す

6月に入ってもう3週目に入った。
ブログの更新をサボることになり何とも心苦しい。
というのも、やはり自分の創作活動がストップしているのは寂しい。

実は部活関係で奈良と長野に行くことが決定し、最近これをとても待ち遠しく思っている。
昨年12月のマレーシア旅行から「旅」について考える機会が多くなった。
昔から「旅」というコンテンツは魅力を秘めている。
歴史上の著名な旅人たちが「遊」の意義を実行に移していたのはなんとも羨ましい限りだ。
では、まず旅行が決定したならば早速楽しむべきことは「計画」からだろう。
つまり、何を持っていくのか、どんな成果を求めるのか、そこを考えてみることだ。
旅の楽しみはこの待ち時間に大いにある。
そこのモデルを想像する時間がきっとリアルの旅並みの収穫があるはずだ。
旅のモデルを考えるだけで体が軽くなる。
危険と未知が大事な経験となって体に浸透するはずだ。
よい旅がボクの望みである「人生哲学」を築くのであろう。
もっと、楽しみをめぐらしたい。