2009年5月26日火曜日

~本との付き合い方~

「積読」、一般的には少しだらしなさを感じる行いだろうが、読書家ならば積読はむしろステータスといったところじゃなかろうか。
最近では平積み用の書棚も販売されているようだから積読もひとつの知的なインテリアになるのではないだろうか。
本は平積みにしても、一般的な背表紙が見えるように立てても、平に立ててもどれも味わい深い。
その本の装丁やそのなかのフォント、そのなかの配色またはそのなかのイラストの魅力も本の価値の要素であることは本好きとして公言しておきたい。
本も一つのインテリアだ。
文字文化の結果たる本には人間の意識化におけるすべての魅力が詰まっていると思う。
それはやはり人間の意識というものが言語をベースとしているからだろう。
言語で整理され、それがまた言語に起こされる。
つまり、その言語同士の相互関係が人間の意識そのもののように感じるのだ。
そうなると、やはり文字文化は人間の文化そのものでもあるのだ。
そして、それは自然と本の素晴らしさや魅力を導き出すことになる。
だが、本をツールとして利用する人もいる。
むしろ、そうした認識の方が一般的かもしれない。
読書が衰退中の日本では人が一生のうちでも最も手にする本は参考書かもしれない。
そうすると、日本人の本に対するイメージも暗いものだろう。
そうして、みんな本から離れていくのは少し寂しい。
もちろん、本をツールとして建設的に役立てようとして利用する人は本の中身に重きにおいて装丁などつくりなど見向きもしない。
だが、本当のツールというのはデザイン性も一つの価値だ。
それが、デザインがないと、美的価値が伴っていないと本を読むのも苦痛になり、読み取る効率も落ちる。
本当に「読む」のならばもっと本を好きになる、これが最善の本との付き合い方なのではないか。

2009年5月20日水曜日

環境変化の利用法 虎の巻

日々の暮らしのなかでクリエイティブな発想を捻出するためには工夫が欠かせない。
たとえば、これはそのひとつの例である。

それは「変化」の利用だ。
まず変化とはどのような変化か。
ずばり「環境」の変化だろう。
この「環境」もボクのお得意なコンセプトである。
では、環境を変えるとは具体的にどのようなものか。
例えば、部屋の衣替えを挙げる。
それはつまり、机の位置や書棚の位置を変え、壁紙を変え、カーテンを変え、カーペットを変えることだ。
もっと、簡単なことでは窓を開けることでもいい。
少々、自己啓発本の決まり文句のようにもなってきたが、周囲の環境を変えることで感覚が変化し、そしてそれに応じて自身の体質も変化するはずだ。
ここで押さえておきたいポイントは「目的に応じて変化を利用すること」である。
例えば、ボクが論文を書いていたとする。
そして、まとめにはいるところで行き詰った。
よいまとめ方が考え付かない。
発想の閉塞に至ったのである。
そうなったら、まずボクは「環境の変化」を方法として利用する。
ここからがボクが言いたい部分である。
そこでボクが環境としてファッションを使ったとする。
フォトT-シャツにデニムのパンツだ。
その時のボクの感覚はロックだ。
ではまた、Yシャツにスラックスだったとする。
その時のボクの感覚はサラリーマンだ。
ロックの感覚とサラリーマンの感覚は大きく異なり、その時同じぐらい脳がリフレッシュしたからといって同じまとめ方はしないはずである。
そこがポイントなのである。
自らの客観的評価からのイメージの差異が感覚の違いを生み出し、それが発想に大きく影響する。
そこをコントロールできなければ滅茶苦茶になるだけであり、利用法とは到底呼べない。
環境の変化は今まで何度も講じてきたが、今回はそれに利用法としての価値を高めるべくそのコントロールの重要性とその必要性を考えてみた。

なにかで行き詰ったら、ちょっと変えてみればいいのだ。
スポーツ雑誌を経済雑誌に「変」えてみる。
いつもの弁当を外食に「変」えてみる。
コーヒーを紅茶に「変」えてみる。
帰り道を「変」えてみる。
寄り道を「変」えてみる。
そうしてみよう。

2009年5月19日火曜日

遊び女考察

「遊び女」の印象は時代によって異なるとボクは考える。
室町時代ならば旅する売春婦で、江戸時代ならばかの有名な吉原の花魁だろう。
遊び女といっても前者と後者ではその在り方、その影響力、そこから見える時代背景というものが全く異なる。

旅をしていたころの遊び女はその売春行為だけが売りではなく、彼女らの存在自体がいわばサーカスのような異国の雰囲気に包まれていたことだろう。
旅行文化に乏しい日本では彼女たちはむしろ自由人に属し、その自由人という身分と各地で仕入れてきた情報が多くの日本人には日本人離れしているように感じられたのかもしれない。
彼女たちは情報の媒体だったのだ。

そしてまた、ある意味彼女たちの存在はバーチャルに近いのではないか。
彼女たちにとっては商売でもある一晩の営みは客にしてみればなかなか味わえないバーチャル体験だろう。
きっと、いつも同じようなことを繰り返す生活のうちに現れたマンネリを解消するには丁度良い刺激体験になったろう、それが「遊び女を買う」ことなのだ。

まさに「お楽しみ」であろう。


2009年5月18日月曜日

”鯉”

鯉を撮った。
とある公園でのことだ。

水面をのぞけばすぐに鯉が群れをなして寄ってくる。
餌をくれることだろうと勘くぐってのことだろうが。
あいにくボクはなにも持っていなかったので彼らの機嫌を損ねさせて終わった。
鯉のあのマグロなんかに比べたら断然のろまな動きは見ているだけで時を忘れさせてくれる。
一日見ていても面白い。
そうじゃないか。

ほんとうの読み方

いくら論文を読んでも、小説を読んでも、書評を読んでもその作者の折々の気持ちを共感できない限りはただの自己欺瞞が残るだけである。
ボクは読書中、いつもそこに注意している。
随筆でも専門書でもメモでも書いているのは生身の人間だ。
つまり、感情の波が常に打っている人間が読書の相手方なのだ。
そうすれば彼の感情を共感できないといくら彼の論理を頭で理解しても真にその価値や彼の視点というものを理解したとは言い難い。
そこをもっと共感すれば現代の子供たちももう少し頭のできる大人の言い分が見えてくるというものだ。
相互理解とは理性というよりは論理を感性でつかまなくては話にならない。

2009年5月16日土曜日

スリッパ嫌いから我が家の悩みへ

ボクはスリッパを好まない。
靴下さえ履きたくない。
家のなかでの話だが。

第一、ボクの家は7人家族と大勢なのだが皆、屋外の仕事ばかりであり家のなかのことにまで手をまわしていられないのだ。
兼業農家だから余計に家のなかは汚くもなるのだがそれを掃除する人手がないというのは困ったものである。
皆、貧しい暮らしを良くするために働いていることに変わりはない。
まあ、端から見れば滑稽な話だ。
自己実現できるはずの幸福を逃しているのだから。
一日仕事に休みを取って、みんなで家を掃除すればどんなに幸福を感じられることか。
まるで故事に引用されそうな話である。
それでも確かに当人らは苦しいのだ。
なんのために働いているのかがわからず苦しいのだ。
こんな哀れな例は国中にあるだろう。

2009年5月11日月曜日

いまのところはこれ二つ

歴史を見ると百年という時間はわずかなものに感じてしまう。
百年間という膨大な時間でさえ世界的な大事件はあまり起こらない。
しかし、その百年間の中には小さいながらも多くの出来事があるはずだ。
ただ全人類がかかわるような事件、発明はたしかに一瞬では起きないのだ。
積み重なった一日一日の実績の集大成が未来から眺めてみれば前代未聞の大発明が何の前触れもなく起こったかのように見え、軍人を、学者を天才と崇め理念化してしまうのだ。
それがわれわれの持つ偏見ともいえる愚劣した歴史観というものであろう。

しかし、きちんと紐解いて歴史に対し感覚をもっと研ぎ澄ませてみれば論理的で確実性のある考え方はいくらでもできるはずだとボクは思っている。
学説というのはどのような分野でも歴史を参照しているはずだ。
過去をたどり、かつ過去から予見できる範囲内の未来のことを思わなければ学説も実践性のない幻想となる。
もちろん、実用主義に囚われれば実践性が失われるように感じることは確かだ。
ボクが避けたい学説というのは確実な参照なしに取り組もうとする危うい学説だ。
学説が言葉である限りは他人を衝動的に突き動かすプロパガンダの一面があることは間違いない。
下手すればその学説が他人の死にも直結する危険があるのだ。
だから、ボクは誠実な学説を取り組むべきであろうとしていつも思考、思索している。
つまり、学者のように、いや全人類と同じようにボクも正しい思考の方法を求めているのだ。
そのなかで成立したものが以下の二つとなっている。


1:浮いた言葉と固まった言葉

2:短縮化していく世代間