なにぶん話すことが無い。
話すことや書くことがひどく下らなく感じる。
どうすべきか・・・。
なにかにすがり付きたい。
熱中して楽になりたい。
はやく忙しくならないものか。
2010年2月15日月曜日
ストレスというリラックス
今が一番好きな季節かもしれない。
前までは寒くも暑くもない春と秋だと思っていたが、この暴力的な寒さと交通には不便な雪は、かえってボクにとっては優しくさえ感じる。
ボクの人間関係もそうだが下手に優しいと相手の信頼を疑ってしまう。
上っ面だけなのではないのかと思ってしまうのだ。
むしろ、少々荒々しい方が付き合いやすい。
ボクはそもそもそういう荒々しい人たちの手によって育てられてきたような気がする。
いや人たちというより「荒々しさ」そのものから人としての在り方を学んだ気がする。
それは厳しさだとか殺気だっているとか気を抜いたら命を取られてしまうような空気と言うものが日本の一般的な社会生活のなかにさえあるということをいつだったかは忘れたが幼くして悟ったからだろう。
そもそも人と言うのはいつでも怒っているわけではない、無論、反対にいつでも優しいわけでもない。
ボクが「荒々しい」と表現する感覚は、普通に話していてふとボクが口を滑らしてしまった際、相手がまるで噛みつかんとするほどに怒った時のエネルギーのことである。
温かい毛布にくるまれて眠っていたかと思うと、いきなり冷水を頭からかぶせられたような、もしくは、波一つ立っていない水たまりに石が投げ入れられたような、そんな激しさにこそボクは安心できるし、常時戦っているような緊張感、つまり生きていることを感じられるのだ。
寒空の下、衣服から冷気がすり抜けて肌にぶつかるあの衝撃こそ気持ちがいい。
あれは明らかに死の力だ。
冬は多くの生物が死んでいく。
それは一種の闘争だ。
生物として避けることのできない闘争の時期が冬なのだ。
戦っているからこそ生きていられる。
そう考えた。
前までは寒くも暑くもない春と秋だと思っていたが、この暴力的な寒さと交通には不便な雪は、かえってボクにとっては優しくさえ感じる。
ボクの人間関係もそうだが下手に優しいと相手の信頼を疑ってしまう。
上っ面だけなのではないのかと思ってしまうのだ。
むしろ、少々荒々しい方が付き合いやすい。
ボクはそもそもそういう荒々しい人たちの手によって育てられてきたような気がする。
いや人たちというより「荒々しさ」そのものから人としての在り方を学んだ気がする。
それは厳しさだとか殺気だっているとか気を抜いたら命を取られてしまうような空気と言うものが日本の一般的な社会生活のなかにさえあるということをいつだったかは忘れたが幼くして悟ったからだろう。
そもそも人と言うのはいつでも怒っているわけではない、無論、反対にいつでも優しいわけでもない。
ボクが「荒々しい」と表現する感覚は、普通に話していてふとボクが口を滑らしてしまった際、相手がまるで噛みつかんとするほどに怒った時のエネルギーのことである。
温かい毛布にくるまれて眠っていたかと思うと、いきなり冷水を頭からかぶせられたような、もしくは、波一つ立っていない水たまりに石が投げ入れられたような、そんな激しさにこそボクは安心できるし、常時戦っているような緊張感、つまり生きていることを感じられるのだ。
寒空の下、衣服から冷気がすり抜けて肌にぶつかるあの衝撃こそ気持ちがいい。
あれは明らかに死の力だ。
冬は多くの生物が死んでいく。
それは一種の闘争だ。
生物として避けることのできない闘争の時期が冬なのだ。
戦っているからこそ生きていられる。
そう考えた。
2010年1月1日金曜日
男の時代
草食系男子についてはしょっちゅう語られている。
もしくは社会的に面白がられている。
それはファッションやライフスタイルから始まった。
オタクでも許される社会である。
オタクが犯罪者予備軍だった時代ではもうない。
アニメや漫画がジャパニーズカルチャーとして誇ることに誰も抵抗を感じない。
むしろ、経済が低迷しているなかでは期待できる産業として崇められているほどだ。
女装子が流行っているとか。
女装したがる男性が多い。
それも、いわゆる典型的な青いひげの残ったおっさんオカマではなく、むしろ女子よりもかわいいと評されている男性が思いのほか多い。
流行は、たしかに「男子の女々しさ、ひ弱さ」である。
逆に、そういう流行を逆手にとって肉食系のマッチョな男子が名乗りを上げているときでもある。
草食系男子がいて肉食系男子がいる。
男子の品定めをする女子も当然いる。
つまり、男子の時代である。
女子の存在は、まるで女郎を選ぶ金持ちのようにドンと構えていて肉食系男子よりも肉食である。
それはみかけではなく、社会的な位置づけがそうなのだ。
男子たちは一生懸命、己のスタイルを作ろうと努力し、男子の種類も増えた。
選ぶのはその努力をゆったりと見物していた女子であり、恋愛は彼女らの動き次第である。
男子はもう男らしいだけではないのだ。
様々なスタイルが確立し、それを目指そうとするのがイマドキの男子の習わしである。
男子の花嫁修業とも、就職活動とも言える。
別に恋愛を理由でなくとも、それが世の中の慣習になりつつあるのだ。
しかし、女子の方はどうだろう。
女子のスタイルといえば多少の差こそあれ、メディアで取り上げられるのは、鉄道オタやアニメおたなどのオタクな女子だけである。
本当の意味で世相は、「男は器量、女は度胸」になりつつあるのかもしれない。
これはそうでなかった時代の、つまり「男は度胸、女は器量」の時代のバランスを取る為に掲げられたスローガンかと思っていた。
今度は「男は度胸、女は器量」を掲げる時代かもしらない。
もしくは社会的に面白がられている。
それはファッションやライフスタイルから始まった。
オタクでも許される社会である。
オタクが犯罪者予備軍だった時代ではもうない。
アニメや漫画がジャパニーズカルチャーとして誇ることに誰も抵抗を感じない。
むしろ、経済が低迷しているなかでは期待できる産業として崇められているほどだ。
女装子が流行っているとか。
女装したがる男性が多い。
それも、いわゆる典型的な青いひげの残ったおっさんオカマではなく、むしろ女子よりもかわいいと評されている男性が思いのほか多い。
流行は、たしかに「男子の女々しさ、ひ弱さ」である。
逆に、そういう流行を逆手にとって肉食系のマッチョな男子が名乗りを上げているときでもある。
草食系男子がいて肉食系男子がいる。
男子の品定めをする女子も当然いる。
つまり、男子の時代である。
女子の存在は、まるで女郎を選ぶ金持ちのようにドンと構えていて肉食系男子よりも肉食である。
それはみかけではなく、社会的な位置づけがそうなのだ。
男子たちは一生懸命、己のスタイルを作ろうと努力し、男子の種類も増えた。
選ぶのはその努力をゆったりと見物していた女子であり、恋愛は彼女らの動き次第である。
男子はもう男らしいだけではないのだ。
様々なスタイルが確立し、それを目指そうとするのがイマドキの男子の習わしである。
男子の花嫁修業とも、就職活動とも言える。
別に恋愛を理由でなくとも、それが世の中の慣習になりつつあるのだ。
しかし、女子の方はどうだろう。
女子のスタイルといえば多少の差こそあれ、メディアで取り上げられるのは、鉄道オタやアニメおたなどのオタクな女子だけである。
本当の意味で世相は、「男は器量、女は度胸」になりつつあるのかもしれない。
これはそうでなかった時代の、つまり「男は度胸、女は器量」の時代のバランスを取る為に掲げられたスローガンかと思っていた。
今度は「男は度胸、女は器量」を掲げる時代かもしらない。
2009年12月31日木曜日
倫理的な言葉の使用
25日の事だ。
『山椒の実』という近親相姦系のエロ同人誌を読んだ。
この内容がまた類をみないほどディープで読者に対して鬼畜なものだった。
その内容は、同人誌の鬼畜系ファイルを参照してもらいたい。
読後、どうにも消化不良なところがあり何度も頭の中で物語を追っていた。
今さっきまでそうだった。
消化不良、つまりあの物語を思い返すと、どうにもむかついてならない。
なぜだろうか、それを考えていた。
ボクは変態だからたいていのプレイに関して知識があるし、興味も並々ならないほど持ち合わせている。
だから、近親相姦だの輪姦だの羞恥プレイだのに関して、あまり抵抗がない。
むしろ、より大きな興奮を歓迎するつもりでいる。
しかし、もちろんボクなりに意識しているところがある。
それは、言いかえればボクなりのルールやポリシー、倫理にも当たると思われる。
だから、ここで一度、それを文章化して整理してみようと思う。
整理すると言っても、そんな大それたことではない。
とても簡単に済む一つ、二つのルールを提示するだけである。
ひとつに、「喜びのない行為の禁止」である。
ルールというものは少なくともそれを享受するに値する人間にのみ当てはめることができるのであって、ルールを享受することに値しない人間、もしくはそれを喜ばしく思わない人間に押しつけることはしない。
たとえば、人妻を強姦しようとする。
相手もその気ならば、ボクはそれを「あり」と判定するだろう。
しかし、彼女の良心を傷つけるものならば決して許される行為ではない、そう考える。
サッカーはサッカー好きでやればよいのだ。
これは、ボク個人はもちろん、一般的にも理解を示してもらうことのできるルールではないだろうか。
ひとつに、「輪姦の禁止」である。
これは、第一のルールとは打って変わって、ボク個人の思いが反映されている。
ボクはチームが苦手だから、たとえ女を襲おうという展開になっても、誰かと組んでやるということはしないと思う。
個人をこよなく愛するボクなら強姦のときもひとりだろう。
これぐらいだろうか。
ルールというか「趣」になったのかも。
「ボク好み」とも言い換えられる。
しかし、絶対に公表したいと思ったのは、第一のルールである。
ボクが強姦においてもあれを適用させろと言ったのは、「強姦のなかにも倫理がある」ということを知ってもらいたかったからである。
言っておくがこれは、ただのきれいごとではない。
強姦にもある程度の「縛り」、つまりルールが存在している方が粋だと思うからだ。
花魁は、遊女であり、売春宿の高級売春婦でありながら、気高いほどのルールと上流階級の教養を身にまとっていた。
それにより、並みの客では金銭的にも教養的にも決して手が出せなかった。
そして、それがその時代の常識であった。
「花魁のルール」の存在をボクは素敵だと思っている。
ルールがあるからこそ、何かどっと溢れ出んばかりの情熱をこの身に込めることができる。
なかなか表現しにくいが、きっとルールの縛りは一種のマゾヒズムに浸ることができ、高揚感に浸ることのできる手段なのだろう。
強姦のルールがもし社会的に常識と化し、一種の空気になったとしたら、世の中の質は確実に変わる。
もし、女子高生が男数人に輪姦されたとする。
輪姦している最中に、女子高生の気分はまったく高まらず、性的興奮も起きなかったら、男たちはその場で手をついて謝りだすかもしれない。
ボクはそういう場面を面白いと思うし、それ以上に素敵な社会だと思う。
ルールといっても、やはり明記できない部分もある。
ボクが『山椒の実』の読後に感じたむかつきもボク自身が消化するのに2日を要した。
裏を返せば、ルールが無意識化する、マニュアルがオートになる、それがボクの理想体である。
それには、細かなところまで指摘して、やっとボクのむかつきは収まるのだろう。
あのむかつきの根本についても言及しておこう。
つまり、その細かな指摘である。
あのとき感じたのは、哀れでもなく悲しみでもなく、むかつき、苛立ちであった。
それは、「無責任な言葉」への疳癪だった。
ボクの倫理は、特に言葉に向けられるものが多い。
それは、ボクが読書や書道、詩、歌など言葉好きだからであり、言葉に対する責任にもたいへんこだわる主義だからだ。
言葉はコミュニケーションの主柱だ。
だから、たいへん慎重に扱わなければならない。
ボクはそれを言霊信仰と同等の信仰だと考えている。
その信仰はやはり自己教育の賜物であると思う。
ボクの根幹をなす倫理思想は今も変わらず新渡戸稲造の『武士道』に依拠しており、『武士道』の「緊張」を至高の倫理にしたいぐらいに思っている。
武士は自分の言葉に命を懸けているという。
これは、言葉を扱ううえで最高の倫理ではないだろうか。
日ごろ使う言葉と滅多に持ち出さない命を同等に扱う。
これほど潔いと感じるものはない。
ボクはこれを、人生を懸けて実践しようと思っている。
そんなボクにとって、『山椒の実』のなかで結果的に悲劇的結果を生み出す安易な言葉遣いには我慢ならないところがあったのだ。
あの作品は、悲劇としてとても素晴らしい内容である。
もちろん、そういう芸術の視点もボクは持ち合わせているつもりだが、やはり染みついた倫理はあの言葉の安易な使い方に牙を立ててしまうようだ。
『山椒の実』という近親相姦系のエロ同人誌を読んだ。
この内容がまた類をみないほどディープで読者に対して鬼畜なものだった。
その内容は、同人誌の鬼畜系ファイルを参照してもらいたい。
読後、どうにも消化不良なところがあり何度も頭の中で物語を追っていた。
今さっきまでそうだった。
消化不良、つまりあの物語を思い返すと、どうにもむかついてならない。
なぜだろうか、それを考えていた。
ボクは変態だからたいていのプレイに関して知識があるし、興味も並々ならないほど持ち合わせている。
だから、近親相姦だの輪姦だの羞恥プレイだのに関して、あまり抵抗がない。
むしろ、より大きな興奮を歓迎するつもりでいる。
しかし、もちろんボクなりに意識しているところがある。
それは、言いかえればボクなりのルールやポリシー、倫理にも当たると思われる。
だから、ここで一度、それを文章化して整理してみようと思う。
整理すると言っても、そんな大それたことではない。
とても簡単に済む一つ、二つのルールを提示するだけである。
ひとつに、「喜びのない行為の禁止」である。
ルールというものは少なくともそれを享受するに値する人間にのみ当てはめることができるのであって、ルールを享受することに値しない人間、もしくはそれを喜ばしく思わない人間に押しつけることはしない。
たとえば、人妻を強姦しようとする。
相手もその気ならば、ボクはそれを「あり」と判定するだろう。
しかし、彼女の良心を傷つけるものならば決して許される行為ではない、そう考える。
サッカーはサッカー好きでやればよいのだ。
これは、ボク個人はもちろん、一般的にも理解を示してもらうことのできるルールではないだろうか。
ひとつに、「輪姦の禁止」である。
これは、第一のルールとは打って変わって、ボク個人の思いが反映されている。
ボクはチームが苦手だから、たとえ女を襲おうという展開になっても、誰かと組んでやるということはしないと思う。
個人をこよなく愛するボクなら強姦のときもひとりだろう。
これぐらいだろうか。
ルールというか「趣」になったのかも。
「ボク好み」とも言い換えられる。
しかし、絶対に公表したいと思ったのは、第一のルールである。
ボクが強姦においてもあれを適用させろと言ったのは、「強姦のなかにも倫理がある」ということを知ってもらいたかったからである。
言っておくがこれは、ただのきれいごとではない。
強姦にもある程度の「縛り」、つまりルールが存在している方が粋だと思うからだ。
花魁は、遊女であり、売春宿の高級売春婦でありながら、気高いほどのルールと上流階級の教養を身にまとっていた。
それにより、並みの客では金銭的にも教養的にも決して手が出せなかった。
そして、それがその時代の常識であった。
「花魁のルール」の存在をボクは素敵だと思っている。
ルールがあるからこそ、何かどっと溢れ出んばかりの情熱をこの身に込めることができる。
なかなか表現しにくいが、きっとルールの縛りは一種のマゾヒズムに浸ることができ、高揚感に浸ることのできる手段なのだろう。
強姦のルールがもし社会的に常識と化し、一種の空気になったとしたら、世の中の質は確実に変わる。
もし、女子高生が男数人に輪姦されたとする。
輪姦している最中に、女子高生の気分はまったく高まらず、性的興奮も起きなかったら、男たちはその場で手をついて謝りだすかもしれない。
ボクはそういう場面を面白いと思うし、それ以上に素敵な社会だと思う。
ルールといっても、やはり明記できない部分もある。
ボクが『山椒の実』の読後に感じたむかつきもボク自身が消化するのに2日を要した。
裏を返せば、ルールが無意識化する、マニュアルがオートになる、それがボクの理想体である。
それには、細かなところまで指摘して、やっとボクのむかつきは収まるのだろう。
あのむかつきの根本についても言及しておこう。
つまり、その細かな指摘である。
あのとき感じたのは、哀れでもなく悲しみでもなく、むかつき、苛立ちであった。
それは、「無責任な言葉」への疳癪だった。
ボクの倫理は、特に言葉に向けられるものが多い。
それは、ボクが読書や書道、詩、歌など言葉好きだからであり、言葉に対する責任にもたいへんこだわる主義だからだ。
言葉はコミュニケーションの主柱だ。
だから、たいへん慎重に扱わなければならない。
ボクはそれを言霊信仰と同等の信仰だと考えている。
その信仰はやはり自己教育の賜物であると思う。
ボクの根幹をなす倫理思想は今も変わらず新渡戸稲造の『武士道』に依拠しており、『武士道』の「緊張」を至高の倫理にしたいぐらいに思っている。
武士は自分の言葉に命を懸けているという。
これは、言葉を扱ううえで最高の倫理ではないだろうか。
日ごろ使う言葉と滅多に持ち出さない命を同等に扱う。
これほど潔いと感じるものはない。
ボクはこれを、人生を懸けて実践しようと思っている。
そんなボクにとって、『山椒の実』のなかで結果的に悲劇的結果を生み出す安易な言葉遣いには我慢ならないところがあったのだ。
あの作品は、悲劇としてとても素晴らしい内容である。
もちろん、そういう芸術の視点もボクは持ち合わせているつもりだが、やはり染みついた倫理はあの言葉の安易な使い方に牙を立ててしまうようだ。
石鹸フェチ
最近はこまめに手を洗っている。
インフルエンザ予防のためなのだが、それがどうにも気持ち良くなってしまった。
インフルエンザウイルスというのは石鹸で対処できるというから、帰宅の際、食事の前、はもちろんのこと、少しでも手が汚れたと思ったら即、手洗いである。
石鹸を使うのは面倒だと考えていたが、今はあの固形を手のなかで転がすことが楽しくてしょうがない。
角が手のツボに当たると気持ちいい。
それに少しずつ無くなっていく様子が分かるところも観察のしがいがある。
使っていくと全体的に丸くなり、かわいい形になる。
あんなかわいいのにぬるぬるしているから手から逃げようと頑張っている、まあそう見えるのがまたかわいらしい。
ふと手を強く握りすぎたせいでツルンと逃げ出した時の感触がたまらない。
確かに手を洗うときれいになったというのが手の質感でわかる。
脂が流されているからだろうか。
水だけで洗った時にはない質感であり、あれも相当癖になる。
もともとボクは潔癖症のきらいがあったから、そういうのにははまりやすいのだ。
いまどき、世間一般では石鹸はあまり使われていないのだろう。
ボクの家にも、大量の未使用石鹸がある。
ボクにとってはそれを眺め、臭いをかぐだけでも悦に入る体験なのだ。
インフルエンザ予防のためなのだが、それがどうにも気持ち良くなってしまった。
インフルエンザウイルスというのは石鹸で対処できるというから、帰宅の際、食事の前、はもちろんのこと、少しでも手が汚れたと思ったら即、手洗いである。
石鹸を使うのは面倒だと考えていたが、今はあの固形を手のなかで転がすことが楽しくてしょうがない。
角が手のツボに当たると気持ちいい。
それに少しずつ無くなっていく様子が分かるところも観察のしがいがある。
使っていくと全体的に丸くなり、かわいい形になる。
あんなかわいいのにぬるぬるしているから手から逃げようと頑張っている、まあそう見えるのがまたかわいらしい。
ふと手を強く握りすぎたせいでツルンと逃げ出した時の感触がたまらない。
確かに手を洗うときれいになったというのが手の質感でわかる。
脂が流されているからだろうか。
水だけで洗った時にはない質感であり、あれも相当癖になる。
もともとボクは潔癖症のきらいがあったから、そういうのにははまりやすいのだ。
いまどき、世間一般では石鹸はあまり使われていないのだろう。
ボクの家にも、大量の未使用石鹸がある。
ボクにとってはそれを眺め、臭いをかぐだけでも悦に入る体験なのだ。
司馬遼太郎 歴史の共感から司馬史観
先日、3年間にわたって放送されるNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の第1章が終わった。
明治を舞台に、それも軍隊を舞台にしたドラマは珍しく、その上、豪華キャストで3年間に渡って放送する力作ともなれば歴史好きとして見ないわけにはいかない。
軍隊モノといえばどうしても終戦記念日に流れるような暗い、過去の過ちを反省するような内容に傾きがちだが、『坂の上の雲』は司馬遼太郎の司馬史観を忠実に反映させようとしているためか、「明るい明治」をコンセプトにしているようで観ていて面白い。
西欧列強の脅威が目前に迫っている明治初期の日本の国家的な奮闘が、このドラマが描きたい「明治の色」のようである。
明治から太平洋戦争終戦まで一つの波と考えれば、明治初期から日露戦争まで上り坂、そこから先が下り坂なわけで、この波が司馬史観なのである。
ボクはそもそも「史観」が好きであった。
きっかけはマルクスの唯物史観論であり、歴史好きも相成って「歴史の見方」に取りつかれてしまったようだ。
司馬遼太郎の名は、ずっと前から常識として知っていたが、ボクは小説が苦手な性分である上、国民作家の肩書がどうしても陳腐に思えた。
しかし、『坂の上の雲』での渡辺謙の原文の朗読を聴いていると、文体がとても好印象だった。
司馬遼太郎の人柄が伝わってくるようだった。
それは歴史に共感できたであろう才覚である。
明治という時代について、明治人の意識について、とても正確に共感できたであろうとボクは思う。
それはやはり司馬遼太郎の才能であり、歴史好きが追い求めるものそのものである。
司馬遼太郎の歴史への共感こそが司馬史観を生み出す原動力になっていたのであろう。
明治を舞台に、それも軍隊を舞台にしたドラマは珍しく、その上、豪華キャストで3年間に渡って放送する力作ともなれば歴史好きとして見ないわけにはいかない。
軍隊モノといえばどうしても終戦記念日に流れるような暗い、過去の過ちを反省するような内容に傾きがちだが、『坂の上の雲』は司馬遼太郎の司馬史観を忠実に反映させようとしているためか、「明るい明治」をコンセプトにしているようで観ていて面白い。
西欧列強の脅威が目前に迫っている明治初期の日本の国家的な奮闘が、このドラマが描きたい「明治の色」のようである。
明治から太平洋戦争終戦まで一つの波と考えれば、明治初期から日露戦争まで上り坂、そこから先が下り坂なわけで、この波が司馬史観なのである。
ボクはそもそも「史観」が好きであった。
きっかけはマルクスの唯物史観論であり、歴史好きも相成って「歴史の見方」に取りつかれてしまったようだ。
司馬遼太郎の名は、ずっと前から常識として知っていたが、ボクは小説が苦手な性分である上、国民作家の肩書がどうしても陳腐に思えた。
しかし、『坂の上の雲』での渡辺謙の原文の朗読を聴いていると、文体がとても好印象だった。
司馬遼太郎の人柄が伝わってくるようだった。
それは歴史に共感できたであろう才覚である。
明治という時代について、明治人の意識について、とても正確に共感できたであろうとボクは思う。
それはやはり司馬遼太郎の才能であり、歴史好きが追い求めるものそのものである。
司馬遼太郎の歴史への共感こそが司馬史観を生み出す原動力になっていたのであろう。
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