季節は秋から冬に移りつつある。
この過渡期がもっとも秋を感じることができる。
いや、正しく言えば後期の秋を楽しめる季節になったと言った方がいいだろう。
ボクは、秋には2シーズンあると思う。
前期は、スポーツの秋。
涼しいなかで伸び伸びと過ごせる。
服装もシャツ一枚で過ごしてちょうどいい気温だ。
こういう季節は、仕事でもプライベートでも動きまわるに限る。
体と季節がマッチしているのだ。
後期は、読書の秋だ。
シャツとジャケットで必須のワンセット。
靴下も欠かせない。
やはり窓越しで枯れゆく庭と本を行ったり来たり。
ココワがおいしくなってくるはずだ。
また、外で作業できる最後の季節だから、庭の整備や家の修理を忘れてはいけない。
秋は長い。
夏が、あれほど長い休みであるにもかかわらず、いつの間にか終わっているのと逆でゆっくり進んでいく。
楽しみも多い。
汗っかきで冷え症のボクにとっては、最高の季節だ。
残り少ない秋を楽しみたい。
2009年11月26日木曜日
キャラクターとその魅力のあり方
魅力的な人格とはどんなものだろうか?
キャラクター、人物像、ポリシー、性格、信念、人をかたちづくるものの話だ。
小説は人物像をすくい上げるところがまず読み進める第一歩のはずだ。
ボクはつまらない人物を嫌うから、どんなキャラクターでも、たとえ悪人でも、「魅力」が必要になると考えている。
少年漫画を読んでいると、よく思う。
こいつは敵だけど好きなキャラに入る、キャラとしての魅力がある、と。
人生を生きる上で大切なことは、人を好きになることだろう。
こいつを好きになろう。
それが平和な生活に導いてくれる行いだ。
隣人を愛せよ、この精神は確実に平和につながる。
もちろん、隣人を愛する人間が現代日本にどれほどいるのかは不明だが、それでもあらゆる人間を好きになるというのは世界中に通用する理想だろう。
ボクは規模が小さすぎるくらいだから、実践できる範囲のはずだ。
漫画を読むとき、どのキャラクターも肯定してあげるべきである。
親の気持ちになり、長所を挙げ、キャラクターと友達になるべきである
これがボクの習慣、というより癖である。
漫画でいうと少年漫画を描く漫画家はそこに気をつけるべきである。
やはり少年から読む漫画なのだから、キャラクターひとりひとりの魅力、好きになれるところをきちんとわかりやすく描く必要がある。
青年漫画からはもっと深みのある人生を背負うようなキャラクターを描き求めるべきだ。
一筋縄ではいかない人生だからこそ、深みとコクのあるキャラクターでなくては。
なぜ、キャラクターに「魅力」が必要なのか?に流れて行ってしまった。
最初の問いに戻り、魅力的な人格とはどんなものか?を書こう。
ボクがこうありたい、こんな人と友達になりたいと思うキャラクターは「どこかに欠陥がある」ことだ。
ボクの言う「欠陥」とは、そのキャラクターには似合わない性質のことで、キャラクター上の穴の事だ。
例えば、マッドサイエンティストなのに恐妻家だったり、No.1ホストなのに童貞だったり、パン屋なのに小麦アレルギーだったりと肩透かしを食らうような欠陥の事だ。
ボクは上記の例に一貫して持ち合わせている一種の「愛らしさ」が、ただ完全無欠のキャラクターではなく、欠陥のあるキャラクターの方が「落ち着く」のである。
ほんとうに良い人生には、完全無欠の機械人間はお呼びでない。
どこかに欠陥があり、少し口元がゆるんでしまうようなキャラクターが人生の舞台で舞い踊れるのだ。
キャラクター、人物像、ポリシー、性格、信念、人をかたちづくるものの話だ。
小説は人物像をすくい上げるところがまず読み進める第一歩のはずだ。
ボクはつまらない人物を嫌うから、どんなキャラクターでも、たとえ悪人でも、「魅力」が必要になると考えている。
少年漫画を読んでいると、よく思う。
こいつは敵だけど好きなキャラに入る、キャラとしての魅力がある、と。
人生を生きる上で大切なことは、人を好きになることだろう。
こいつを好きになろう。
それが平和な生活に導いてくれる行いだ。
隣人を愛せよ、この精神は確実に平和につながる。
もちろん、隣人を愛する人間が現代日本にどれほどいるのかは不明だが、それでもあらゆる人間を好きになるというのは世界中に通用する理想だろう。
ボクは規模が小さすぎるくらいだから、実践できる範囲のはずだ。
漫画を読むとき、どのキャラクターも肯定してあげるべきである。
親の気持ちになり、長所を挙げ、キャラクターと友達になるべきである
これがボクの習慣、というより癖である。
漫画でいうと少年漫画を描く漫画家はそこに気をつけるべきである。
やはり少年から読む漫画なのだから、キャラクターひとりひとりの魅力、好きになれるところをきちんとわかりやすく描く必要がある。
青年漫画からはもっと深みのある人生を背負うようなキャラクターを描き求めるべきだ。
一筋縄ではいかない人生だからこそ、深みとコクのあるキャラクターでなくては。
なぜ、キャラクターに「魅力」が必要なのか?に流れて行ってしまった。
最初の問いに戻り、魅力的な人格とはどんなものか?を書こう。
ボクがこうありたい、こんな人と友達になりたいと思うキャラクターは「どこかに欠陥がある」ことだ。
ボクの言う「欠陥」とは、そのキャラクターには似合わない性質のことで、キャラクター上の穴の事だ。
例えば、マッドサイエンティストなのに恐妻家だったり、No.1ホストなのに童貞だったり、パン屋なのに小麦アレルギーだったりと肩透かしを食らうような欠陥の事だ。
ボクは上記の例に一貫して持ち合わせている一種の「愛らしさ」が、ただ完全無欠のキャラクターではなく、欠陥のあるキャラクターの方が「落ち着く」のである。
ほんとうに良い人生には、完全無欠の機械人間はお呼びでない。
どこかに欠陥があり、少し口元がゆるんでしまうようなキャラクターが人生の舞台で舞い踊れるのだ。
ボクは悲しみをアニメで覚えた
ボクは悲しみをアニメで覚えた。
どんな駄作でも最終回にはなにか胸に残るものがある。
たいていのアニメはハッピーエンドだ。
それでも観ていると悲しくなるのはなぜだろうか。
それはやはり終わりゆくストーリーに対して干渉できないからだろう。
アニメでも小説でも映画でもストーリーや物語のあるものを観る者には、必ず傍観者としての責任が義務となる。
傍観者はストーリーの世界とはある程度の距離があるおかげで、怪我も失恋もしない。
ただ、自分が見てきた、あるいは間接的であっても存在してきた世界とは同じ運命を辿ることはできない。
それが悲しい原因だ。
悲劇のヒロインは、悲しみを背負い死ねるからいいが、傍観者は別の意味の悲しみを背負いながらも明日を生き続けなければならない。
今生の別れを押しつけられるような気分だ。
ボクはアニメを一気に全話ダウンロードしてみるから数時間で大好きなキャラ達と別れなくてはならない。
だから、ボクは傍観者の役がもっとも辛く、耐えがたいものだと思っている。
しかし、そうであっても、それがストーリーや物語に付き合う醍醐味なのだ。
井伏鱒二いわく、「さよならだけが人生だ」
どんな駄作でも最終回にはなにか胸に残るものがある。
たいていのアニメはハッピーエンドだ。
それでも観ていると悲しくなるのはなぜだろうか。
それはやはり終わりゆくストーリーに対して干渉できないからだろう。
アニメでも小説でも映画でもストーリーや物語のあるものを観る者には、必ず傍観者としての責任が義務となる。
傍観者はストーリーの世界とはある程度の距離があるおかげで、怪我も失恋もしない。
ただ、自分が見てきた、あるいは間接的であっても存在してきた世界とは同じ運命を辿ることはできない。
それが悲しい原因だ。
悲劇のヒロインは、悲しみを背負い死ねるからいいが、傍観者は別の意味の悲しみを背負いながらも明日を生き続けなければならない。
今生の別れを押しつけられるような気分だ。
ボクはアニメを一気に全話ダウンロードしてみるから数時間で大好きなキャラ達と別れなくてはならない。
だから、ボクは傍観者の役がもっとも辛く、耐えがたいものだと思っている。
しかし、そうであっても、それがストーリーや物語に付き合う醍醐味なのだ。
井伏鱒二いわく、「さよならだけが人生だ」
2009年11月18日水曜日
「悲しい」ということが世の中あるようでない。
「世知辛い」に違いないのだろうが、それは悲しみとは違う。
悲しいはもっと純粋で幼稚なものだ。
幼いころはみんな悲しさを知っていた。
それがいつからか「駄目なもの」、「恥じるべきもの」として抑え込むようになった。
ボクは結構、悲しみを理解しているつもりだ。
ちょっとしたことで泣きたくなる。
もともとが泣き虫だから悲しいことがあると涙がたまる。
もっとも、ボクがよく感じるのは哀れなことで、悲しいこととも少し違う。
客観的なのだ。
たとえば、交通事故で路上に横たわっている猫の死骸をみると、哀れだと思ってならない。
なんの因果か、車と衝突するなんてことは、まるで木の葉が大河の流れに連れ去られるように避けがたい天命というものを感じる。
人間も猫も走る自動車の前ではそう変わらないだろう。
あっと思ったが最期だ。
まあ、よく「猫の死体を見て悲しいと思ったら呪われる」というが、あれこそ「悲しい」ではなく「哀れ」と表現するべきところだろう。
悲しいはもっと自分に寄り添った表現だ。
ボクは、悲しみはなかなか説明できない。
悲しいとしか言いようがないからだ。
悲しみと哀れの説明になってしまった。
しかし、ボクは案外、悲しみだとか哀れみだとかに対しては好印象だ。
ボクが耽美を好む理由と同じように、さらりとした優美さを感じるからだ。
げらげら大笑いする10代に囲まれていると、それがどうしても野暮ったく思えてならず、そのせいか悲しみや哀れみに近づきたくなる。
元気なハッピーエンドもいいが、悲劇もやっぱり欲しくなるものなのだ。
「世知辛い」に違いないのだろうが、それは悲しみとは違う。
悲しいはもっと純粋で幼稚なものだ。
幼いころはみんな悲しさを知っていた。
それがいつからか「駄目なもの」、「恥じるべきもの」として抑え込むようになった。
ボクは結構、悲しみを理解しているつもりだ。
ちょっとしたことで泣きたくなる。
もともとが泣き虫だから悲しいことがあると涙がたまる。
もっとも、ボクがよく感じるのは哀れなことで、悲しいこととも少し違う。
客観的なのだ。
たとえば、交通事故で路上に横たわっている猫の死骸をみると、哀れだと思ってならない。
なんの因果か、車と衝突するなんてことは、まるで木の葉が大河の流れに連れ去られるように避けがたい天命というものを感じる。
人間も猫も走る自動車の前ではそう変わらないだろう。
あっと思ったが最期だ。
まあ、よく「猫の死体を見て悲しいと思ったら呪われる」というが、あれこそ「悲しい」ではなく「哀れ」と表現するべきところだろう。
悲しいはもっと自分に寄り添った表現だ。
ボクは、悲しみはなかなか説明できない。
悲しいとしか言いようがないからだ。
悲しみと哀れの説明になってしまった。
しかし、ボクは案外、悲しみだとか哀れみだとかに対しては好印象だ。
ボクが耽美を好む理由と同じように、さらりとした優美さを感じるからだ。
げらげら大笑いする10代に囲まれていると、それがどうしても野暮ったく思えてならず、そのせいか悲しみや哀れみに近づきたくなる。
元気なハッピーエンドもいいが、悲劇もやっぱり欲しくなるものなのだ。
2009年10月24日土曜日
もっとも注目する人 ’松岡正剛’について
松岡正剛のことは何度も書いてきた。
彼の著書も買い集めている。
これからも買い続けているだろう。
誰かの本を買い集めるなんてことはいままでなかった。
第一、ボクは飽きっぽいし、面倒くさがり屋だからだ。
集めている作家といえば、まあシェークスピアが4冊ほど、芥川と太宰が2冊ほど。
5冊さえ超えない。
その点、松岡正剛の著書は6冊だ。その上、彼の「千夜千冊」での感想を参考に本を買うから、そういう意味では本の購入のマエストロと言う重きもボクのなかでは担っている。
だから、松岡正剛は特別な存在だ。
存在と言ったのは、彼が特に何か専門的な肩書を持っているわけではないからだ。
しかし、松岡正剛は何でもやる。
明らかに「行動の人」だ。
行動の人こそ学問を好きになる人だとボクは確信している。いままでも、これからも、きっとそうだろう。
年内、何度もシンポジウムを開き、雑誌にも多くの記事を載せており、ISIS編集学校の創設者・学長であり、千夜千冊というただの「読書感想文」というにはもったいないほどの思索の大原稿をネットで公表しており、新書ランキングにも入選するほどの作家でもある。
彼は、今でもその時でも有名な作家やアーティスト、思想家、学者など多くの人々に会いに行っている。
先日も「セイゴウちゃんねる」で編集工学研究所に中田英寿が訪問し、プライベートな対談を行ったと書いてあった。
写真にはヒデとセイゴウが。
セイゴウは大のサッカーファンである。
また、松岡正剛の日本文化についての見解は新聞のコラムにも取り上げられている。
そんな松岡正剛を知ったのは、昨年の4月だったかな、たまたま見ていたテレビ番組に「松岡正剛というマルチ的な学問をする人が出る」というので観ていた。
そのとき、マルチ的な学問、全般的な学問に興味があったので強く惹かれた。番組を観たとき、番組の編集もよかった上、その彼の学問的センスとその声とその風貌に一目惚れしてしまい今に至る。
きっと、これからどんどんメディアにも登場するのであろう。
ボクは、身勝手ながらそういうボクだけのサブカル的存在が日の当る場所に出ていくのにいい気分はしない。
アニメにしろ、漫画にしろ、いわゆるオタク文化にしろ、「理解されたい」なんていう気はない。
むしろ、こそこそやっている方がいい。
ただ、松岡正剛の存在はボクが思っているほど小さくはない。
鳩山首相が、首相になる数か月前に松岡正剛と会っている写真をセイゴウちゃんねるで見ている。
このままじゃ、絶対に世の中がほっとかない。
松岡正剛は、もっと影の人であってほしい。ブームにならないでほしい。早く会ってみたい。
いまも彼をムービーで観ている。
彼の著書も買い集めている。
これからも買い続けているだろう。
誰かの本を買い集めるなんてことはいままでなかった。
第一、ボクは飽きっぽいし、面倒くさがり屋だからだ。
集めている作家といえば、まあシェークスピアが4冊ほど、芥川と太宰が2冊ほど。
5冊さえ超えない。
その点、松岡正剛の著書は6冊だ。その上、彼の「千夜千冊」での感想を参考に本を買うから、そういう意味では本の購入のマエストロと言う重きもボクのなかでは担っている。
だから、松岡正剛は特別な存在だ。
存在と言ったのは、彼が特に何か専門的な肩書を持っているわけではないからだ。
しかし、松岡正剛は何でもやる。
明らかに「行動の人」だ。
行動の人こそ学問を好きになる人だとボクは確信している。いままでも、これからも、きっとそうだろう。
年内、何度もシンポジウムを開き、雑誌にも多くの記事を載せており、ISIS編集学校の創設者・学長であり、千夜千冊というただの「読書感想文」というにはもったいないほどの思索の大原稿をネットで公表しており、新書ランキングにも入選するほどの作家でもある。
彼は、今でもその時でも有名な作家やアーティスト、思想家、学者など多くの人々に会いに行っている。
先日も「セイゴウちゃんねる」で編集工学研究所に中田英寿が訪問し、プライベートな対談を行ったと書いてあった。
写真にはヒデとセイゴウが。
セイゴウは大のサッカーファンである。
また、松岡正剛の日本文化についての見解は新聞のコラムにも取り上げられている。
そんな松岡正剛を知ったのは、昨年の4月だったかな、たまたま見ていたテレビ番組に「松岡正剛というマルチ的な学問をする人が出る」というので観ていた。
そのとき、マルチ的な学問、全般的な学問に興味があったので強く惹かれた。番組を観たとき、番組の編集もよかった上、その彼の学問的センスとその声とその風貌に一目惚れしてしまい今に至る。
きっと、これからどんどんメディアにも登場するのであろう。
ボクは、身勝手ながらそういうボクだけのサブカル的存在が日の当る場所に出ていくのにいい気分はしない。
アニメにしろ、漫画にしろ、いわゆるオタク文化にしろ、「理解されたい」なんていう気はない。
むしろ、こそこそやっている方がいい。
ただ、松岡正剛の存在はボクが思っているほど小さくはない。
鳩山首相が、首相になる数か月前に松岡正剛と会っている写真をセイゴウちゃんねるで見ている。
このままじゃ、絶対に世の中がほっとかない。
松岡正剛は、もっと影の人であってほしい。ブームにならないでほしい。早く会ってみたい。
いまも彼をムービーで観ている。
まず「前提」あり
なににでも「前提」がある。
今回のテーマは「前提」である。
ボクは小林秀雄の講演(1960年)を聴いたとき、この言葉の重きに触れられた。
それ以来、なにかものを考えるときには、まず「前提」から考える。
特に古い問題、歴史関係の問題について考えるときには必ず前提を踏まえて考えないと、空想と化してしまう。
例えば、BLが市民権を獲得しようとしている現在と「おかま」や「ゲイ」だと非難を避けるため人目をはばかる必要があった数十年前との同性愛を取り巻く環境の相違を考えると、そこには歴史的な前提があるではないか。
同性愛というものがある程度社会において寛容に扱われるようになった、これが現在の前提にあるではないか。
日本古来の同性愛の文化が廃れていった近代以降、同性愛はすべて切り捨てられてきた。
それが数十年前までの一般社会における常識であったはずだ。
しかし、それが今は「王様のブランチ」のコミックランキング10位以内にも入ってしまい、本屋ではそのコミックが平積みされ店頭に並ぶほど、「ボーイズラブ」と呼ばれる同性愛文化が認知され迎え入れられてきているではないか。
ひとつの問題をひとつで放っておかないことだ。
前提から考えなおせば、きっとヒントが見えてくるはず。
ものを知る為には「前提」や「原因」を読み取り、構図にして咀嚼する、これが自分のなかで理解したということではないのか。
今回のテーマは「前提」である。
ボクは小林秀雄の講演(1960年)を聴いたとき、この言葉の重きに触れられた。
それ以来、なにかものを考えるときには、まず「前提」から考える。
特に古い問題、歴史関係の問題について考えるときには必ず前提を踏まえて考えないと、空想と化してしまう。
例えば、BLが市民権を獲得しようとしている現在と「おかま」や「ゲイ」だと非難を避けるため人目をはばかる必要があった数十年前との同性愛を取り巻く環境の相違を考えると、そこには歴史的な前提があるではないか。
同性愛というものがある程度社会において寛容に扱われるようになった、これが現在の前提にあるではないか。
日本古来の同性愛の文化が廃れていった近代以降、同性愛はすべて切り捨てられてきた。
それが数十年前までの一般社会における常識であったはずだ。
しかし、それが今は「王様のブランチ」のコミックランキング10位以内にも入ってしまい、本屋ではそのコミックが平積みされ店頭に並ぶほど、「ボーイズラブ」と呼ばれる同性愛文化が認知され迎え入れられてきているではないか。
ひとつの問題をひとつで放っておかないことだ。
前提から考えなおせば、きっとヒントが見えてくるはず。
ものを知る為には「前提」や「原因」を読み取り、構図にして咀嚼する、これが自分のなかで理解したということではないのか。
”村”という政治体系
今日、ボクの住む町内(班と呼ばれているが)で、バーベキューが行われた。まあ、バーベキューといっても日本のバーベキュー。
作法も精神もないバーベキューだったから、もはや野外の宴会、それも町内でやっているのだから、むろん寄り合いにもなった。
これはただの馬鹿騒ぎではないのだ。いわゆる政治である。
ここでは陰口が飛び交い、冗談と本音が共に出る。「なあなあ」な感じはあるが、そこには了見と建前がいるものなのだ。
これは一種のパワーゲームであり、ミクロの社会であり、「いま」を語り合う場である。
けして失われてはいけない「村」の政治の在り方。
村というのは市町村の村ではない、一種の地域の在り方である。
村はいつの時代も百姓の統べる自治体でなければならないと思う。
「百姓」とは農民だけではない、むしろ農業をベースに敷き、副業を必ず行う者たちのことだ。
百姓とは、その中で政治が行える集団なのである。だから、どんな社会でも構成員は、全員百姓とも言い切れる。
「もと」は百姓なのだ。貴族も武士も最初は百姓だった。
これは起源説ではない、むしろ、その生活システムのベースとして百姓の働きは絶対に必要だからである。
無論、貴族も武士も起源は百姓である。
ただ、その「百姓」という社会の階層のなかで上位についた者が貴族になり、武装することで上位についた者が武士になったのだ。
百姓とはその字のごとく、社会(姓)全ての人々のことである。
社会を知るには百姓を知るほか道はない、と言い切れる。
作法も精神もないバーベキューだったから、もはや野外の宴会、それも町内でやっているのだから、むろん寄り合いにもなった。
これはただの馬鹿騒ぎではないのだ。いわゆる政治である。
ここでは陰口が飛び交い、冗談と本音が共に出る。「なあなあ」な感じはあるが、そこには了見と建前がいるものなのだ。
これは一種のパワーゲームであり、ミクロの社会であり、「いま」を語り合う場である。
けして失われてはいけない「村」の政治の在り方。
村というのは市町村の村ではない、一種の地域の在り方である。
村はいつの時代も百姓の統べる自治体でなければならないと思う。
「百姓」とは農民だけではない、むしろ農業をベースに敷き、副業を必ず行う者たちのことだ。
百姓とは、その中で政治が行える集団なのである。だから、どんな社会でも構成員は、全員百姓とも言い切れる。
「もと」は百姓なのだ。貴族も武士も最初は百姓だった。
これは起源説ではない、むしろ、その生活システムのベースとして百姓の働きは絶対に必要だからである。
無論、貴族も武士も起源は百姓である。
ただ、その「百姓」という社会の階層のなかで上位についた者が貴族になり、武装することで上位についた者が武士になったのだ。
百姓とはその字のごとく、社会(姓)全ての人々のことである。
社会を知るには百姓を知るほか道はない、と言い切れる。
登録:
投稿 (Atom)
