2009年10月24日土曜日

もっとも注目する人 ’松岡正剛’について

松岡正剛のことは何度も書いてきた。
彼の著書も買い集めている。
これからも買い続けているだろう。
誰かの本を買い集めるなんてことはいままでなかった。
第一、ボクは飽きっぽいし、面倒くさがり屋だからだ。
集めている作家といえば、まあシェークスピアが4冊ほど、芥川と太宰が2冊ほど。
5冊さえ超えない。
その点、松岡正剛の著書は6冊だ。その上、彼の「千夜千冊」での感想を参考に本を買うから、そういう意味では本の購入のマエストロと言う重きもボクのなかでは担っている。
だから、松岡正剛は特別な存在だ。
存在と言ったのは、彼が特に何か専門的な肩書を持っているわけではないからだ。

しかし、松岡正剛は何でもやる。
明らかに「行動の人」だ。
行動の人こそ学問を好きになる人だとボクは確信している。いままでも、これからも、きっとそうだろう。
年内、何度もシンポジウムを開き、雑誌にも多くの記事を載せており、ISIS編集学校の創設者・学長であり、千夜千冊というただの「読書感想文」というにはもったいないほどの思索の大原稿をネットで公表しており、新書ランキングにも入選するほどの作家でもある。
彼は、今でもその時でも有名な作家やアーティスト、思想家、学者など多くの人々に会いに行っている。
先日も「セイゴウちゃんねる」で編集工学研究所に中田英寿が訪問し、プライベートな対談を行ったと書いてあった。
写真にはヒデとセイゴウが。
セイゴウは大のサッカーファンである。
また、松岡正剛の日本文化についての見解は新聞のコラムにも取り上げられている。
そんな松岡正剛を知ったのは、昨年の4月だったかな、たまたま見ていたテレビ番組に「松岡正剛というマルチ的な学問をする人が出る」というので観ていた。
そのとき、マルチ的な学問、全般的な学問に興味があったので強く惹かれた。番組を観たとき、番組の編集もよかった上、その彼の学問的センスとその声とその風貌に一目惚れしてしまい今に至る。
きっと、これからどんどんメディアにも登場するのであろう

ボクは、身勝手ながらそういうボクだけのサブカル的存在が日の当る場所に出ていくのにいい気分はしない。
アニメにしろ、漫画にしろ、いわゆるオタク文化にしろ、「理解されたい」なんていう気はない。
むしろ、こそこそやっている方がいい。
ただ、松岡正剛の存在はボクが思っているほど小さくはない。
鳩山首相が、首相になる数か月前に松岡正剛と会っている写真をセイゴウちゃんねるで見ている。
このままじゃ、絶対に世の中がほっとかない。
松岡正剛は、もっと影の人であってほしい。ブームにならないでほしい。早く会ってみたい。
いまも彼をムービーで観ている。

まず「前提」あり

なににでも「前提」がある。


今回のテーマは「前提」である。
ボクは小林秀雄の講演(1960年)を聴いたとき、この言葉の重きに触れられた。
それ以来、なにかものを考えるときには、まず「前提」から考える。
特に古い問題、歴史関係の問題について考えるときには必ず前提を踏まえて考えないと、空想と化してしまう。
例えば、BLが市民権を獲得しようとしている現在と「おかま」や「ゲイ」だと非難を避けるため人目をはばかる必要があった数十年前との同性愛を取り巻く環境の相違を考えると、そこには歴史的な前提があるではないか。
同性愛というものがある程度社会において寛容に扱われるようになった、これが現在の前提にあるではないか。
日本古来の同性愛の文化が廃れていった近代以降、同性愛はすべて切り捨てられてきた。
それが数十年前までの一般社会における常識であったはずだ。
しかし、それが今は「王様のブランチ」のコミックランキング10位以内にも入ってしまい、本屋ではそのコミックが平積みされ店頭に並ぶほど、「ボーイズラブ」と呼ばれる同性愛文化が認知され迎え入れられてきているではないか。
ひとつの問題をひとつで放っておかないことだ。

前提から考えなおせば、きっとヒントが見えてくるはず。
ものを知る為には「前提」や「原因」を読み取り、構図にして咀嚼する、これが自分のなかで理解したということではないのか。

”村”という政治体系

今日、ボクの住む町内(班と呼ばれているが)で、バーベキューが行われた。まあ、バーベキューといっても日本のバーベキュー。
作法も精神もないバーベキューだったから、もはや野外の宴会、それも町内でやっているのだから、むろん寄り合いにもなった。
これはただの馬鹿騒ぎではないのだ。いわゆる政治である。
ここでは陰口が飛び交い、冗談と本音が共に出る。「なあなあ」な感じはあるが、そこには了見と建前がいるものなのだ。
これは一種のパワーゲームであり、ミクロの社会であり、「いま」を語り合う場である。
けして失われてはいけない「村」の政治の在り方。
村というのは市町村の村ではない、一種の地域の在り方である。
村はいつの時代も百姓の統べる自治体でなければならないと思う。
「百姓」とは農民だけではない、むしろ農業をベースに敷き、副業を必ず行う者たちのことだ。
百姓とは、その中で政治が行える集団なのである。だから、どんな社会でも構成員は、全員百姓とも言い切れる。
「もと」は百姓なのだ。貴族も武士も最初は百姓だった。
これは起源説ではない、むしろ、その生活システムのベースとして百姓の働きは絶対に必要だからである。
無論、貴族も武士も起源は百姓である。
ただ、その「百姓」という社会の階層のなかで上位についた者が貴族になり、武装することで上位についた者が武士になったのだ。
百姓とはその字のごとく、社会(姓)全ての人々のことである。
社会を知るには百姓を知るほか道はない、と言い切れる。

耽美を知る~名作たる同性愛コミックの読後~

ボクは漫画好きだが全ての漫画を知っているわけではない。
だから、漫画をひとくくりに話すことはできない。
ただ、かすかな経験から言わせれば漫画に「悲劇」はないということである。
悲劇的な結末は、もともとは「幼稚」な文化である漫画にはあってはいけないように思う。
しかし、先日それに出会ったのだ。
だから、いま、体と頭が重い。本当に尾を引いている。
精神的な攻撃がとても激しかったのだ。
読書及び文化の攻撃というのは精神を狙ってくるから質が悪い。
『美少年』(原作:団鬼六 絵:小野塚カホリ)を19日買って20日のAM0:00から読んだ。結末がとても悲劇的で、ボク個人としては正直なところ性に合わなかった。
ストーリーに凌辱シーンがあってもボクはいいと思っている。ただあの主人公には腹が立ってならなかった
ああいうタイプは一生ボクとは関わることがないだろう。
中途半端だよ、優柔不断だよ。背負いこめていない。
「覚悟」、最近この言葉について考えている。

人生において最も重宝すべき言葉ではないか。
人は人と付き合うことこそ人生と言えよう、ならば他人との付き合いの心構えとしての「覚悟」を片時も離してはいけない。
半端なら死んでも半端だという覚悟だよ、これは。
ボクは人生を懸けて人生を生きていたいから、軽率な行動や浅はかな行為にかんしては憤りを感じずにはいれない。
「非情」も嫌いだ。他人の弱みにつけ込んで欲を貪るなんてことはエロスとしても品に欠ける。
上品なエロスこそ上方文化の専売特許だ。
あの作品はそのミスマッチを利用したようでもある。
上品な女性に育てられてきた美少年を荒々しく犯す、そのナンセンス。それは実に面白いことなのだが、ボクは性分からやはり好めない。
小野塚カホリの絵の妖艶さはたいへんよかった。

この作品がBLなのかどうかは否定されて良いだろう、しかし「艶」はBLにも同性愛という広いジャンルにおいても欠かせない絵の要素だ。
ここから彼女の作品を読んでいきたい。
また、本の装丁もとても良い。
菊雄がカラーできれいに描かれており、背景は黒、題字は赤、裏には女形の菊雄、そこの文字の縦書きもよかった。
官能小説家・団鬼六を意識してのことだろう。
紙の質もよかった。
本の大きさもボク好みだった。
中も外も美しさにこだわりを感じた。
久々の「官能」でもあった。
エロ漫画なんてものは夏から秋までで400冊近くを読んでいるのだろうが、“官能”は本当に久しぶりの感覚であった。
そのおかげもあり1日経ってもくらくらしている。
「耽美」なんて言葉はすぐに人を陶酔の世界に陥れるから使うのもはばかりたいものだ。

しかし、正直なところあれは耽美だった、そうとしか言えない。

最近は茶器を中心とした骨董に興味が出てきたから「耽美」だとか「詫び寂び」だとかいう美意識をどうしても他の趣味にも用いたくなる。
幸田露伴の「骨董」、中島誠之助がラジオで喋っていた「古物」、小林秀雄や青山次郎の「目利き」、どれも艶と耽美を知っている。
骨董の目をもって『美少年』を読んでいた。
好きなものはそうやって読んでいきたい。

2009年10月17日土曜日

貴族性と武士性~素人歴史考察~

さっき考えていた。
貴族と武士のことである。

貴族と武士の生活の制度や様式こそ違え、起源は同じではないか。
貴族だって戦っていた者ではないか。
武士が歴史上に登場するまで軍を率いていた者はだれか、武官である。
立派な貴族の役職である。
貴族のイメージはどうも源氏物語のような国風文化が確立する平安時代中期から後期に由来するようだ。
どうもなよなよして甲高い声でしゃべる顔の白い弱腰の男、草食系男子の性質に近いだろう。
もしくは「女ばかりにうつつを抜かす」など光源氏を誤解したイメージもあるかもしれない。
また、愛憎渦巻く宮中、嫉妬と欲望のドラマというイメージも確かにある。
しかし、貴族だって兵がいただろうし、武に打ち込む質実剛健な者もいただろう。

ただ、武士が出現したからには「武」は武士のものとなったのではないか。
いやしかし、武士が出現しただけでは、「武」が貴族の下から去るということに直結しない。
貴族がいくさの指揮を執るかもしれない。
武士の出現ではなく、武士の台頭にこそ「武」の移動があったとみえる。
武士がいるからには貴族が武装する必要はない、「武」に関わる必要はない。

ただ、貴族性は必ず階級社会では現れる。
武士も上位の者になればなるほど貴族性が現れ、特に太平の世の中では貴族型の生活を送った。
特に江戸時代は、武士から戦国時代のような荒々しさを取り除くことから始まっているから貴族性が現れた官僚型の高級武士がよく見られる。
それも太平の世の中のおかげであろう。
武士を「武」張らせないようにしたのだから、貴族になるのも当たり前である。
もちろん、これは高級武士の場合であるから、下位の武士は「武」張ったものが残っている。
だから、幕末の英雄たちは剣の腕があった。
唯一、残っている「武」張ったもの、武術を継承していったのは、下位の武士、貧しい武士たちであった。

話は、貴族性と武士性が歴史的な社会のなかで人間の型として存在し連動していたという歴史スペクタルな部分に到達した。

2009年10月16日金曜日

共感されない前提が人生にはある、だからこそ

言ってみれば、このブログで書くということもそうだ。
テーマこそ覚えているが、それに対する情熱だとか思いだとか、そういう感覚を忘れてしまうことがある。
原因はボクの文章の拙さだろう。
ボクは「完全な共感」という完全な気持ちの共有こそ表現の頂点であると考えている。
すると、思いを文字に変換する際、緊張が走る。
適語であるか。
いや、一般的には適していなくとも、より共感してもらえる書き方があるのではないか。
それは方法論として文字文明が積み上げてきたものの一つだ。
例えば、それは倒置法なり体言止めである。
正攻法でしか伝わらないもの、奇策で伝わるもの、人間が持つ共感の能力をどう掘り起こすか。
大きなテーマだ。
文字を一つの大きな基盤にした社会で生きる我々にとって、表現の方法を適材適所に使い分けることは社会の人間すべてが目指すべきである。
その意味では社会の人間、つまり「全人類みな表現者」なわけだ。
文士や絵描き、クリエイター、編集者などと職種にない表現者にも素晴らしい表現を持つ人は多くいる。
例えば、銭湯のおやじさんは銭湯をきれいに掃除し、銭湯を運営し、その上、客に気さくに話しかけてもくれる。
十分な表現ではないか。
そういう目を持ち、共感の触手を広げ続けなければならない。

2009年10月15日木曜日

「燃やす」ということ

日曜日に庭の大きな梅の木を燃やした。
腐っているわけでもなかったが、木にもう生気がなく、水さえ欲しがっていなかった。
いわゆる立ち枯れである。
切る前から枯れているわけだから、秋晴れの今日ならばボウボウ燃える。
最初こそくすぶっているわけだが、そこに少しずつ薪を積んでやるとたくましいものになる。

やはり燃やすなら木だ。
草を燃やすのは害虫駆除のためだし、プラスチックを燃やすのは臭いから嫌だ。
木は燃やしてもいい大きさの火にしかならない、いい香りもする。

「木を燃やす」
それだけでも色々な方法もある。
いや方法と言うより趣の種類がある。
小枝を燃やす、丸太を燃やす、切って燃やす、折って燃やす、組んで燃やす、積んで燃やす。
火の顔と言うのは燃やし手が誘ってやっと出てくるものである。
ひと昔前、台所にまだお釜があったころ、これは火の面倒をみるということは庶民の女性として常識であった。
IHができて、すでに書いた台所での火との付き合いというのはなくなったわけだが、火と人間の関係は離れられないものになっている。
火は必ずやこれからも人間に使われることになろう。火を操るのは人間の象徴でもあるわけだから、火と付き合ってみるのは危険だが必要な上、楽しい。
いや、危険なものには必ず関わる必要性がある。
そこが面白いわけである、なぜか面白いわけだ。
ただの火遊びずきの助平では終わらない「火の学」。

2009年10月14日水曜日

小説と思想~「小説家」というコンセプト~

懸賞を狙って小説でも書こうとしている。
さきほどから、小説のあらすじを頭の中で思いついてはボツ・・・、「あっ・・」と思い付いては即ボツの繰り返しである。
やはり小説家というのはセンスが必要なのだろう。
三島由紀夫は書き直すことがなかったというぐらいだから三島は本当の小説家であり、本当に何かを書きたかったのだと思った。
第一、三島は「行動の人」である。
「楯の会」を組織し、東大全共闘とシンポジウムを開き、切腹で死ぬような人である。
いや、そもそも文章書いて食べていこうという人である。
激しい人である。

近代から日本の小説家と思想家が重なり合ったと言われている。
(いや、日本は「小説」という言葉自体が近代に誕生したのだから、「小説家という思想家が生まれた」、そう言い換えた方が適切である。)
しかし、なにも思想家が小説家、いわゆる物書きになったわけではない。
小説家が思想家になったとしても、書く前から自身の作を思想でまとめようなどという趣は読者としてまったく受けてとれない。
書こうとしたのは思想ではない、むしろ、「感想の変化球」とでも言えばよいか、あくまで小説とは「相手からの質問」である。
漱石も鴎外も「たとえ話」にすぎないのだ。
「で、どう?」というのが本の主旨であって、決して思想的な主題の提示などではない。
相手が投げつけるのは「こういう人生」、「こういう人」、「こういう事件」なのであり、そして「返答を待つ」の姿勢を取っている。
ボクはあくまで思想というのは自分のなかで組み立てるものではないかと思っている。
つまり、小説には思想はないが小説から思想を組み立てることができる。
小説にあるのは人生であり、大きな枠組みでいえば「物語」である。
もし、思想書と小説を同一視しているのであれば、それは大きな勘違いである。

2009年10月13日火曜日

自由な授業

秋も深まり10月13日。
最近やっと涼しい秋らしい気温になったと思う。
こういう時期は少ない。
いまと春先ぐらいだ。
いまが一番ボク好み。



ボクは高校生だから、当然、授業で黒板をノートに写す。
そして、ノートを見直すと、ノートごとに個性がある。
つまり、黒板ごとに個性が、教師ごとに教え方の個性がある。
その個性を比較するのは面白い。
まとめ方が下手な教師、やたらと色を使いたがる教師など人間性が現れ、彼らの編集能力がわかる。
高校教師程度ならみな似たようなものだろうが、大学なら教え方にもっと個性が出ているはず。
スクリーンに映し出したり、黒板に書きだしたり、配布したプリントとトークとジェスチャー、それを考えると今から楽しくなる。

ボクだったら、少女漫画で教えるだろう。
特に少女漫画が描けるわけではないが、きっと受けがいいはずだ。
まあ、毎日やるとしたら普通に不可能なのだが、月一で「まとめのプリント」として作成するのはどうだろうか。
教師の文字が美しいことは喜ばしいことだが、絵も描けることもだいじだ。
それが漫画絵だったらなおよし。
教科書の文字を、わかってもらうためにどう調理するのか、そこが腕の見せ所。
教えるということにもっと自由を持たせないと、生徒も「家で勉強した方がまし」だろう。

2009年10月12日月曜日

獅子を夢見る仔獅子

実は幼稚園の思い出アルバムに、ボクは将来なりたいものを「ライオン」と書き、絵を添えて、「ライオンになったら岩場で寝そべりたい」などという文章を残している。
それは、小学生、中学生のころには耐えがたいことで、同じく卒園していった子の全てのアルバムを燃やしたいと思っていた。
しかし、先日ふとそのことを思い出していた。
そしたら、「あの時、本当に夢を描いていたのはボクだけだった」そんな気がしてきた。
そんなに子どもの数は多くなかったから他の子のも少しは覚えているが、たいていの子は女の子ならケーキ屋さんやペットショップ、男の子なら自動車屋さんや野球選手、おもちゃ屋さんと書いていた。
しかし、彼らは本当にそれになりたかったのか。
ただ、書くべきことと割り切っていたのではないか、ボクは本気でライオンになりたかった。
ボクは正直、現時点でなりたいものなど特になく、ただこの田舎でのんびり過ごしたいぐらいに考えている。
その意味ではあの時と変わらない。
別にライオンだからといって何かを殺したいなどという恐ろしい考えはなかった。
ただ、雄々しき獣がのんびりと余裕の表情で過ごしている様子にはいつも憧れがあった。
社会から決別したいわけではなかった。
かといって、社会にどっぷり浸かりたいわけでもなかった。
力も欲しかった。
力はあるが力を出さない、そんな余裕が欲しかったのだろう。
そもそもそういう夢はのんびり屋のボクには合っていた。
しかしまた、激しい気性を隠していたボクにも合っていた。
そして、それはいまカントリージェントルマンの形で憧れとなっている。

2009年10月10日土曜日

アナルという人類最後の秘境を求めて

告白します。
ボクはアナル嗜好の人間です。
アナルを掘りたくてたまらない。
アナルファックなんてものは今の流行でもあるわけだが、ボクは最初からそうだった。
生まれついてのアナルマニア。
また、アナルに付き添う形でスカトロにも大いに興味がある。
それに関する書籍もビデオも持っている。

なんとも言えない、割り切れないアナルへの想いがボクにはある。
その上、ボクはBL好きだ。
しかし、調べてみるとボクだけがそうではないらしい。
ショタ同人ではアナルセックスが必ず登場する。
稲垣足穂は『少年愛の美学』を出している。
いや、そもそも同性愛の文化は世界中にある。
それはプラトンであったり、戦国武将であったり、ゲイ・カルチャーであったりしている。
当然のごとく、深いテーマだ。
「男性」も「女性」もない人間の根本にかかわるテーマだろう。
そもそも男性と女性というセクシュアルやジェンダーはもっと繊細な区分のはずだ。

いや、何もアナル嗜好は少年愛がらみだけではない。
女性に対してもアナル嗜好を持ち合わせている。
女性は豊満なヒップを持っているから艶がある。
特にアナル大国・アメリカの女性はアナルが似合う。

あまりこの手の話を持ち出さないが、下ネタなどと放り出さないでこのテーマにアプローチしていくことは大切であるはずだ。
ただのエロ話では終われせてはいけないはずだ。

2009年10月9日金曜日

あの頃のボクを守る

いまとなってはどんなものだったか、また誰が誰のかさえ覚えてはいない。
ただ、恥ずかしいことだけが残っている。

ボクが幼稚園児であったころ、幼稚園では一人ひとりクイズを出す日があった。
幼稚園児だから答えのすぐ出るようなクイズを出しては他の子に当てられていた。
ある日の担当がボクで簡単なクイズを出した。

「カブトムシの足は何本か?」

もちろん、座って聞いている子の一人が「6本。」とすぐに答える。
しかし、あのときなぜそんな解答を用意していたのかは忘れてしまったが、ボクは、

「3本だよ。」

という答えを、簡単すぎる問題に下を向いたり、横の子にちょっかいを出したりしている子たちに返したのだ。
ボクは即刻、「違うよ。」と否定され、泣きそうだった。
何も言い返せずにボクのクイズの幕は下りた。
そのあとのことはよほど惨めだったからか覚えていない。
しかし、あのとき確かになにか正解としての確かな手ごたえはあった。
それだけはずっといままで残っている。

つい、先日、そんな昔話を思い出していた。
いや、それが初めてではない。
今に至るまで何度も何度も思い返していた。
ただ、先日までは恥ずかしさだけが掘り起こされて、すぐにフタを閉じるだけだった。
先日にあのときの手ごたえがわかった。
あれは、屁理屈だった
カブトムシは6本足だが、3本足でもある。
つまり、「最大6本足という一般的な正答も正答ではあるが、3本も1本も0<X<6のなかに入っているので間違いではないはずだ」という幼稚園児ながらの可愛げのない屁理屈だったのだ。
それを理解したとき、あのとき自分に非がなかったことに、十数年という時間をまたいで安堵した。
または、小さい頃から虫好きだったから、野性のカブトムシには事故か喧嘩で足の欠けた個体をよく見ていたからそれを基にしてしまったのかもしれない。

また、ボクはあのときに世間というものの恐ろしさも経験したのだ。
自信のあっても、それが正しくとも、それを潰してしまう世間というものが小さいながらもあの場にあったことは書き漏らしてはいけない。
それが人間として生きる上で大きく関わるキーワード:世間への第一歩であるからだ。

風邪はいつもここから

風邪をひいている。
喉がつらい。
鼻もやられてきている。
体がぼろぼろに痛い。
目の周りが張っている。
顔が熱い。
体全体が熱い。
頭もボーっとしている。
熱は7度7分といつも低熱だ。

自分の風邪のパターンはよく理解している。
たいてい鼻から入って喉がやられる。
まあ、今回は反対だったが。
しかし、今日がちょうど峠だろう。
もしくは明日か。

風邪の原因はわからないが、多分、体の免疫の低下だろう。
いや、ほとんどの病気の原因はそこか。
免疫の低下が病原菌の増加を促してしまうのだろう。
ボクはちょっとぞっとした。
周りは敵だらけだ。
生きるってことは周りの無数の敵に勝っていかないといけないようだ。
ボクはいま、ちょうど決戦に入っているのだろう。
ガン細胞が一日ものすごい数で生まれているのを知ったとき、常に戦わなければならないのだと自覚した。

はっきり言って絶望した。
闘いしかないのか・・・。
はい、そうです。
鱒二いわく、「さよならだけが人生だ」。

2009年10月7日水曜日

『ロストイントランスレーション』、いい映画。

今年の秋は映画の秋のようだ。
映画といってもレンタルDVDや途中までしか見ていない家庭用DVDを見ていただけなのだが。
まあ、特におもしろかったのは『ロストイントランスレーション』。
これは2年ほど前にタイトルを知ったが、その長いタイトルのせいか探しもしなかった。
恋愛ものを観慣れていなかったせいかもしれない。

たまたまレンタルビデオショップで見かけたので借りてみた。
これがとても面白い。
何が面白いかと言うと、大人の淡い恋がテーマだが、舞台となっている「Tokyoのおかしさ」である。
如実に日本人を映し出した映画なのだ、この作品は。
アメリカ人から見れば、ズレっぱなしの日本人、ナンセンスな日本人、ジョルジュ・ビゴーの風刺画を観ているようだ。
そこも映画製作のミソのようで、あれは製作側から言わせればコメディーらしいが、笑えるようで笑えない。
そこを含めてもいい映画だったし、音楽や画質、ストーリー、ファッションなど諸々においてきれいな映画だった。

2009年10月4日日曜日

鶴下絵和歌巻を読む、見る。~宗達と光悦、自由な人たち~

「鶴下絵和歌巻」を見てきた。
地元の美術館に国宝展があった。

高校生は無料。
大学生は700円。
すごい差だ。
高校生が無料だということを知ったのはふた月ほど前。
正直、もっと利用すべきだったと後悔している。
部活で近くをよく通っていたから余計にだ。

国宝展だから層々たる作品の数々、空海も応挙も雪舟もいた。
しかし、ボクはそれらを見ても何がすごいのかわからない。
周りの人たちは、皆「すごい、素晴らしい」と言っていたが、「大したもんだ」と感心していた。
ボクは「ああ・・・、思っていたよりでかい。」
それぐらいだ。

応挙は確かに面白かった。
写実した鹿と金箔がマッチしていた。
金箔の光が鹿の体毛一本一本を際立たせていたように感じる。

とりあえず、本来の目的は「鶴下絵和歌巻」だから話を戻そう。
ボクはあれをずっと色紙サイズの作品だと勘違いしていた。
初めてみたのは雑誌でだから、そのぐらいだろうと思ってしまった。
「鶴下絵和歌巻」なんだから絵巻で当然なのだが、題は確認していなかった。
でも、たしかにあれは琳派の自由を感じる。
宗達の鶴もきれいだ。
光悦の書もまとまっているようで滑らか。
ゆるいのだ。
「鶴下絵和歌巻」が欲しくなった。

飲み物ボク好み

さきほど、知人から頂いたお手製のブドウジュースを飲んだ。
一週間だけしか保存できないから早く飲むようにラベルにペンで書いてあった。
赤紫色でワインと同じように熟成されていないせいであろう。

味はとても酸っぱい。
甘さはほんの少し感じられる程度だった。
ただ、発行しているせいか炭酸を感じた。
一般的にはまあまあだろうが、まだ熟成されていない味がボク好みだった。
飲むのはボクぐらいだから、夜中にちびちび飲んでいる。
また、手書きのラベルとワインボトルが気に入っている。
先日観た『ハンニバル』の影響かもしれない。

ただ、ワインもどきのジュースを自室で、音楽を聴きながら、本を読みながら、ラジオを聴きながら、減り具合を見ながら飲むのは酔狂かもしれないが、確かに悦に入ってしまう。
ブドウの香りというより「臭い」に近い本物の香りを楽しむ。
少しの渋と粒になった果肉のザラッとした口当たりはかえって心地よい。
ボクが本物嗜好だからだろうか。
いや、「本物の発見」を趣味にしているからだろう。

2009年10月2日金曜日

自律の始まり

「ネットから離れられない」
この癖をどうにかするためにいま周辺環境から変えている。
つまり、ボクはノートパソコンを使っているから、コードを抜いて使っているのだ。
そうすると、パソコンを使える時間は1時間程。
こういう環境から変えていく方が実用的だ。
北風政策よりも太陽政策の方が方法論として理に合っている。
政治にしても自己管理にしても常々そうだと感じている。

2009年10月1日木曜日

考えることは、言葉。

一日だ。
日ごろ思うのは、一日目があって本当に救われるのだ。
人間どこかできりをつけないと気持ちが悪い。
一日のおかげで「今日から始めるぞ。」と思える。
仕事の目途も立つ。
だから、1か月単位で一日が来るのはありがたい。
10月はブログでどんどん頭の運動。



言葉が社会の根幹に据えられたまさしく「ソース」であることは間違いない。
ボクたちは滅多にそういうことを考えないから、言葉と社会のかかわりを言語学に託してしまっている。
しかし、ふと考えてしまうはずだ、それを。
難しいようだが、メールやブログが「氾濫」と言われるまでに社会のなかで市民権を得ているのだから、言葉の工夫は誰でも考えてしまう。
言葉がどれほどの力を秘めているのか。
漢字が象形文字から発達しているということにも大きく関わると思っている。

また、社会学と絡めると、東京に印刷業・出版業が多いのも、これに関わるからだと思っている。
首都で、つまり、政治の中心で言葉を生産することは権力につながっているのだ。
元々、言葉を扱えるのは、上流社会の人間のみであったことは、文字が社会を形成する上で大きな意味を持っていたからだろう。

「言葉と政治と権力」

これが現代においても感じられる「言葉の呪性」だろう。
言葉そのものが呪文である。