「悲しい」ということが世の中あるようでない。
「世知辛い」に違いないのだろうが、それは悲しみとは違う。
悲しいはもっと純粋で幼稚なものだ。
幼いころはみんな悲しさを知っていた。
それがいつからか「駄目なもの」、「恥じるべきもの」として抑え込むようになった。
ボクは結構、悲しみを理解しているつもりだ。
ちょっとしたことで泣きたくなる。
もともとが泣き虫だから悲しいことがあると涙がたまる。
もっとも、ボクがよく感じるのは哀れなことで、悲しいこととも少し違う。
客観的なのだ。
たとえば、交通事故で路上に横たわっている猫の死骸をみると、哀れだと思ってならない。
なんの因果か、車と衝突するなんてことは、まるで木の葉が大河の流れに連れ去られるように避けがたい天命というものを感じる。
人間も猫も走る自動車の前ではそう変わらないだろう。
あっと思ったが最期だ。
まあ、よく「猫の死体を見て悲しいと思ったら呪われる」というが、あれこそ「悲しい」ではなく「哀れ」と表現するべきところだろう。
悲しいはもっと自分に寄り添った表現だ。
ボクは、悲しみはなかなか説明できない。
悲しいとしか言いようがないからだ。
悲しみと哀れの説明になってしまった。
しかし、ボクは案外、悲しみだとか哀れみだとかに対しては好印象だ。
ボクが耽美を好む理由と同じように、さらりとした優美さを感じるからだ。
げらげら大笑いする10代に囲まれていると、それがどうしても野暮ったく思えてならず、そのせいか悲しみや哀れみに近づきたくなる。
元気なハッピーエンドもいいが、悲劇もやっぱり欲しくなるものなのだ。

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