日曜日に庭の大きな梅の木を燃やした。
腐っているわけでもなかったが、木にもう生気がなく、水さえ欲しがっていなかった。
いわゆる立ち枯れである。
切る前から枯れているわけだから、秋晴れの今日ならばボウボウ燃える。
最初こそくすぶっているわけだが、そこに少しずつ薪を積んでやるとたくましいものになる。
やはり燃やすなら木だ。
草を燃やすのは害虫駆除のためだし、プラスチックを燃やすのは臭いから嫌だ。
木は燃やしてもいい大きさの火にしかならない、いい香りもする。
「木を燃やす」
それだけでも色々な方法もある。
いや方法と言うより趣の種類がある。
小枝を燃やす、丸太を燃やす、切って燃やす、折って燃やす、組んで燃やす、積んで燃やす。
火の顔と言うのは燃やし手が誘ってやっと出てくるものである。
ひと昔前、台所にまだお釜があったころ、これは火の面倒をみるということは庶民の女性として常識であった。
IHができて、すでに書いた台所での火との付き合いというのはなくなったわけだが、火と人間の関係は離れられないものになっている。
火は必ずやこれからも人間に使われることになろう。火を操るのは人間の象徴でもあるわけだから、火と付き合ってみるのは危険だが必要な上、楽しい。
いや、危険なものには必ず関わる必要性がある。
そこが面白いわけである、なぜか面白いわけだ。
ただの火遊びずきの助平では終わらない「火の学」。

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