懸賞を狙って小説でも書こうとしている。
さきほどから、小説のあらすじを頭の中で思いついてはボツ・・・、「あっ・・」と思い付いては即ボツの繰り返しである。
やはり小説家というのはセンスが必要なのだろう。
三島由紀夫は書き直すことがなかったというぐらいだから三島は本当の小説家であり、本当に何かを書きたかったのだと思った。
第一、三島は「行動の人」である。
「楯の会」を組織し、東大全共闘とシンポジウムを開き、切腹で死ぬような人である。
いや、そもそも文章書いて食べていこうという人である。
激しい人である。
近代から日本の小説家と思想家が重なり合ったと言われている。
(いや、日本は「小説」という言葉自体が近代に誕生したのだから、「小説家という思想家が生まれた」、そう言い換えた方が適切である。)
しかし、なにも思想家が小説家、いわゆる物書きになったわけではない。
小説家が思想家になったとしても、書く前から自身の作を思想でまとめようなどという趣は読者としてまったく受けてとれない。
書こうとしたのは思想ではない、むしろ、「感想の変化球」とでも言えばよいか、あくまで小説とは「相手からの質問」である。
漱石も鴎外も「たとえ話」にすぎないのだ。
「で、どう?」というのが本の主旨であって、決して思想的な主題の提示などではない。
相手が投げつけるのは「こういう人生」、「こういう人」、「こういう事件」なのであり、そして「返答を待つ」の姿勢を取っている。
ボクはあくまで思想というのは自分のなかで組み立てるものではないかと思っている。
つまり、小説には思想はないが小説から思想を組み立てることができる。
小説にあるのは人生であり、大きな枠組みでいえば「物語」である。
もし、思想書と小説を同一視しているのであれば、それは大きな勘違いである。

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