2009年7月5日日曜日

年の哲学~わが師、小林秀雄に感謝~

最近は書きたいことがない。
だから、それしかネタがないがとりあえずは書いている。
やりたいことも書きたいこともない、まるで涅槃につく直前だ。
老人ならばともかく青年がこうあっては体面が汚く見えないだろうか。
数か月ぶりに小林秀雄の講演をきちんと聴いてから「年の功」にボクは惚れこんでいる。
ぐっと来るというか、あれは数ある人生論のなかでも特にお気に入りだ。

きっと、青年ならば誰しも、ちょっとは大人のよう振る舞いで気取ってみたり、もしくは子供じみた真似をしてみたりしてしまうものであろう。
実際、ボクも一人前に凝った文体や難しい言葉を使ってみたりしてしまう。
そういうのは、やはり恥ずかしいことである。
後からになって気付いてしまう、1年後だったり、1週間後だったり、早くして5分後だったり。
「あんな余計なことしなきゃ・・・。」なんてことはしょっちゅうだ。
確かに青年は無理してお高くとまらなくとも、やんちゃにならなくともよい、青年は青年らしく普通にしていればよろしい。
それさえ、心に留めておかれれば、むしろ多くの失敗をしてほしいと思う。
そこが話の要である。
青年の理想になってもらわなくともよい、「あんな余計なことしなきゃ・・・。」の気恥ずかしささえ覚えていれば身体の老熟の作用も加わって中庸に生きられるようになってくる。
もちろん青年のみならず大人も年相応な振る舞いから外れてしまうことはよくあるだろう。
それでも、青年よりはずっと少ない。
それは青年時にそれを嫌ってほど経験したからであり、彼らの熟した人格はそれから来るのであろう。
つまり、失敗の連続の青年時代が大人になる手引となるのだ。
これを思ったとき、ボクはこれが「徳を積む」ということを実感し、「年の功」に納得できた。

まあ、それでも大人嫌いのパンクな中年はたくさんいる。
青年を気取っている中年はいる。
それが見識ある大人像ではないという意見もあるが、ボクは大人になった結果など正直どうでもよいと思っている。
すべての大人が理想の大人であることなど考えられない。
大切なのは確かに彼らが老熟していることだ。
年老いてゆく身体と共に精神が変化していく、それを老熟というのであろう。
何も「良い大人」にならなくとも、そこを踏まえた大人になってしまうのだ。
プラトンは老人を哲人の鏡としたがアリストテレスは頑固者と評した。
人間、端から見れば両極端の人間性に突き動かされる。
それでも年と共に老熟する身体と精神、その相互関係が人間の生き方に現れるところが面白いのだ。
別に人生を説かない、人生を言っているのだ。
小林秀雄の考えからも少々ずれてしまったか。
どうか、つたない文章ゆえ共感してイメージしてもらいたい。

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