暖かい日が続いている。
いまが「春」だ。
季節の典型的な日和なんてものは一年にそれぞれ2、3日といったところだ。
春らしい春、夏らしい夏そんな日は滅多にない。
春は生き物が臭う。
Webの活用もいまや日常的になってきている。
ボクもそうである人間だ。
小学校時代にネットに触れてからその視覚的簡便性や情報としての広さ、違法なほどの自由に楽しさを覚えた。
いまもその楽しさを味わうことには欠かさない。
ボクは小学校からパソコンをツールとして活用する授業は受けてきた、その一貫でインターネットの使用があった。
しかし、ボクはその頃のインターネットをただの用語辞典程度の役割として習った。
しかも、どこで調べればよいのかさえわからなく、その奥行きの可能性にたどり着けない自分のもどかしさを覚えている。
Webの進化は目を見張るものがある、それは確かだ。
しかし、それがうまく一般社会的に活用されていない。
いまだに未開の分野なのであるからか、ボクがいまだにWebに疎いからか、ボクは今でもWebの入口や正統的なコンテンツがわからない。
というか、学校の授業間においてそれを習わなかったためではないか。
これはあくまで言い逃れではなく現在のインターネットを活用した学校授業に対する警告だ。
いまだに開拓中の存在でありながら大きな役割を背負わされたネットは整理されていないにもかかわらず、そのリゾーム状の存在として世界で活躍している。
いや、ネットを「世界で」と表現するにはイマドキ少々ずれているように思われている。
そもそもいまやネットそのものが世界なのだ。
まず、この両目で玄関から外に出たところで世界全体を見渡すことなんて無理ではないか。
ネットが世界の媒体であり、一部であり、全てなのだ。
「Webには正統性がなく入り口たる入口が無く即効的活用が難しい。よってサブカルチャーの領域からでることができない。」
これがボクの主張だ。
これからは本当に簡単で子供がすぐに調べられるような百科事典の役割が必要なのであろう。
上の主張の視点から見ればWikipediaはむしろ大人の嗜みだ。
新たな進歩のためにある場がウィキなのだ。
しかし、子供のモノ調べに新たな進歩は必要ない。
必要なのは正しい知識だ。
「守」を徹底的に固めてから「破」に着く、それが進歩の原理のはずだ。
「進歩のための教育」
ウィキもそれに反しているわけではなく、ボクもWikipediaの取り組みの面白さを知っている。
ただウィキはあくまで「破」なのだから子供には必要なく、アンチWikipediaが教育ツールとしての「Web百科事典」がいま必要とされているのだ。
例としての「Web百科事典」を出したが、ネットを使用すると「正しさの不足」が感じられる。
YAHOOやGoogleのような検索エンジンも検索すべきワードをただ打ち込むだけではその調べたい意思とはうまくマッチしない場合も多い。
これには検索エンジンの工夫と検索方法の革新が必要になるだろう。
きっとこれからは「ネットの正統性を確立」して「新たな検索エンジン」が求められていく時代になるだろう。

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