2009年3月29日日曜日

発想と知識のリンク

発想は自分の持つ知識から繋げていくことが常道ではないだろうか。
自分の知識は無論、学校で教育され蓄積した知識と自分の趣味で培ってきた知識とに分かれる。
たいていの大人は後者の知識を知識というのではなかろうか。
自分の好みに合わない知識などもつ意味もない、と考えるのが普通だろう。
しかし、知はどのような場合も単体ではなく複合体だ。
その総合的性質は全体性をひとつの知識のなかにも根付いている。
そう考えると知のリンクは留まらない。
もはや絶滅した知識人や万能人はそれを知るまでもなく、その地位に就いていた。
なにせ学問の全体性がまだ当然の如くあった時代だ。
それに引き換え、今は学問の専門が多分化し全体性は理想として論じられている。
過去の知識人や万能人の時代はまだそれが起こっておらず、知識人ゲーテの時代19世紀からその学問の多分化が始まったとされる。

軌道修正して話をもどそう。
発想はリンクを介してではないと自らの意見として生まれてこないものとボクは見ている。
そのためにはひとつのジャンルの知識を得ていくのではなく、好みのジャンルの定規でもって別のジャンルにリンクを広げるべきであろう。
少しずつ先ほどのボクのように少しずつ「軌道をずらしていく」ことが必要になる。
軌道をずらしてずらして、どんどん全体性を背負える状態に達したと言える。
それはなぜ必要か。
ひとつのジャンルを専門として研究していくのは結構なのだが、そうするとどうしても視野が狭くなってしまいかねない。
もっと、ホームから飛び出して初心者で新天地を渡り歩くことが必要なのだ。
そうしないと専門分野の研究も正しい方向から逸れていくことになる。
それは独創性の排他ではなくむしろ矛盾点の改善のような感覚である。
知識というのは全体であった時代の方が長く、どんどん専門化していったとはいえ、意識を持ってこうも細かく分解されたのはここ200年以内の話だ。
もちろん、これはあくまで発想の問題であり、発想がある程度の制御下にあるための助言であることを忘れてはならない。
そして、いま書いたこの文章を誤って捉えてほしくないがために、助言の注釈をするとすれば、「発想の制御」とはあくまで「論理を正しく運ぶこと」であり、とんでもない発想の否定を意味しないのだ。

発想の問題であることも注釈の一つである、知識の蓄積に関してはむしろ別ジャンルの書籍を渡り歩くことが大事だろう。
知識のリンクを別方向からも張り巡らすことができ、またジャンルが別であることから発想の刺激ともなる。
哲学と植物学を同時に紐解き、それらをリンクして理解し自分が新たな知を作り出す、それがクリエイティブということではないか。

要すると、発想は1→2が必定だが、知識は1のマスを塗りつぶし、次は8のマスを塗りつぶすような行いが創造的であるということだ。
そこをきちんと押さえて日々の思索を練りたいものだ。

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