解釈
解釈とはひとつの学問、ひとつの論の根幹をなすものだ。
それは人間そのものの意識活動だ。
あるのは事象そのもののみだ。
それなのに哲学が、自然科学が、宗教がこうも派に分裂し、各主義が生まれたのは解釈の差異によるものと断言してよいだろう。
解釈、それは知の母である。
たとえば、心はどこにあるのか?といった問題について様々な解釈を使えば、答えは丹田であり、心臓であり、脳であり、DNAである。
この答えをみると19世紀から始まる学問の専門化そのものであるようだ。
学問の根幹、解釈は信仰が廃れ、理性至上主義から急速に発展をつづけ現在に至る。
つまり、信仰というひとつの視点、ひとつのコスモロジーの時代から多様な視点を容認し、発展という見返りから解釈を使う時代になったのだ。
だが、多様性は人間ひとりひとりが違うように多くの解釈を必要とした。
そのときに出てくるのが「解釈の差異」だ。
その「解釈の差異」は真理の視点を360度包み込むように分かれていった。
哲学から始まる学問の歴史は包括的で雑然とした総合知「哲学」からアリストテレスによって専門化した。
そして、真理のズレは少しずつ、だが時間とともに大きくなっていった。
現在の論理物理学とフランス文学を比較し、同様だと唱えることはできない。
しかし、少し考えてみればその根底にある目的は同様であることにも気付けるはずだ。
源流が総合知たる哲学にあることを。
自然という母親は同じ、されど解釈という父親は各々異なる。
それが学問や主義の本質であり、学問の宿命だろう。
ボクはこの解釈を常に脳内のデスクトップに置いておきたい。
さまざまな視点こそが糧となる。
以上!

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