2009年2月20日金曜日

著作権

読書好きとしては書籍存続のためにも作家の資産である著作権を守るべきだとは思う。
しかし、それはあくまで書籍存続、つまり作家がいなくなったら困る程度の意味しかない。
けれども、作家にはかわいそうな話で著作権とは実に限界が見え透いた権利である。
いや、すべての権利は限界が見えているが。

著作権の限界が見え透いているとはどういうことであろうか。
それはすでにロラン・バルトが彼の思想のなかで解決しているようにも見える。
ボクが言うとすれば、どんな偉大な作家の意思や作品への思い入れも読者に読まれる瞬間には読者独自の解釈の二の次となってしまうということだ。
読まれるその瞬間にはその作品(そのなかの思想)は作家から読者へ無償で引き継がれてしまうのだ。
よほどの注釈を付け、読者目線を持たなければ自身の考えは相手に完璧には届かない。
そこが著作権の限界だ。
そう考えると著作権とは作家が食いつないでいくためのただの利権でしかなく思える。
まあ、では作家にのみそれが当てはまるかというとバルトの言うとおり、これは文学作品のみならずテクストと呼ばれるものにはすべて適用される。
つまり、このボクのブログも他人とのズレが生じ伝えきれていない部分が必ずある。
それが言語の限界でありそのなかで生きる人間の限界か。

もし、それが無ければテレパシーだろう。
それを考えると谷川流のライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』に登場する情報統合思念体を思い出す。
彼らは実体を持たず複数でありながら個体数が無い存在、いや概念である。
そこにボクは日本文化の幽玄や妙の世界を感じる。
そして、直観でだが、形を重視する言葉、論理では片づけようのないものは形を捨てなければ伝達できないと考える。

現在、著作権とは作家という知識人階級がブログの登場により追われる身となったために自信を守るための利権である。
ブログは著作権に反しコピーを張り付けている。
ブログの奔放さは犯罪まがいではあるが編集の喜びが感じられ、知の在り方を表現している。

以上!

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