2009年2月16日月曜日

器が小さくても

ボクはあまり付き合いのないほうだから、常に不器用な生き方だ。
なにに不器用か。
いわゆるところの人間関係だ。

哲学的になるのだが、人間関係に関係しなかった人間はいないだろう。
人間は社会的動物なのだとボクも信じている。

人と一緒にいて悪い気分はない。
ただ、ボクはその人とずっといたいとは思わない。
それはだれでも思っているのだろう。
ボクはそのレベルが他人と違う。
みんなが一緒にいる時間よりボクが望む時間は短いのだと思う。
いや、夜通し一緒にいたいというときは必ず訪れるのだろう。
要はだれと一緒にいたいかだ。
そこらが器用にいられない。
つまり、嫌いをはっきり表現してしまう。
そこで、我が道を行くならば問題はない。
だが、ボクはそこまでできない。
常に顔色をうかがい、嫌われないように根回しをしている。
少々のことで落ち込み、喜び、おびえる。
居場所を失いたくないのだろう。

それでも討論するときと書くときは独創的に、鋭くありたいと思う。
それを実践していると思う。
もちろんこの文章の通り、足りない人間だが。

自分を出せないボクと独創に走るボク、その両人がボクのなかにいるのだが、そんなことは誰でもそうだろう。
問題はその使い分けだ。
ボクの問題は真面目にするときとふざけるときに両人の使い分けができないことだ。

そんな使い分け、独創の邪魔だと思うボクもある。
では、周りから浮きまくって、社会から飛び出して独りでいればいいのか。
社会的でない人間は人間ではないだろう。
別に人間でいなくてもいい。
しかし、それは新たなステップだ。
新たなステップには必ず変化や死が待っている。
死は嫌だろう。
嫌ではない。
ただ、生が欲しくなるかもしれない。
それは家族や他人との関わりからくる楽しみだ。

問題はそのステップだけだ。
踏み出すべきか止まるべきか。

以上!

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