古今東西、賢者の考える理想的な生活スタイル、それが中庸である。
アリストテレスも仏陀も孔子もこの中庸、すなわち行き過ぎずの人生を確立したものとしていた。
それは仏教で言うとひとつの悟りであった。
強過ぎず、弱過ぎず。
硬過ぎず、柔らかすぎず。
その価値は確かにいまも納得させられる。
「適当」、「いい加減」という言葉は言うと軽率な印象を持たれがちだが、こう書いて見てみるとなんと人生の真理のようではないか。
人生の真理だからこそ、叶えがたいからこそ、軽々しく発言すると軽率な印象となるのだろうか。しかし、古い哲学者の悟りは言ってみれば「自分以外の人類」への福音であろう。
哲学者というのは論理、思考を道具とする連中だ。
論理は論理的に最後のx=まで妥協せず計算していくものだ。
つまり、行き過ぎが生業だ。
そんな彼らがなぜ中庸などという概念をつくりえたのか。
それは自身の境遇の虚しさを知っていたからだ。
自分たち、哲学者はいわば「知の愛」によって支えられている、でなければ実に無駄な行いを為す人種だということを悟ったのではないか。
そもそも学問は考えたところで「無くてもいい」のなかでしか動けない。
行き過ぎてしまう性癖の持ち主である自分たちを愚者とみなし、道楽者とみなしてから本当に幸せな生き方とはなにか。
それが中庸の徳に尽きるのだ。
悩まず、しかし、悩み、適当に生きる。
それが本当であり、健全な人間の姿なのだろう。
ボクも行き過ぎの一員としてそう思う。
以上!

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