「家」
家というのは住むところだ。
それ以外に定義はない。
だから、あばら家だろうと宮殿だろうと、ダンボールだろうと家だ。
これは肉体の話。
精神論からいえば、(詩的ではあるかもしれないが)たとえば本であったり絵画であったりする。
これはつまり本そのもの、絵画そのものではなく読書や描画といった動名詞に重きを置いている。
行動に生きることは観念に生きていることだ。
前者は一般的な家の概念にあたる。
大なり小なり自身の行動拠点となる建物だ。
ボクは建物としての家は好きではない。
安泰や平和の象徴とも取れる家などは不要でありたい。
家は家族とつながる場所であることは古今東西変わりないであろう。
ボクは友達もいなければ、恋人もいない。
ただ、伝統深い家族がいるだけだ。
帰る場所は執着の源となる。
家族は心地よいし、安らぐがそれがいつか心を乱す原因になる。
孤独を好むボクだからこそ。
家族は重荷でもある。
いつかはこの家も否定しなければならない。
そして自らの居場所であるこの体も。
ボクは旅人でありたい。
いつでも自分を捨てられる旅人、恐れなどはない。
唯一執着できるものさえあればよいのだ、そのためには。
それは定義の後者にあたる。
石田衣良は素晴らしい建物としての家に住んでいるが、自身は紙とペンがあれば世界の果てでも作家をできるということをPLAYBOYの書斎特集で述べていた。
本好きのボクにとっては書斎こそ家と同義なのだ。
本を置いておける場所、しかし読書の理由は本を集めるためではない。
知るためだ。
知り、考え、動き、心を満たす。
それ自体が目的であり、書斎はそのために必要だ。
だとすれば、これは矛盾。
つまり、石田衣良と同様、ボクも建物としての家はいらない。
この身一つで飛び出したい。
ただ一本道を行きたい。
一見、これは苦行のようだが、一種の逃げでもあるのだ。
家族や友人を持ちたがらないのは強そうでありながら、彼らを失うことを恐れるあまりにそうできないでいるだけなのだ。
その悲しみを受け入れられないだけで閉じこもっているだけでもあるのだ。
だが、家族を持つことも逃げとも考えられる。
ただ、甘えているだけと。
どちらも逃げなのであり、苦しみなのだ。
やはり、生きることは苦行なのだ。
だとすれば、己の道は己の欲と天命に従い旅に生きたい。
以上!

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