「国民」
国民とは国家における最大の人数の固有単位である。
ゆえに国民を考えると一個人の犠牲は不可欠となる。
それは常々、政治のなかで繰り返されている。
しかし、そのとき恐れるべき事態は一億総玉砕の再来ではなかろうか。
一億総玉砕とは全体を重んじるが為に個人を蔑にすることを肯定する思想だ。
全体主義の昇華、もしくは末期症状ともいえる。
そこまでいくと全体主義の意義そのものが破滅する。
全体一億を守るために個人一億を犠牲にするという矛盾を来してしまう。
それが戦中のスローガンであったのではないか。
戦中といっても一億総玉砕が唱えられていた時代だが、その時代の全体主義が守ろうとしたものは国民の命という全体ではない。
一億総玉砕の矛盾点はその当時からも突かれていただろう。
そのときにつくられたのは「天皇の神聖性」ではないだろうか。
民族宗教の頂点である(無論、国家神道における頂点である)天皇をより神聖化し神として奉ることで大和民族の民族性というものを再認識させようとしたのではないか。
大和民族という民族のこころ、民族性を全体と置き換え守ろうとしたのではないか。
その象徴たるものが天皇であったのだろう。
戦争には精神がつきものだ。
それはクラウゼヴィッツが「戦争論」のなかで説いているとおりである。
肉体よりも精神のほうが戦争では大事になる。
要は捉え方にあるのだ、それは認識の段階ともいえる。
一個人の集まりであると具体的に見るか、ただ全体と抽象的に捉えるかでは「国民」を考えるときに大きく軌道をずれた意見に分かれるのではないだろうか。
以上!

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