2008年12月25日木曜日

「合理的」の濫用の歴史

「合理的」という言葉が巷では頻繁に使われるが、この言葉ほど使用にやっかいなものはない。
合理とは何かをまず整理する必要があるからだ。
理に合う、手段として最も都合のよいルートに使用する。
問題はその判断が難しいところだ。
その理の証明に歴史的に数々の思想や哲学が生まれ、使用されてきた。
現在の立場から見れば、使用ではなく実験だろう。

例えば、環境破壊。
かつてのキリスト教社会、キリスト教の教えが社会の根本に根強くあった時代では自然というのは人間のためにあった。
神がご自身を写してつくられたという生物、それが人間。
その人間の資源として存在する自然環境。
その関係は現在から見れば、あまりに非合理的だ。
木を過剰に伐採すれば、自然のバランスを崩し、人間は結局その地から締め出される。
もしくは全滅する。
産業革命、いや、それ以前からわかっていたことだ。
エジプト、メソポタミア、インダス、黄河どの文明発祥の地を見ても、いまは砂漠と化している。
文明発祥の頃、各地の自然環境は豊かであっただろう。
資源が無ければ何も生み出すことができないのが人間だ。
しかし、エコなんてしらないものだからやりたい放題、文明発達し放題。
文明をもち始めて人類も若かったと言えば、それまでだが。
産業革命、いや、それ以前からわかっていたことなのだ。
あくまで現在からみればだが。

かつての合理的もいまでは愚の骨頂だ。
そこが難しいのだよ。
私的な話だが、安く売っている本をまとめ買いしてもあまり勉強にはならない。
それは安く売っている分、特に読みたくもない本も買ってしまう可能性があるから。
また、たくさん買うので結局、積読化する。
そんなところでさえ合理的な正解をみつけることは難しい。
そこではやはり、帰納法が重視され、実験や経験がカギとなる。
しかし、そうするとやってみないとわからないということなので、失敗の覚悟は常に必要だ。
帰納法的生活とはこういうことだろう。
とりあえず、とびこまなきゃ。
事実を積み重ね、正しい知とするには時間が大事となる。
だから、若いころになんでもさせたがるのね。
この生き方はさ。

以上!

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