2008年12月12日金曜日

常識と世代間の哲学

人生五十年だった時代と百歳もざらにみる現代とでは命のあり方、人生の目的意識も異なっていたであろう。
そういう所謂、意識の違いが判断力や思考力を変化させ、独特の思想や哲学を築いていった。
それには環境という概念は非常に大切なポイントとなる。
すべて環境による決定とは言い難いが、それでも自己よりも環境の方が判断の分が多いのではないか。
そう考えると我々がいま、悩んでいる「空気」についてはまさにそれであろう。
全体が支配し、かつ各々の中に住むものの仕業だ。
全体を築くためには、社会と言い換えてもいいが、それには共通する感覚、一般意思がないと築くことはできない。
それには多少のずれこそあれ常識として荘厳に世の中に君臨する。
しかし、その常識がどれほど現代という時代において使用するには脆く、性質も変化しやすいか。
それは近頃、考えた「世代間の哲学」がまさしく答えとなろう。
世代が違えば考えることも違い、自ずと常識とするものも異なってくる。
ケータイが常識の世代、好景気体験が常識の世代、戦争体験が常識の世代、生まれたばかりの世代、死に逝く世代。
変化の激しい現代であるからして、このような世代間のズレが生じる。
江戸時代の農村ならば、50年前の人間が未来に行ったとしても、さほどの障害は起こらないだろうが、現代ならばもはやその人間の常識など何の役にも立たないであろう。
それは我々が望み、かつ望まなかったことだ。
「最速」という言葉が電子機器においてポジティブに聞こえ、「スローライフ」という言葉が生活様式においてはポジティブに聞こえる。
しかし、両方を望み、両方で幸福を得ることは不可能である。
真に生きるということは何かを捨てなければならない。

以上!

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