2008年12月1日月曜日

読書から得ることと注意すること

よく考えてみれば自分の行いが損であることに気づくことなどしょっちゅうだ。
そのひとつが『バカの壁』(養老猛司・新潮新書)にあった。
ボクは自分というものを知りたく、もがいていた。
いや、それ自体は今もかもしれない。
自分とは、つまり個性とはなにか。
それを知りたくて、そして作っていきたくて、ここを作ったともいえるのだ。
だが、自分の体が日々、変化していくのにその度に自分の個性を整理していくのは間が抜けている。
そう思い、やめたわけではない、ただ楽になった。
自分をわざわざ知ろうとする行為がただの足掻きであったことを知って、なんだか正解を見つけられたような気がしたのだ。

だが、ボクの信条やモットーのようなものに「抗い」というものがある。
人間はなぜスムーズに生きられないのか。
なぜ面倒にも悩まなければならないのか。
なぜ苦しみがあるのか。
それは、それに役割があるからだ。
苦しむことも悩むことも、嘆くことも一見、不器用で無為自然とは逆の道と思われるだろうが、それがあるのはそれに役割があるからに違いない。
すくなくとも、ボクは生きていく上で役割を与えられていないものを見たことがない。
(これはある意味、低迷し、学問としての体系が危ぶまれる哲学への救いとでも言い換えられる。)
ボクは正しさを否定する「抗い」がより正しい結果を生んでくれることを確信し、生き方として、それを据えている。
上記は、少々、ヘーゲルの弁証法に近い考え方かもしれないが。
世の中において可能性が0になることはない。
その可能性に向けて「抗い」続けよう。

読書する際に気をつけていることがある。
それは本の内容を「鵜呑みにしないこと」だ。
鵜呑みにし、その内容を信じ込むことはとても危うい行為であるし、それは読書としてボクは一次の読み方だと思う。
一次は文字を拾っていき、表面だけをすくっていく行為である。
そこには記憶力しかいらない。
たいてい、読書というとこれでもっとも楽な読み方だ。
二次になると、すこし深くなり、著者と会話している気分になる。
綾や文書の構成、書き方のかたさからなにを言いたいのかわかる。
三次は感情を感じ取る方法だ。
内容より感情を優先させる。
二次と同じように思えるが、二次はあくまで文章で理解しなければならず、三次は感覚だ。
もはや、理屈抜き。
親友と話しているくらいに文章を把握していないと著者とのシンクロはできない。
著者が実際、どう思っているのか。
相手は物書きであり、文字で隠されている気持ちや感情を嗅ぎ分けていく力が必要だ。
これはインスピレーションの問題かもしれない。

今回はとくに散漫なものになった。

なにをすればわからない。
アニメか。
陶芸か。
ファッションか。
さあな。

以上!

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