2008年7月2日水曜日

懐疑の精神

懐疑せよ、されば、学ここにあらん。

懐疑したから人間は学問を積み上げることができた。
懐疑し、体系化し、時代の常識となり極まったかに見えた。
しかし、誰かが再び、懐疑し、新時代を築く。
それが、人の歴史、論争こそが学問の核。
人は磨き上げられたものや精巧に仕込まれたものを見ると、これ以上はできない、と断念しようとする。
もしくは、妥協する。
だが、成功者は懐疑する。
もっと上があるはずだ。
心にある懐疑心のみを信じていくのだ。
自分にも相手にも満足せず作り上げていく。
これを一種の心の修養と考える者もいるが、そんなきれいに言えるようなものではなく、ただの人間の心の作用だ。
それ自体は、むしろ、忌み嫌われる精神。
美を極めるために人を殺す、技を究めるために人を捨てる、これらはよく聞く、かつタブー視された精神の一種だ。
懐疑心もその一つだ。
その心の作用が時代を作ってきた。
薄汚い精神とも言える。
しかし、今、私が薄汚いと決めた精神は道徳から来ているが、これは単にその薄汚い精神を美化しただけだ。
人間の美化という真に汚れた精神がきれいに見せているだけなのだ。
汚いとか卑怯とか言う前に、それらを一旦、保留に置いておき、本当のことを見極める。
これが哲学者のお仕事ではなかろうか。

以上!

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